表裏
「じゃあ、行ってきます!」
「うん、頑張ってね。頼りにしているよ」
「ギャヴィンもね!」
「うん、ありがとう」
なぜか皆、テントの幕を潜る前に、ギャヴィンに掌を合わせてから出ていく。
ついさっき、ほんの十分前には、首だけのヤツを見て悲鳴をあげていたのに。
(こっわ……というか、なんでそんなに懐いているんだよ)
この男がしたことは三つ。
自己紹介、要求の受け入れ、激励。
ただ話すだけで、なぜこんなに、あいつらの心を掴めるのか。それとも、あいつらがちょろいだけなのか。
「ほら、エリゾ・ロッシ。君には、百面相している暇なんてないよ」
口の端を持ち上げ、蠱惑的な笑みを浮かべるその顔に圧されたので、もやもやとする頭の中を振り払い、黒革の小さなケースを抱える。
俺がこれを、あいつらに打たなければ、何も始まらないのだ。
テントの幕を持ち上げ、辺りを確認する。遠くで、客たちの入場する列が騒がしいが、こちらの方はしんとしている。
早く通り過ぎればなんにも、心配いらないだろう。
「こういうのは、堂々としないと。怪しく見えるよ。身構えないことだ」
いつの間にか、ギャヴィンがテントの外に立って、「早く行け」とでもいうように、その方向を指している。
ぎょっとしたのを悟られないように、幕を大きく捲り、見られても構わないと思って歩き始める。
「いい子たちだね、君のお仲間たちは」
後ろをちらりと見ると、ギャヴィンが優雅に、けれどぴたりと俺の後ろをついてきている。
「なんで、あんたも来るんだよ」
「僕がいたほうがいいでしょ? 何かあっても長の僕がすぐ責任取れるから」
「監視じゃねえか」
「見方によっては、そうとも言えるね」
にこりと笑うだけで、こちらの言葉がなんにも響かない。
いい感じはしないが、諦めてしまったほうが早い。文句を言い続けるのは無駄だから、ただ向かうことに意識を向ける。
(こいつみたいな、瞬間移動ができたら、楽なんだけどな)
さっきから見せつけられている、瞬間移動のような技や、首だけになるのが、こいつの能力なんだろう。
(そういえば、他の奴らの能力のこと、しっかり聞いたことないな……あのルナって奴は、どういう能力なんだ?)
首を振り、ふと湧き出た、どうでもいいことを遠ざける。
第二テントへ続く裏道は、客の入場口とは違い、細く暗い。
表の通路から一本外れるだけで、油灯の明かりがほとんど届かなくなる。日が長くなってきたとはいえ、積まれた木箱の輪郭や杭が見えにくくなり、うっかり躓くことだってある。
「そういえば」
ギャヴィンが、また話しかけてくる。
「君は、明日からどうするの?」
質問の意図が分からず、ちらりと見やると、奴は肩をすくめた。
「さっき、あのガイアって子を含めて三人は、こっちに来るって決まったでしょ?」
さっきの会話を思い出す。
ガイアの要求を飲むと、ギャヴィンが答えたとき、ガイアと離れたくないと二人も一緒に行きたいと言い出したのだ。
「マルコ・マリーニ一人の消息不明に加え、九人が一晩でいなくなって。いくら団長たちでも、顔色が変わるよね……残った仲間がひどい目に遭うかもしれない。なのに、君は同行を止めなかった」
足が一瞬止まりかけると、ギャヴィンの顔が覗き込んできた。
「君や、残りの子が、特別公演に出る羽目になるかもしれないよ?」
こいつらの組織について行って、何が待っているかは分からない。だが、少なくとも今のような、ただの曲馬として扱われ、人間と思われない生活は、こいつらの様子を見ていれば心配ないことは分かる。
こんなところで一生を終えるより、ずっといいに決まっている。
なのに、そんな希望を前に止めろ、だなんて、言えるはずがなかった。
全員、幸せになってほしいから。
だが。
知らない世界に飛び込んで、失敗したらと思うと。他の奴らも、組織についていこうとは言えない。
何度も、線引きしてくるギャヴィンたちの言い回しから後戻りできないのは確かだ。なら、今のまま……
いや、一生を曲馬として生きるのは、嫌だ。
抜け出したい。
でも、俺は抜け出せない。
「なるほど。だいたい、君の考えていることは分かったよ」
ギャヴィンはそう言って、唇の片端を上げた。
「うん、やっぱり。僕たちの仕事を全うするだけだ」
「……なんの話だよ」
「ん? こちらの話。よし、着いたね」
ギャヴィンは、見えてきた第二テントの裏口に向かって、先にスキップしながら行ってしまう。
なぜあんなに、うきうきとできるのか。
「お先にどうぞ」
幕を持ち上げ、手で促すこの男に一言、言ってやりたくなったが、言ったところで受け流されるのが目に見えたので、喉元で押し留めた。
入った瞬間に、ホコリ臭さと遠くから香る香水の匂いが混じった、なんとも言えない微妙な匂いが鼻についた。
「あいつらの待機所は、こっちの左の道だから」
「うん、ありがとう」
一応、案内するつもりで声をかけたが、言い終えるよりもわずかに早く、ギャヴィンは先に左に曲がった。口ぶり的に、知っていたらしい。
それにしても、いったいどうやって、こんなに中のことを調べたんだろうか。誰か、買収して情報でも集めたのか?
「おい」
後ろから、声がした。
振り向くと、道具係の男が、こっちを睨んでいた。
「なんで、そっちに行こうとしてる? 出番組はこっちだろうが」
訝しげな顔だったが、持っている黒革のケースに目が止まると、目の色が変わった。
「なんで、出番の奴らにべったりのお前が、今日はそっちに行く? なんか企んでいるな?」
(くそっ……なんで、妙に勘がいいんだよ)
言い訳を急いで考えながら、ギャヴィンの方を見たが、誰もいない。
(は? あいつ、逃げたのかよ)
「おい、答えろ!」
男が、近づいてくる。
(くそっ……! あいつ、絶対一発殴ってやる)
頭を必死に回す。昼の公演の片付け。忘れ物。夜食を届けに来た。眼鏡男に頼まれた何か。どれでもいい、どれかをそれらしく——
「ちょっと、道具を——」
言いかけた瞬間、男の口がぱくぱくと、息苦しそうに動いた。口は開いているが、声が出ていない。両手が、自分の喉元を掻きむしるように動く。
顔が赤くなっていき、何かに首を掴まれているように、体が仰け反り、足が地面から少し浮く。
目の前の怪奇現象に、とてつもない悪寒が走る。
ばたばたと、足が空を蹴り、男の目が白く裏返った。
ふつりと突然、男の体は、糸の切れた人形のように、その場へ崩れ落ちた。
「よし、一丁上がり」
地面に伏せた男の真後ろから、ギャヴィンの声が聞こえた。
暗がりの宙が揺らいだかと思うと、奴が現れた。上着の袖口を、余裕そうに軽く払っている。
「……殺したのか?」
「ん? いいや。今は寝てるだけだよ」
そう言いながら、足元の男を、軽やかに飛びまたいで、こちらへやってくる。
「よし、行こうか。時間は有限だからね」
ギャヴィンは、何事もなかったように歩き出す。
足が、縫い付けられたように震えて動けない。
が、確かにこの男の言う通り、時間は有限だ。無理やりにでも、前へ動かそうとする。
意外にも、思うより足はすんなりと動いた。
しかし、背筋はまだ、冷たいものが這い上がってくる。
*
テントの隅に、鉄格子で組まれた大きな檻がひとつ。中に三つの影が揺れている。
ルーカは、奥の隅で丸まって寝ているらしい。いつも、移動させられるときは睡眠薬を入れられているせいで、まだ起きられないんだろう。ルーカはまだ、ここに来てからの日が、二人に比べて浅いので睡眠薬の効きが深いのだ。
その手前のあの少女は、膝を抱えて座り、いつものように、何もない宙をじっと見ている。
アニタは、格子扉の近くに座り、鼻歌を歌っている。
アレを打って以来、起きていてもずっと落ち着いている。それが嬉しいと思いつつ、やはり終わりを意識して目をそらしたくなる。
「……アニタ」
南京錠に手をかけながら、小さく呼ぶ。
鼻歌が、止まった。
首が、ゆっくりとこちらを向くと、少しだけ首を傾げた。
「やあ。出かけるぞ」
錠を外し、格子を開けて中へ入る。
アニタの目が、まばたきを一つした。
「……マルコは、どこ?」
喉が、詰まる。
最近、何度もこれを訊いてくるのだ。
「マルコのところに、行くんだよ」
「ほんと?」
アニタの顔が、ゆるりとほどける。子どもみたいに、歯を見せて笑った。
「……その人は?」
視線が、俺の後ろへ向いた。
「ああ、この人は……」
ギャヴィンは微笑むと、アニタの前にしゃがんだ。
「はじめまして。僕はギャヴィン。君たちを案内する役を仰せつかった。よろしくね」
アニタは、しばらくその顔を見ていたが、こくりと頷いた。
警戒はあまりしていないようで、安心した。ひとえに、人の首を絞めて落としたばかりのくせに、こんなに爽やかに人と話せる、気味の悪い切り替えのお蔭だろう。
「アニタ。出かける前に、薬を打つから」
黒革のケースを開いて、そのうちの一本を取り出す。
「ちょっと、痛いけど。我慢してくれ」
「うん……分かった」
肩の布を少しずらして、首の付け根を探る。
教わった場所を指で確かめ、指先が震えないように、息を止める。そして、ゆっくりと針を入れた。
アニタは、びくっと手を動かしたが、抵抗はしなかった。
「やあ、僕はギャヴィン。よろしくね。ちょっと、ちくっとするけど、大丈夫だよー」
後ろを振り向くと、ギャヴィンはあの少女に微笑みかけながら、注射を手早く打っていた。
「……最初から、あんたがやれば良かったんじゃ?」
「いやいや。何が起こるか分からないからね……はい、終わり! よく頑張ったね」
あの少女は、ギャヴィンの声に全く反応しなかったが、こちらも何事もなく済んだようだ。
「エリゾ……」
アニタが小さく呟いたので、慌てて彼女を見ると、にこにこと微笑みながら、こちらを真っ直ぐ見つめていた。
「どうした? どこか、悪いところでも?」
「ううん」
ゆっくりと首を振る。
「エリゾ……ありがとう。大好き」
そう呟くとアニタは、ふにゃりと笑った。
キーンと、耳鳴りが始まる。
今のは、何なんだろうか。まるで——
「はじめまして、僕はギャヴィン」
小さいあいつの囁き声に、引き戻される。
「ちくっとするけど大丈夫。そのまま眠っていていいよ」
眠るルーカの肩に、ギャヴィンが的確に針を入れている。三分の二を、やってもらったことは、少し申し訳ないが、あの男のほうが確実だろうから、良かったとさえ思ってしまっている。
「さて、運ぶ段取りだけど」
ギャヴィンは、腰に手を当てながらこちらに振り向く。
「あの少女は、僕が手を引いていくよ。ルーカ・セッラは、君が背負った方がいいね。知らない人間に背負われている状態で起きちゃうと、びっくりするだろうし。あとは……」
ギャヴィンがアニタに目を落とすと、彼女はぎゅっと俺の手を握ってきた。
「うん、エリゾ。君が手を引いて行きなさい。その方が安心だろう。ガイアたちと合流したら、一人ずつ任せよう」
「分かった」
アニタに目配せし、先にルーカの傍へ行き、背負う。こちらが言うよりも前に、アニタは手をするりと握ってきた。
「そういえば」
三人で格子をくぐりながら、訊いてみる。
「アシュリーとか、カリンとかいう奴は、来てないのか」
「ん? ああ、来ているよ」
「どこに」
「彼女たちは今、手が離せなくてね。まあ、そのうちに合流す——」
ギャヴィンは、言葉を途切れさせるとともに、顔をしかめた。奴の見ている先に視線を向けると同時に、影から眼鏡男が現れた。
「ふーん、なるほど」
眼鏡男は、鼻で笑いながら、眼鏡を人差し指で押した。
「おかしいと思ったんだよな。お前が急に、あんなに強気になるものだから。様子を見に来て正解だった」
冷笑を浮かべながら、眼鏡男は腕を組む。
「まさか、〈十字谷の会〉と手を組んだのか? お前に大胆さがあったとはな。金もそれで回収できたのか」
ねちねちと、こちらを追い詰めようとする声音。ルーカとアニタを、あの目から守ろうとするも、限界がある。知らずのうちに、唇を噛みしめていた。
「いやいや。僕は〈十字谷の会〉のものではないよ」
余裕綽々と、ギャヴィンが奴の前に出た。
「ほう……? では、いったいどこの物好きが、こんなガキに手を貸したのか。気になるのでお教えいただいても?」
「はははっ、気になりますか?」
「それはもちろん」
「そうですかー、それは残念でしたね。なぜなら——」
ギャヴィンの、ちっとも焦らない態度に苛立ったのか、奴は片眉を上げた。
「————お前は一生、僕たちは知ることはないから」
低く沈んだ声が、床を揺らした。
これは、ギャヴィンの声だったのか? と思うほど、ぞっとする声に、鳥肌が立つ。
次の瞬間、ギャヴィンの姿が揺れ動いたかと思うといなくなり、眼鏡男の口から、喉が締まる音がした。
両手が、自分の喉を掻きむしり、そのはずみで眼鏡が床に落ちる。
顔が赤く染まり、やがて、その体は崩れ落ちた。
「はい、おしまーい」
ギャヴィンは、倒れた男の横にしゃがみ込むと、どこからか取り出した布を丸めて、開いたままの口へ押し込んだ。
そして、驚くほど手際よく、その辺に落ちていた張り綱の切れ端を拾い上げると、手首と足首を素早く縛り上げた。
「よし、じゃあ後は……」
空になった檻をちらりと見ると、眼鏡男の体を軽々と抱えると、投げ入れるようにして檻の中へ放り込んだ。
すらりとした体格のくせに、どうしてそんなことができるのか。
「君、檻の中は初めてなんじゃない? ゆっくり楽しんで」
そして、にこやかに手を振ると、鉄格子を閉じ、南京錠を掛けた。
「エリゾ。悪いけど、ここを溶かしてくれるかな」
ギャヴィンはこちらを向くと、指で鍵穴を示した。
やろうとしてることは、決して良いものではないが、それを止める気にも一切ならない。
金属を溶かすのはあれ以来だが、片手を鍵穴にかざした。
火を絞る。細く、鋭く、一点に。
金属は、じりじりと色を変えて赤くなり、輪郭が滲み、やがてどろりと垂れた。
「うん、上出来だよ。よくやった。さあ、行こうか」
ギャヴィンが、あの少女の手を取った。
ルーカを背負い直すと、その後に続いて、アニタの手を引き、檻を後にした。




