同類
慣れ始めた、この閑静な家並みを抜ける。
もう明日になれば、ここに戻ってくることはないだろう。
故郷でもないし、住み慣れた場所でもないので、情が移るとは思えない。けれど、いつ死ぬかも分からない身であるがために、二度とここへ足を踏み入れることがない可能性が頭を過ると、少し寂しさを覚えるのだ。
いつもの一軒が見えてきたところで、足を止めた。
赤みのあるブラウンの髪の主が、こちらに気づき、振り向いた。
「……よ、よお」
エリゾ・ロッシは、ポケットに手を入れながら、どこか気まずそうに言う。いつか会ったときより、なぜか、おずおずしたような態度に見えるのは、気の所為だろうか。
「おや、今来たところかい? もうすぐ開けてくれると思うよ」
「……お前らが、開ければいいんじゃねえの?」
「僕たちより、中から開けてくれたほうが早いから。あ、ほら」
グレンの声とともに、扉が内側から開いた。
「お待たせしました! どうぞ」
ジュリが満面の笑みを浮かべ、中へと促す。
確認の間もなく開けた彼女に、何か言いかけ、諦めたかのように首を振るグレンも、もうこれで最後になるだろう。
「ほら、入った入った」
彼女はエリゾの背を強引に押し、応接間へ押し込む。
エリゾは、困惑したようにこちらに視線を向けながら、中へと入っていった。
「おお、おかえり。あと、こんにちは」
組んだ足の上で頬杖をつくギャヴィンは、男の自分から見ても絵になっていた。だが、その目の奥に映っているものが、不気味に思えて仕方なく、アンバランスさが奇妙な気にさせてくる。
「ほら、座りなよ」
場所を詰めながら、カリンは席を促した。
仏頂面のミゲルが腰を浮かし、カリンとアシュリーの二人が座る三人掛けへと移る。
こうして空いた、一人用のソファと三人掛け。
自然と、来客のエリゾに一人用を譲ることになるため、余った三人掛けに俺たち三人が座ることになる。
グレンはギャヴィンの方に詰めたが、隣に立つルナが明らかにくるりと身を翻そうとした。
咄嗟に彼女の肩を掴み、壁際へ行こうとするのを止めた。青灰色の目が、まばたきをする。
考えていることがなんとなく分かり、思わずため息を吐きそうになるが堪える。
俺が先にグレンの隣へ入り、目配せをすると、彼女はおずおずと自分の隣に腰を下ろした。
「君たちずっと、それをやってるね」
グレンが呆れたように、面白そうに笑ったが、どう反応すべきか分からず、黙ってやり過ごす。おまけと言わんばかりに、エリゾからも妙なものを見るような視線が刺さってくるので、無視を決め込んだ。
卓の上には、カルーセル座の図面が広げられている。以前より更に書き込みが増えている。
「……思うんだけど。なんで、こんなに細部まで詳しい図面を、部外者のあんたらが持っているわけ? 協力者でもいんの?」
「おお。内部の人間の君から、お墨付きを貰えて、良かった。さすが、調査に抜かりがないね」
気味悪そうな顔で図面を見つめるエリゾを放って、ギャヴィンはアシュリーらに微笑む。
まさか、知らないうちに中に彼女が潜り込んでいたとは、夢にも思わないだろう。
「さて、君たちの様子を見るに、問題なさそうに見えるけれど。お願いしたことはできたのかな?」
ギャヴィンの問いに、グレンは頷きながら茶封筒を渡した。
「うん、さすがだね」
満足げに笑うと、ギャヴィンは懐から、それとは別の茶封筒を取り出した。
「さて、エリゾ。君の協力の対価として、これを」
そして、その二つの封筒を、ちらちらと視線を泳がせるエリゾの前に差し出した。彼は茶封筒に視線を定めると、訝しげにそれと、ギャヴィンの顔を見比べた。
「……何だ、これ」
「ファビオ・リッチの借金。既に回収済みの二十七ヴァロルを除いた、一四三ヴァロルだよ」
「……なんで?」
「君の立場が悪くならないようにね。回収できなくて、手をこまねいていたんだろう?」
ギャヴィンは、背もたれに寄りかかると、にこにこと笑いながら指を組む。
「ついでに、〈十字谷の会〉には、君たちには関わらないよう、忠告もしておいたから。安心していいよ」
「は? どうやってだよ。ギャングが、そんなので言う事きく訳がないだろ」
「いいや。大丈夫だろう?」
ギャヴィンは俺たちに問いかける。
下っ端が言う事きくかは危うい気はしたが、恐らく、ボスからきつく言われていることだろう。頷いてみせた。
「そうかよ……あと、なんで封筒二つ分かれているんだよ」
「ん? 分割だから。じゃあ、明日の話をしようか」
さらりと嘘——ではないが、あちら側が全て払ったと誤解させることを言って流す。
グレンが出した茶封筒は確かに、先ほど〈十字谷の会〉から回収したもの。だが、ギャヴィンが出したものは〈アポクリファ〉の資金から出した、ファビオ・リッチの利息分である。
ギャヴィンは、図面を指で叩いた。
「明日の特別公演にて計画を実行する。目的はアニタ・マリーニ、ディノ・ガッリ、ルーカ・セッラ、レア・コンティ、氏名不明の十歳程度の少年、同じく少女の、計六名の救出。これで間違いないね? エリゾ」
エリゾは頷いたが、その顎の動きはひどく鈍かった。
「どうかしたのかい?」
グレンが、穏やかに首を傾げる。
「いや……あんたらでも、あの二人の名前は、分からないんだな」
エリゾは、小馬鹿にしたような口ぶりながらも、どこか淋しげな顔で言った。
アシュリーの報告書には、名前が最後まで判明せず、埋まらない人物がいたが。その理由がよく分かった。
「僕らでも、調べられる限界はあるのさ。色々、それらしい人物を当たってみたけど、分からなかった」
ギャヴィンは、軽く肩をすくめてみせた。
困った顔をしているが、困ってはいないだろう。名前も生い立ちも分からずじまいの人間、死体が出てくるのは、決して珍しくもないので、感覚が麻痺してしまうのだ。俺自身にも、同じことが言える。
エリゾは、俯いたまま小さく頷いた。
「何度も、二人には訊けないかと頑張ったんだ。でも、ダメだった。二人とも口がきけないし、読み書きもできない。あの少年は、たまに少し頷いたりしてくれるけど、あの少女は、こっちの言葉が届いてるかも分からないし」
膝の上で、指が組まれては解かれる。
「いつも、そんなふうに呼んでいるのかい? あの少年などと。仮名で呼ぶこともなかったんだね」
「……来たくて来たわけじゃないのに、名前まで別物にされるのは可哀想だと思っただけだ」
「そうか……話を戻すよ。明日の特別公演の演目の確認をしようか。まず、第一部はあの少年対ライオン。第二部はレア・コンティ対、債務者カルロ・コンテ。第三部はディノ・ガッリ対、債務者エンリコ・パストーレの予定のようだ」
「いや、待てよ。なんで、内容知ってるんだよ」
「内容って?」
ギャヴィンが首を傾げると、金髪がさらりと流れた。
「なんで、演目内容まで分かるんだよ。いつも俺は、直前になるまで知らない」
「へえ、そうなんだ。さすがアシュリーだ」
エリゾの問いを、ギャヴィンは全く気にした様子もなく流していく。
「話を戻すよ。出演予定のないアニタ・マリーニ、ルーカ・セッラ、あの少女の三人の救出を、先に行う。出演予定がなくても、代役の可能性があるため第二テントにいる彼らに、エリゾ、君は三人に一本ずつ鎮静剤を打ち、搬送を確実なものにしてほしい」
ミゲルは卓の上に、黒革の小さなケースを置いた。
留め具が外されると、内側の布に、注射器が十本ほど並んでいる。
それを指差すでもなく、ただ顎で示した。
「本来は、例えば手首とかのそこそこの血管に入れるのがいいが、お前にそんな技術はないだろう。だから、僧帽筋——首の付け根と肩の間に打て。そこが一番安全で確実だ。あとの残りは予備だが、しくじるなよ」
いつか「口を縫い付ける」と脅されたせいか、エリゾの顔に明らかな強張りが走った。
「……その、それは、アニタにも、効くのか?」
「さあな。状態を見ないことには分からん。効かない可能性も覚悟しておけ」
エリゾはややあって頷いたが、やるせない顔で静かに目を伏せた。
第二テントの中央——闘技場を囲む観客席から、檻の区画へ抜ける動線を、ギャヴィンのすらりとした指が撫でる。
「三人を連れ出すことができたら、次は出演者の救出。本当は、演目開始前に完遂したいけど、警備や人目を考えると、演目中の手薄な隙を狙わないと難しい。だから、君たち内側の人間の協力が必要になる」
「それは、分かってる……ただ、演目に出る奴らを、見殺しにしてる気がして、居心地が悪い」
ギャヴィンは、ああ、と軽く声を漏らした。
「債務者の安否を気にしているのかい? そちらは、こちらで手を打つから、心配しないでいい」
「手を打つって、どうやって」
「大丈夫。気になるなら、明日の楽しみにしておきなさい。とにかく、君は時期を見て、残る三人にも鎮静剤を打ち、輸送の準備を整えること。招待状持ちの三人が、頃合いを見て裏に来て移動に立ち会うから」
エリゾは口を開きかけ、そのまま閉じた。
膝の上で握った拳が、行き場をなくしている。
視線がちらりと横へ流れ、一瞬こちらを見たような気がしたが、すぐ逸らされた。
「テントから移動させたら、その後はどうするんだ?」
「ミゲルが近くで輸送車を控えている。乗せて拠点に移す。一番の理想は、これで計画が進むことだけど。まあそう簡単にうまくいかないだろう。適宜指示を出すよ」
頷きはしたが、肺の底から絞り出したような息が続いた。
「あの少年も、レアやディノも、結局、闘わなくちゃならないのか」
「そうだね。でも、なるべく闘わずに済むように対策はとるよ」
「どうやって?」
「すまないが……君はこちらの組織の人間ではないから、今ここで詳しくは話せない」
エリゾは据わった目でギャヴィンを見る。舌打ちしそうな口の動きをしたが、直前で堪えたのか鳴ることはなかった。
「だとしても、協力するんだから、少しは教えてくれてもいいんじゃないのか?」
「出来うる限りは話すよ。でも君は、すべて終わったらこの世界で生きていくつもりだろう? こちら側の世界を不用意に知らないほうが、君のためだ。仲間のことだけ考えていなさい」
エリゾの目が、わずかに見開かれた。
怒りでも、反発でもない。
言われた意味を数秒かけて飲み込んで、それから、力の抜けたように視線を落とす。
「頼るもんか」と言わんばかりの態度を取り続けていたが、いつの間にか、こちらの線の内側にいるような気になっていただろう。本人には、その自覚もないだろうが。
思い出したくもない昔が蘇るので、静かに息を吐き出して紛らわせる。
ギャヴィンの細い指が、一本ずつ立っていった。
「とにかく、君がやるべきことは三つ。一つ、六人に鎮静剤を打ち込むこと。二つ、鎮静剤を打った彼らの輸送と、輸送中の障害を避けること。三つ、決して難しくない仕事だが、何が起こるか分からないことは覚悟しておくこと」
「分かったってば」
エリゾは顰め面のまま、乱暴に頷いた。
「やることはやるさ。でも、本当にあんたたちで何とかなるのかよ。いくら、あんたらが、あいつらのような人をよく知っていても、こんな、こんな——」
言いかけて、視線がまた横へ流れた。しかし、また一秒も満たず、すぐに戻る。
「……人数も、少ないのに」
(ああ……そういうことか)
わずかにあった違和感が線を結んだ。
以前に比べ、エリゾの視線がきょろきょろと動くのは妙な気がしていたが。視線の先は全部、同じ方向なのだ。俺の隣に座る白髪に。
当の本人は、図面に目を落としたままで、ちらりとも視線を返すこともないが。
思えば、玄関の前で会ったとき、あれだけ強がっていた奴が、どこかおどおどしていると感じる素振りがあったのも、ルナがいたからだろう。
窮地を救われたのに、かといって恩着せがましさもなく。おまけに、自分と同じ種類の人間でこの姿。
自覚があるようには見えないが、妙な気を起こし始めているのかもしれない。
胃のむかつきがせり上がる。ついでに貧乏ゆすりを始める膝を、手で押さえつけた。
ギャヴィンは、どこか楽しげに笑った。
不安を宥める顔ではない。もっと悪い、面白がっている顔で。
「心配するのはいいことさ。でも、覚えておいてほしいのは、そうだな……君は、僕たちのことを何にも知らない、ということだよ」
エリゾは、不服そうに片眉を上げた。改めて、情報量の違いを突きつけられたことに、腹立たしさを覚えているのだろうか。
だからといって、こちらは何をするわけでもないが。この世は、公平であることの方が少ないのだから。
「そうだ。マルコ・マリーニだけど。一昨日から歩けるようになっているよ。でも、明日が終わるまではここにいるのを勧めるけどどう? 一人護衛を置いておくし、よっぽどのことがない限りは安全だよ」
「……ここに置いておいてほしい。何が、起こるか分からないから」
尤もらしい理由だった。実際、間違ってもいない。
だが、エリゾの顔は、明らかに曇っていた。
(そういえば、アニタ・マリーニのことは言ったのか?)
いや、言ってないのだろう。彼女に時間がないことを。
無理もない。いくら非がなくとも、責任があると思えば、打ち明けづらい。
エリゾの色々な考えが、手に取るように分かる。それがひどく腹立たしく感じた。




