星の死に方
「忘れる薬……?」
大きくため息を吐くと、膝を揺すりながら彼は続けた。
「打つと、その前後の記憶が抜ける。全部じゃねえ……嫌なことだけ、抜けるというか……上手く言えねえけど、あいつも、『嫌だったことを、嫌だと思わなくなる』って言ってた。そうすれば、勝手に忘れるんだと」
空気がじりじりと変わる。
(俺だけじゃない、らしいな)
忘れる薬。
それは〈アポクリファ〉にとって、未知の代物らしい。
「それを使って、マルコはダニエレ・ロムアルドのことを忘れたと?」
「……そうだ。だから、人が死んだ晩のことは、まるごと抜けている。誰と会ったかも、いくら受け取ったかも。その夜は何をしていたかも」
「なるほどね。それ、支障はないの? 記憶に齟齬が生まれるんじゃない?」
(こういうところは、さすが〈オリジン〉だな……よくも、声色変えずに続けられるよな)
苦手なところばかりが目についていたが、こういう場面での胆力だけは、素直に認めざるを得ない。思わず、ギャヴィンの方を見てしまう。
「丸ごと消えるから、知らないうちに、時間だけ経ってるみたいなことにはなってる。でも、疲れとか寝てたとか、色々言い訳してる……マルコ以外のときも、あの薬を使ったときは、周りに口止めさせてるんだ。『傷ついてるから、その話はするな』って」
「そうか。つまり、その薬を使っているのは、マルコだけではないと。君は使ったことはあるのかな」
「俺以外にはもう、皆使った……俺まで使ったら、崩れるから……」
「そうか……君は、自分で全てを背負うことにしたのか。頑張ったね」
慰めの言葉を掛けながら、ギャヴィンは不気味な笑みを浮かべている。
ずっと、面白いものを見つけたような目をしているが、今の目は、それが異常に強い。
(やっぱり、こいつ無理だな)
背筋に走った悪寒を紛らわせるために、聞こえないよう息をついた。
「つまり、ダニエレ・ロムアルドの件は事実。ただ、マルコ・マリーニはそれを覚えていない、というわけだね」
「……予想外だったんだよ」
エリゾは、両手で顔を覆った。
「能力で脅した時、あんなに動揺するとは思わなかったんだ。あまりにも混乱して逃げ始めたから、マルコは心配で慌てて追いかけて、そしたら川に落ちて……」
(半端に優しかったのが、仇になったんだろうな)
異能力の存在を知らない小心者なら、目の前の相手がさぞ、とんでもないバケモノに見えただろう。慌てて逃げるも、追いかけて来て——逃げているうちに、川の中に。
「俺達はいつもそうだ」
顔を覆ったまま、エリゾは続けた。
「殺したいとは思っていないはずなのに、いつの間にか人殺しになってる。ここに望んでいるわけじゃないのに、後戻りできなくなってる……血で穢れた俺たちは、ただ同じ場所で回り続けるしかないんだ」
窓に当たる雨音が、先ほどよりわずかに強くなり、部屋の隅々にまで届いている。
「君は、これからどうしたいんだ?」
ギャヴィンの声が、静かに降りた。
「どうしたいって……別に」
「今、僕が聞いているのは、できるかできないかという前提の上での話ではないことは前提の上で。君が望むのはなんだ?」
覆っていた手を下ろしたものの、エリゾはため息をつくだけで、時間が流れていく。
「……それを口にできないと、君は一生、曲馬であり続けることになるよ」
赤みがかった髪の下で、目が大きく揺れた。
口が開いては閉じ、唾を飲み込む音が何度か聞こえる。
「……あいつらが、人を殺したり、傷つけたりしなくてもいいようにしたい」
絞り出すような声だった。
「暴走してしまう奴らを、あんたたちが保護してくれれば、あいつらは静かに生きられるのか?」
「その努力はするよ。ただ……」
ギャヴィンは、目元にかかった金色の髪を掻き分けながら、声を落とした。
「酷なことを言うけれどね。覚醒失敗者というのは、『まだ息をしている屍』という表現に近い。精神は壊れているのに、肉体が生き続けている。そのヘクターという男の言っていることは、間違っているとは言いにくいんだ。彼らの終わり方は、二つしかない」
ギャヴィンは、指を二本立てた。
「一つは、少しずつ力を出しきって、静かに燃え尽きる。こっちなら、僕らが手を貸せる余地がある。発散の仕方を調整してやれば、間に合うこともある」
一本目が、折り畳まれた。
「もう一つは、溜め込んだまま、最後に一度で吐き出す。これは止められない。兆候が見えた時点で、終わりにさせるしかない」
もう一本も、静かに折られた。
「ある研究者はね、これを星の死に方に例えたよ。膨らみきって白い星になるか、爆ぜて散るか……」
「星の死って……なんだよ?」
エリゾは、困惑を悟られないためか、不自然に強い声音で言った。ただ、星が死ぬということを、実際に飲み込めてもいないようだった。一般界は、最先端知識とは隔絶されているから、無理もない。
「空に浮かんでいる星も、いつかは消えてなくなるんだ。僕らの寿命とは桁違いだけど」
「……よく分かんねえけど」
雑に髪をかき上げた手をそのままに、エリゾは続けた。
「要するに、どっちかしか道はないし、改善することもほぼないってことか?」
「そういうことだね」
ギャヴィンは、あっさり頷いた。
「……アニタは多分、そういうことになるよな」
声に、抑揚がなかった。
「次に暴走したら、殺すほかなくなるってのは、そういうことだよな。俺が、そうさせたから……」
訊いてもいないのに、出してしまった答えだろうということは、顔を見れば明らかだった。
「様子を見ないことには分からないけど、覚悟はしておいてほしい。助ける努力はする。でも、その時は君の友達を殺すよ」
「……なら、その時は、黙ってやらないでほしい。別れの言葉が届かなくても、別れを言って終わりにしたい。代わりに、あんたらの目的を手伝ってやってもいい」
「努力はするよ。確約はできないけど」
「そこは、約束する、て言うべきじゃないのか」
「僕は嘘はそんなに得意じゃないからね。君とは良い関係を築きたいし」
「そうかよ。それで? 俺に協力しろ、とか、そこのおっさんが言ってたけど。どうやって、アニタたちを連れ出す気なんだ?」
「アシュリー、よろしく」
ギャヴィンが顎で示すと、アシュリーは書き付けを閉じ、代わりに折り畳んだ図面をテーブルの中央へ滑らせた。
第二テントの見取り図。以前見せられたものより、書き込みが増えている。
「特別公演の日に、決行する。会場に入れる人間を作って、内側から動く」
エリゾは、身を乗り出して図面を覗き込んだ。
「あんたら、招待状はもう持ってるのか」
「まだ」
アシュリーは、短く答える。グレーの目が、ちらりとグレンに視線が行くと、彼は咳払いを一つした。
「……ただ、感触は悪くない。あの感じだと、彼は相当我々を客候補として気に入っているからね」
「……ああ、あの金持ちごっこか」
エリゾの目が、こちらへ向いた。値踏みするような、少し嘲るような色を含んでいる。
「というわけで、そのアニタという子の状態が気になる上に、時間を意識しなければならない。モランディ氏から少しでも早く招待状をもらうための方法はないかな」
「……焦らせれば?」
エリゾは、あっさりと言った。
「あいつは、金を取りっぱぐれることが何より嫌いなんだ。取れるはずだった魚が、網から出ていくのがな。逆に言えば、目の前にいる限りは、いつでも釣れると思って放っておく」
図面の上を、指がとんとんと叩く。
「だから、逃げそうな素振りを見せれば……」
「なるほどね……参考になったよ。ありがとう。さて、こちらの段取りを話そうかな。当日、君にやってもらいたいことがある」
ギャヴィンはゆっくりと、唇を三日月形に歪めた。




