前夜
「さて。マルコ・マリーニに会って帰るかい?」
エリゾは、一瞬躊躇したものの、ギャヴィンの問いに頷いた。
「二階に上がって左手の手前の部屋だよ」
「知ってる」
ギャヴィンは微笑むと、流れるように手でその方を促す。
エリゾは不安げに視線を彷徨わせたが、ゆっくり腰を上げると、応接間の外へと向かう。
「ミゲル、一応様子を」
煩わしげなため息が吐き出されたが、ミゲルはさっと腰を上げ、後に続いた。
扉が閉まる音が響いた。
「さて。明日は長い日になる。今日は早く休もう。明日の動きに不安や疑問はあるかい?」
無言の中、それぞれの目が互いを素早く行き交うが、それ以上は何もない。
「明日が終われば……」
余計なこと、のような気がしたが、喉元まで出かかった言葉は、そのまま口からこぼれ出した。
「あいつらを、どうする? どちらでもよいと言いつつ、本来はあいつらも保護対象だろ。選ばせる気か?」
ギャヴィンは相変わらず、清々しい笑みを浮かべた。
「もちろんさ。でも、彼らはここに残る道を選ばないと思うよ。カルーセル座の上の人間がいなくなれば、彼らを保護しようとする奴らはいなくなるからね」
「ああ、やっぱり始末するんですね。団長と高官と、その関係者」
カリンの声が、あまりにも軽く落ちた。
一拍遅れて、意味が腹に降りてくる。
座の上が消えれば、あの子たちを囲う者もいなくなる——残る道を作るための後始末と見せかけて、痕跡を消すための仕事をしてきたのだ。
「特別公演中に、彼らは死ぬからね。特別に任務として分ける必要もないから。それに、彼らが可哀想じゃないか。知らずのうちに、いくら恨みがあれど、また人殺しになっていたなんて分かれば……まあ、覚えているのはさっきの彼だけだけど」
能力者の存在を、一般界の人間に知られることは現状、互いにとってデメリットしかない。こちら側の世界に引き入れるか、始末するか。
そもそも、能力者を食い物にしていた観戦者にかける慈悲など、ないが。
「でも、彼らにはなんて説明するんですか?」
「作戦通り、滞りなく完了したならば、政府側の軍人に待ち伏せられていたために、攻撃されたとでも言えばいい。まあ、これは上手くいったらの話。覚醒失敗者という爆弾を扱う以上、計画通りはあり得ないからね」
言い終えると、ギャヴィンは満足げに唇の端を上げ、両手を軽く打ち合わせた。
「というわけで、明日は非常に忙しい。各自部屋に戻りなさい。装備の準備は、ミゲルと私で、あらかた済ませておくから心配ない」
笑いながら、真っ先にカリンが腰を上げる。
「ラッキー。あれ、好きじゃないんですよね。ありがとうございまーす」
アシュリーも、遅れて立つ。軽く会釈をしただけで、何も言わずに出ていった。相変わらず、無駄がない。
二人が出ていくのを見送ってから、ギャヴィンはこちらへ向き直った。
「君たちは特に、明日は色々と気を回さなくてはいけないだろうから。よろしくね」
「もちろん、お任せください」
グレンは、背筋を伸ばして一礼した。普段の柔らかい言動とは異なる。
慌てて自分も頭を下げる。目の端で、隣も同じようにしているのが見えた。
「うん。頑張ってね」
その言葉に、なぜか引っかかりを覚えた。
含みがあるようにも、何もないようにも聞こえる。ただ、こちらを真っ直ぐ捉えたその目だけが、やけに鮮明に映る。
背中を、ぞわりとしたものが走る。考えるのをやめて、部屋を出た。
狭い階段を上がりきったところで、二人が立ち止まっているのが見えた。チョーカーを外し、それぞれの画面を突き合わせている。
「よし、通信機能使用不可、になってるね」
二階には全域にジャミングが張られているが、効いていることを毎度、目で確かめる。
技術力の高い拠点とは違う。SBP下では必要な工程だが正直なことを言えば面倒くさい。
「このレンガ作りのお部屋とも、もうお別れだね。最後の夜ということで楽しんでー。そちらの三人もー」
カリンは軽く手を振ると、さっさと部屋に入る。
アシュリーは戸惑っている様子だったが、こちらを見ると小さく会釈して部屋に入った。
扉が閉まるたび、取っ手の脇の小さな装置に、緑の光が灯る。
自殺や急変に備えて置かれたものが、今は在室記録として働いている。
廊下の奥の一室から、甲高い声が漏れてくる。
ジュリの声が突き抜けてくるその扉の脇には、緑の光が四つ並んでいる。
「——心配しなくても大丈夫ですよ! いいですか? グレン様たちはプロなんです!」
二人がチョーカーの留め具を外し始めたので、それに倣う。単純な作業をしているせいか、ジュリの声がやけにはっきりと耳に入ってきた。
「アシュリー様やカリン様のことはよく知りませんが、特にシン様は"狂犬"と恐れられるほど強いんですよ! ルナ様なんて、もうすんごいですから! "デウス・エクス・マキナ"的な存在なんです!」
"狂犬"。
よりによってそれを、賛辞として使うのか。
喉の奥で笑いが弾けそうになり、慌てて押し込む。その隙に、手の中のものが滑り落ちた。
「はあ……あ、あの、"デウス・エクス・マキナ"、とは?」
「えっと……なんでしたっけ? ミゲル様」
深いため息が壁越しに聞こえた。
「……機械仕掛けの神、という意味で、古に使われていた言葉だ。絶望的な状況を圧倒的な力や偶然で、無理やり解決するご都合主義的な存在のことを指す。意味も分からず言葉を使うな」
足元で乾いた音がする。屈んで取ろうとしていたものを、白い手が既に掬い上げていた。
「い、意味が分かってなかったわけではないんですよ! ただ、うまく説明できないので……助かりました。ありがとうございます」
「ちなみに、"狂犬"の呼び名は、褒められたものじゃないぞ」
「えっ……あっ……良かったあ。本人に言わなくて」
安堵の混じった声が漏れる。
二階では通信に加え、索敵型能力——つまり、ジュリの能力も遮断されている。だからこそ安心して喋っているのだろうが、声が壁を抜けることまでは、遮断できていない。
もう日が経っているのだから、学んでもいいはずなのに。
こんな余計なことばかり頭に浮かんでいるが、体の内が脈打つように暴れている。
差し出すでもなく、握らせるでもなく、彼女は俺の手のひらにチョーカーを置く。
わずかに触れた指先の冷たさに肩が跳ねそうだったが、平静を装って受け取る。
「と、とにかくですね! 私たちと、エリゾさんにお任せください! 必ずお姉さんを助けますから! だから、ゆっくり休むのがあなたの仕事ですよ! ね! エリゾさん!」
「あ、ああ……何も心配いらない。俺が、なんとかするから。だからここにいろよ」
その一言を最後に、声が途切れた。
隣に目をやると、青灰色は扉の方に向いていた。
「マルコさん……? どうしました?」
「え……いや、なんでも、ない……」
その何とも言えぬ間を塗り潰そうとしてなのか、ジュリの甲高い声が戻り、流されていった。
マルコの声音と、あの間が妙に耳に残った。
「さて、通信機能は落ちているね?」
グレンの声に引き戻される。
手の中のものに視線を落とし、画面を開いた。通信機能は、落ちている。
「よし、じゃあ部屋に戻ろう。そろそろ、僕たち三人での行動期間が終わるね」
「……そうですね。でも、明日が一番の山場ですから」
「そうだね。頑張ろうか。じゃあ、おやすみ」
グレンが、行けとでも言うように手を振る。
年長者として、こちらを見送ろうとしているのか……?
ルナは小さく頭を下げると、迷いなく自室へ消えた。自分も軽く会釈をして、扉を押す。
まだ収まらない鼓動を宥めるように、息を深く吐き出す。
手の中のチョーカーに、もう一度視線を落とし、画面を開くとやはり、通信は繋がらなかった。
息を吐き出しても、鼓動はより早まっていく。
光る画面に恐る恐る、指を伸ばした。




