無言の盾
風の音だけが、耳の中で膨れ上がっていく。背中に何もない。掴むものも、支えるものも、何一つない。
遠ざかる青灰色に、届くはずもないのに、まだ手を伸ばそうとしている。
宙を掴むばかりで、地面で体がひしゃげる感覚もない。
何もかも、いつまで経っても来ない。変わらない。いつまでも、ただ落ち続けている。
(なんでだよ……)
声が出ない。口を開き、音を吐き出そうにも、空気の音だけ。
胸が軋む、心臓の音だけが、肋の内側を殴りつけてくる。
——シン
(違う、俺は……)
——シン、シン
(だから、俺は違う。俺はっ)
「シン、起きて」
目を開けると、青灰色がいっぱいに広がる。
さっき、俺を突き落としたはずのその目が、強張った顔の俺をくっきりと映していた。
「気がついた?」
彼女——ルナが、なぜか間近に顔を寄せ、訊ねてくる。
なぜ、と聞き返しそうになる前に、記憶を手繰り寄せるようにして、頭の中がはっきりとしてきた。
ここは、故郷ではない。そこから遥か遠い西の国、旧エンディリア王国。
そして今、俺はシンだ。
貿易商社の御曹司ではなく、アポクリファの戦闘員なのだ。
記憶の混濁が抜けたことを察したのか、ルナはすっと顔を引き、向かいの椅子に静かに沈んだ。
その振る舞い、随分と事務的に見え、言いようのない空虚が胸の内を支配した。
「随分と魘されていたみたいだが、大丈夫かい?」
グレンが、困惑顔でこちらを見て言った。
肌に、シャツが張り付く感覚がある。まだ夏ではないのに、汗をかなりかいていたらしい。
「大丈夫です……ご迷惑をお掛けしました」
「いやいや、そんなことは——」
「ルナ様、シン様、グレン様! 今、お手隙ですか?」
大声で叫ぶ、ジュリの声が遮った。
声色的に、緊急事態ではないだろう。しかし、用事があるからと、あんな大声を出して呼ぶなど、原始的にもほどがある方法に、呆れを通り越して感心の境地に達していた。
「行こうか……」
頭を抱えるグレンに促され、とりあえず立ち上がる。
狭い階段を、三人で上がる。
前をグレン、後ろにルナ。当然のように、また挟まれる形になった。
(なんの行列だよ)
〈SBP〉は、任務中も休憩中も、こちらの都合を斟酌してくれない。相互監視というのは、端から見たら馬鹿な真似をしているようにしか見えないのだろう。良い知見を得た。
ジュリの高く弾んだ声と、低く落ち着いた声が聞こえてくる。
目が覚めたばかりのマルコ・マリーニは、随分と動揺していた様子だったが、薄っすらと、俺たちが駆けつけた記憶はあるらしく、想定よりも早く受け入れた。
看病という名の雑用を、「准員としての務めである」と意気揚々と取り組むジュリとは、たったの数日で随分仲が良くなったらしい。
「——つまり、値切りで大事なのは、いかに相手を見るか、ということです!」
「へえ……そうなんだあ」
半分開いた扉から部屋を覗くと、ジュリが得意げに力説している。マルコ・マリーニは、目を丸くして相槌をしている。
仲良くなった、というより、あのお喋りに付き合わされている、のかもしれない。
「失礼するよ」
グレンが軽く扉を叩くと、ジュリが跳ねるように立ち上がった。
「あっ、皆さん! すみません、お呼び立てして」
「いいんだよ。どうしたんだい?」
「はい! マルコ君が、お願いしたいことがあるとか」
しかし、マルコ・マリーニは、金魚のように口をぱくぱくとさせて、焦ったようにジュリを見た。
「え、いや……ジュリさん。僕はただ、そうできたら、という話をしただけでして」
「なら、そういうのはしっかり伝えましょう」
張り手を仕掛けたのか、ジュリは手を振りかぶったものの、その手を握りしめるのに留めた。相手が怪我をしていることを、しっかりと思い出してくれたらしい。
マルコは、意を決したように両手を強く握ると、下を向きながら口を開いた。
「あの……今は無理かもしれませんが、動けるようになったら必ず、何かできることをします! なので、治療費分を、働かせてください!」
「働く?」
「え、治療費?」
グレンが、驚いたように声を漏らしたが、ジュリが続けざまに素っ頓狂な声を出したので、全員彼女に視線が向いた。
「え、あの……私、恩返しで働きたいんです、という話は聞いていましたけど。なので、そういう権限はとにかくΣの皆さんにお伺いしてから、と思いまして。アシュリー様たちは今、外に出ていらっしゃいますし。えっと……なので、治療費というのは……」
慌てて弁明を始める彼女に対して、呆れの空気が漂う。
ジュリも、その空気に当たって、悟ったのか、気まずそうな顔をした。
マルコ・マリーニを、見返り目当てで治療に当たったわけではないというのは嘘になる。が、かといって、何かを差し出せと凄むつもりもない。
〈アポクリファ〉がそういう組織であるのは、なんとなく分かってはいるはず。それに、保護したばかりのただの子どもに、働いてもらうほど、人手は足りていないことなどない。
仮に恩返し云々言われても「考えておく」でも何でも、流しておけばいいものを。
「君は……もう少し、慎重に物事に当たりなさい」
額を覆い、ため息をつくグレンに、ジュリは縮こまって返事をした。
状況に置いていかれたマルコ・マリーニは、目を左右に激しく泳がせている。
「俺たちは基本、無償で何かをすることはない」
グレンが額を覆ったまま停止しているので、代わりに答えてやることにする。
「だが、金銭を要求することもない。見返りに、労働を強いることもない。俺達がお前に求めるのは、情報だ」
マルコ・マリーニは、その返答に納得がいかないのか、呆けた顔のまま止まってしまった。
「情報、ですか? この間の一件については、もうエリゾが話したって……」
「そうだ。だが、お前からの話は聞いていない。カルーセル座のことも、知る限りのことを俺たちに教えてほしい。恩返しと言うのなら、情報をくれ」
「分かりました……」
マルコ・マリーニは、首を傾げながらも頷いた。
あのエリゾ・ロッシという奴は、随分とこちらを警戒し、情報を落とすことをかなり渋っていたのに。
(あいつに守られて、生きてきたお蔭なのかもしれない)
ふと、無言で立つ隣に目を落とす。
視線に気がついたのか、こちらを感情の見えない目で見上げる。
——なにも訊かないで
ぞわりと、心臓に鳥肌が立つような感覚が走る。先の、夢見の悪さがぶり返してきた。
しかし、青灰色の目は揺らぐことも、凪ぐこともない。
(どうして……)
奥深くにしまい込んでいたものが、浮き上がりそうになった。抑えこむために、ため息をつき、紛らわす。
「じゃあ、この前の一件のことも聞きたいけど。先に、君が普段どんなことをしているのか、教えてもらおうかな」
いつの間にか、呆れっぷりから復活したグレンが、近くの椅子に腰を掛けながら促す。
マルコ・マリーニは、どこか不安げな目をしながらも、丁寧に言葉を紡ぎ始めた。
話は、ひどく細々としていた。
朝は水を汲む。
昼公演の前に衣装を運ぶ。
終われば洗って干す。
夜、仕事がある日は、エリゾについて街へ下りる。それ以外は、能力発作の起きる姉の側で眠る。
演目にも出てはいるが、ほんの一瞬。
「というより、舞台の端でちらりと出るだけなので、多分、観客の皆さん誰も、僕を見た覚えがないと思います。こんな、地味な力だし……僕、要領も悪いし」
自身の周囲の光を屈折させ、視認を困難にする能力。恐らく操作型、γ等級に分類されるかもしれない。決して、弱くはない能力。
確かに、サーカスの演出には、全く向いていないわけでもないが、火を操る能力、物を浮かせる能力と比べたら、見栄えはしないだろう。
二度も公演を観たが、彼がどの演目に出ていたのか、覚えてない。
グレンは、ああ、というように相槌をうったが、本当に覚えているのか、ふりをしたのか分からない。
だが、奇襲や潜伏にはかなり有効な能力。確かに、脅迫を伴う取り立てでは、便利だ。
「取り立ては、今までどれくらいやってきたのかい?」
「えっと……最近はそんなに多くないんですけど。だいたい、一つの街に留まるのが一ヶ月くらいで……あ、ここは滞在はちょっと長くて、だいたい二ヶ月くらいになりますが、とりあえず、一つの街でだいたい八人くらいです。でも、一年前、いや一年半前くらいまでは、もっと多くて十五人くらいでした」
「なるほど。じゃあ、今回の滞在では今、何人くらい?」
「うーんと……この前の人――ファビオ・リッチさんを含めると、まだ四人くらい? お酒が大好きなルカ・ビアンキさん、居酒屋をやってるマッテオ・フェッラーリさん、宝石大好きなジュリア・ロッシさん……うん、だから四人ですね!」
グレンは、目をわずかに見開くと、質問を途切れさせ黙り込んでしまった。
食い入るように見つめられるその目に、居心地が悪そうにマルコ・マリーニはそわそわと身じろぎを始める。
「あのう……?」
彼の顔を見るに、本当に分かっていないようだ。
「本当に……四人か?」
思わず訊ねてしまったが、名前も特徴も口にして見せた彼が、覚えていないというのも考えにくい。
「え? はい。まあ、今回はいつもより少ないですよね」
だが、隠しているようにも見えない。
「ダニエレ・ロムアルドという名前に、心当たりは?」
ずっと無言で聞いていたルナが、初めて、口を開いた。
マルコ・マリーニは驚いたように、彼女の方を弾かれるようにして見た。しかし、それは、図星を突かれたわけではなく、喋らなかったルナが喋ったことに驚いた様子だ。
「えっと……聞いたことある気はしますが、少なくとも、取り立てで会ったことはないですよ」
しんと静まり返る。
ジュリは、話の芯を掴めていないのか、俺たちの顔を順に見比べている。
読んだはずの名前が、今この部屋で持っている重さと、まだ繋がっていないのだろう。
「そうか……分かったよ」
グレンは、自身の手元に目をやったまま言った。
思うことは恐らく、同じなのだろう。
「あの……僕も少し、訊いてもいいですか? その、皆さんは僕たちの力について、詳しいんですよね?」
マルコ・マリーニは、シーツの上で指を握ったり開いたりしながら、こちらの顔色を窺うように見上げてきた。
「ああ、答えられる範囲でならね」
グレンが頷くと、彼はひとつ息を吸い込んだ。
「姉ちゃんみたいに、能力を起こして暴れてしまう人を、治すことはできるんですか?」
「治す、というよりかは、それを抑えたり、上手くコントロールできるようになることはある」
「じゃあ、姉ちゃんも、落ち着く日が来ることが」
「専門家に様子を見てもらわないと、何とも言えないけどね。可能性がないわけではない」
嘘は言っていない。可能性という言葉は、この上なく便利にできている。
「そっか……そうなんですね。ありがとうございます」
深く息を吐き出すと、マルコ・マリーニは俯いた。
「僕、姉ちゃんはきっと、発作の度に苦しいだろうに。僕は、そういう時何もできなくて。エリゾたちがいつも、役立たずの僕の代わりに押さえてくれて」
握った指に、力がこもる。
「でも、姉ちゃんが、良くなる可能性があるなら、嬉しいし、頑張れる気がします」
「だから――」
沈黙が落ちる前に、それは飛び込んできた。
「大丈夫ですよ! 私たちは、お姉さんのような人を助けるのも仕事なんです。絶対に助けてみせますから!」
ジュリが、胸を張って言い切った。
マルコ・マリーニの顔は、ほどけるように緩んだ。
「本当に、ありがとうございます」
「はい! なので、今は怪我を治すことだけ、考えましょう!」
(余計なことを……)
そう、心の内で愚痴をこぼす俺は、薄情者だろうか。
この、希望で光りだそうとする部屋の空気が、取り返しのつかないものに変わりそうな気がする。
けれど、それを言ったところで、この部屋の誰も得をしないのだから。




