間 蜩(ひぐらし)
十二歳の誕生日が数日後に迫っているのは嬉しいが、この茹だるような残暑は勘弁してほしい。夏生まれだからといって、夏の暑さが好きとは限らない。
広大な庭を歩き始めてまだわずかしか経っていないのに、首元にじわりと汗がにじむ。刈り込まれた芝が陽を跳ね返し、足元から熱が這い上がってくる。蝉の声だけが、耳の奥で膨らんだり萎んだりしていた。
それでも、今年の盆明けは北部で過ごしている分、まだ幾分かはマシだった。霧島家の別荘に招待されたおかげで、都会の蒸し暑さから逃れられている。
神崎家の他にも、国内の有力者や華族が集まり、屋敷は賑やかだった。だが、多くが昨日ここを発っていき、今日は嘘みたいに静かになった。客間を吹き抜ける風の音まで聞こえるほどに。
同年代の子どもたちとも交流はしたが、正直、居心地は悪かった。だから、彼らとの付き合いから解放されて、今は心底清々している。
神崎家は華族や公卿ではなく貿易商家だ。
国益を生む存在として重宝されてはいるものの、結局のところ「成金」として格下に見られることが多い。
そのせいか、相手の言動の端々には、内心こちらを見下しているのが透けて見えた。
褒め言葉の語尾がわずかに上がるとか、家の話になると目線が半歩逸れるとか、その程度の、けれど確実に届く針のようなもの。
どうせ互いに仲良くなる気などない。ならば、そんな連中とつるむより、彼女と過ごす方がずっといい。
迎賓館のある離れの区域と、霧島家一族が滞在している本邸の区域の境目に建てられた、木製の門が見えてきた。
門柱の木肌は黒く艶を帯びていて、何十年、何百年、人を選り分けてきたのかと勘ぐりたくなる。
滞在中に顔見知りになった警護人が、こちらに気づき、軽く手を振ってきた。
「神崎の坊っちゃん、今日も来たんですか。本当に物好きなことで」
「うるさいぞ。なんだっていいじゃないか」
「そんな、むきにならなくても……はいはい、俺が悪かったですよ。すぐ、慎一郎さんを呼ぶから、堪忍してください」
警護人はそう言いながら、駐在室の鈴を鳴らした。澄んだ音が、蝉の声を一瞬だけ押しのけて、奥へ吸い込まれていく。
「そういえば、神崎の皆さんは何故、他家の方々のように昨日帰られなかったのですかね?」
警護人は、ごそごそと懐から煙草を探し始めながら尋ねてきた。
「さあ……よく分からない。多分、本当は昨日帰る予定だったけど、父さんが霧島のご当主と話があるから引き留められたって」
「なるほど。確かに近頃、ご主人様は、神崎の御家を寵愛されていると、もっぱら噂ですからね。姪のお嬢様と親しくされるのを、見守られていますし——」
「見回りご苦労」
後ろから聞こえる、冷ややかな声に背筋がぞくりと走る。
振り向くと、慎一郎という霧島家の侍従長が、立っていた。
いつからそこにいたのか、まるで分からなかった。砂利を踏む音も、衣擦れの音も、何一つ聞こえなかったはずなのに。
前で組んだ手は、指先まで伸びており、隙がない。煙草を探していた警護人の手が、ぴたりと止まっている。
「恐れ入ります。神崎宗司様がお嬢様にお目通り願いたいと仰せでして」
畏まって答えた警護人をちらりと一瞥すると、侍従長はこちらに視線を移し、淡々と答えた。
「神崎宗司様。ご足労いただいたところ、申し訳ありませんが、本日お嬢様は体調を崩されているため、お目通り叶いませぬ」
「え……? そう、なんだ」
昨日の夕方は、特に変わりない様子だったと思ったが。気分が悪かったりしたのだろうか。
「また日を改めていただければ」
軽く頭を下げると、侍従長はさっさと踵を返していってしまった。その背中は、去り際まで一度も揺れなかった。
やはり霧島家の関係者は、あの当主のような、鎌首をもたげている蛇のような者が多く、苦手だ。
「残念でしたねえ。まあ、気をつけて離れまでお帰りください」
愛想笑いで応えると、踵を返し、来た道を引き返す。
どこにでもいそうなあの警護人でさえも、どこか底知れぬ雰囲気を孕んでいる。笑っているのに、目の奥だけが一度もこちらを信用していない、あの感じ。
名字に「霧」という字があるからなのか。霧島という家は霞立っているというか、蜃気楼のような存在なのだと、来る度に思わされるのだ。近づけば近づくほど、輪郭が遠ざかる。
「おや、お戻りですか。宗司様」
滞在場所の迎賓館に戻ると、木刀で素振りをする神崎の使用人に迎えられた。汗を拭いながらも、素振りの音は寸分も乱れていない。
「ああ、直人……あいつ、体調悪いんだってさ。あの鉄仮面の使用人に追い返された」
直人は、眉を八の字に下げた。
「それは残念でしたね。あのお嬢さん、あまり身体が丈夫そうではなさそうですし。大陸西部の血筋を引いているのもあって、夏の暑さは得意じゃないのかもしれませんね」
霧島の使用人と違って、うちの使用人たちは暖かい。
父や昨年亡くなった祖父が言うように「使用人は主人を表す」という言葉は本当なのだなと、つくづく思う。
「というわけで、暇になった。町に降りたいんだけど。付いてきてくれないか?」
「承知いたしました。すぐ支度を致しますので、しばしお待ちを」
「うん。ゆっくりでいいから。どうせ暇だし」
直人は軽く会釈し、館の中に急ぎ足で戻っていった。
(彼女も霧島の人間なのに、どうして嫌じゃないんだろうか)
頭に、人形のような無表情の顔を思い浮かべる。
正直、彼女——霧島家の当主の姪子も、暖かみのある人間かといえば、そういうわけでもない。基本、あまり口をきいてくれないし、ほとんど笑わない。
最近になってようやく、相槌をうってくれるようになったが、こちらが一方的に喋り続けるという形が長く続いていた。何を考えているかも、分からない。
しかし、嘘や含みのある言動をしないし、見下すこともない。あの家の人間は皆、口の端で笑いながら別のことを考えているのに、彼女だけは、黙っている時も、黙っているだけなのだ。
裏表を感じさせる人間より、彼女のような、潔く謎に満ちた人間の方が良いと感じているからなのだろうか。
「宗司様。先ほどから、街道を何もせず、二往復されていますが」
直人の声に、足を止める。
「え……そうか?」
直人は、困ったように頷いた。
「暇を弄んだにしても、何かしら目当てがあって、街に下りられたかと思っていましたよ」
「ごめん。一応そのつもりではあったんだよ」
街に下りてから、何をするか決めるつもりではあった。けれど、歩いていても今日は惹かれる物が見つからないのだ。
なぜか、商いの声で賑やかな通りに、空虚さを感じる。呼び込みも、荷車の軋みも、擦れ違う人の話し声も、すべて薄い紙一枚隔てた向こうで鳴っているようだった。
「つまらないと感じる時もあるでしょう。無理して何かしようとする必要はありませんよ」
「そうだな……」
ふと視線の先に、和菓子屋の暖簾が揺れているのが目に入った。
(あそこは、三日前、一緒に食べたところか)
無表情ながらも、大福をもしゃもしゃと食べていた彼女の姿を思い出す。
頬を小さく膨らませ、唇の端に少し粉をつけていたことに、気づく様子がなく……普段の冷めた雰囲気とは違い、少しだけ年相応に見えた。
「和菓子屋で買い物したら帰るよ」
「承知いたし──」
轟音が突如響き、直人の声がかき消される。
音の先を振り返ると、山の方、霧島邸のあるあたりから昼花火が上がっていた。白い煙が、青すぎる空にぽつりと三つ、間を置いて開いていた。
「今日、何か祭りでもあったか?」
「さあ……あそこは、霧島様のお屋敷がある山だろ? 祝い事でもあったんじゃないか?」
周囲は、気がそぞろに音の方を眺めていたが、次第に元へと戻り、ざわめきは喧騒に紛れて薄れた。
直人の顔をちらりと見ると、いつもよりわずかに強ばっている。煙の消えた方角から、目を離さない。
(……早く帰った方がいいか)
用事を済ますべく、さっさと店の中へ足を踏み入れる。
甘い香りが鼻を突き抜ける。並べられた和菓子に胸を高鳴らせながら、どれを選ぶか、人数と照らし合わせながら考えを巡らす。
「宗司様」
直人が、耳を寄せながら、どこか切羽詰まったような声で言った。
「少し気になることがありまして。すぐ片付けてきますので、しばしの間離れることをお許しください」
「さっきの花火?」
「それもあります」
「分かった。店の前で待ってるよ」
「ありがとうございます」
直人は小さく微笑むと、店を出ていった。
随分と強張った笑みだったのが気になるが、今、質問攻めをしては困るだろうと思うと、何も言えなかった。
包んでもらった風呂敷を片手に店を出ると、空が橙色に変わり始めていた。
(直人、どのくらいで戻ってくるかな……)
そわそわするので本当は動きたいが、すれ違いだけは避けなければならない。
(でも……日が落ちそうになったら、その時は店員に言伝を頼んで先に帰るか)
雲が、形を変えながら流れていく。
色も、真夏の深い青色だったのが、山の裾の方から淡い橙色が、絵の具のように滲んで広がっていく。
(直人……遅いな)
ふと、あまり見慣れない黒革のブーツが、目の前で止まった。顔を上げると、先の門番とは別の霧島家の警護人がいた。
「神崎宗司様。直人殿からのご依頼で、私が屋敷までお送りすることになりました」
霧島の使用人であることを証明するように、詰襟の左胸にある霧島家の家紋──山のような三角形に二本の交差した太刀を重ねた印を示してきた。
顔も見覚えがあるので、霧島家の使用人の一人であることは疑っていない。しかし、警戒心の高い直人が、他所の家の使用人に送迎を頼むなんて、考えられない。
一度も瞬きをしない、光のない目に、ぞわりとした感覚が走る。
「直人は? どこに行ったの?」
腹の中を隠し、意図的に声音を上げて尋ねてみる。
「直人殿は、ご両親からの内密のお仕事に取りかかっております」
(父さん達からの指令とはいえ、俺を置いていくなんてやっぱりあり得ない。何が目的だ、こいつ)
誘拐、身代金、脅迫のための人質。色々と考えられるが、とにかくこの男からは距離をとるべきだ。
「そっか。わかった、じゃあよろしく」
素直に飲み込んだ子どもを演じ、屋敷の方へ足先を向け歩き始める。
背中に、視線が張り付いているのが分かる。歩幅を合わせてくるでもなく、離れるでもなく、常に一定の距離を保ったまま。犬の躾け方に似ていると思った。
(なんとか理由つけて、離れる隙を作らないと)
人が少ない山道に入る前に、何か見つけなければならないと頭の中を巡らすと、蜩がふわりと横切った。風にあおられたのか、もう寿命が近く弱っている個体だろう。
(ごめん。俺を助けてくれ)
罪悪感を抱えながらも、覚悟を決める。
「蜩だ!」
わざとらしく声を上げて、それを捕まえようと跳び跳ねてみせた。
しかし、当然、荷物を持った状態で、しかも素手で捕まえられるわけがない。
「あー、くそ!」
もう一度跳び跳ねると、運良く片手に蜩が収まった。ジイジイと手の中で動くが、潰れないよう気を付けながらもそのまま走り出す。
「神崎様!」
後ろから、警護人の声が飛んでくる。山道に入る少し前で止まり、一旦は蜩を放してやる。
「神崎様、急にどうされ──」
「蜩が近くを飛んでいたんだ。なんとか捕まえたいな。せっかくなら、手伝ってよ」
早口に捲し立てると、山道の脇にある茂みに入り込み、木の枝や葉を見上げ、探す振りを始める。
ちらりと後ろを見ると、やはり警護人は唖然とした顔でこちらを見ている。想像以上にガキっぽい行動を始めたことに、驚いているのかもしれない。
「本気で探してる? 蜩は、高い木の枝や葉で鳴いているんだよ。ちゃんと見ろよ」
警護人は大きくため息をつくと、渋々といった様子で上を見上げて捜索を始めた。
(今すぐ、何かしようとしているわけではないのか?)
誘拐目的なら、主人や両親のいる屋敷に行かせようとはしないかも。直人が俺の送迎を任せたことは嘘だが、「屋敷まで送る」というのは本当なのかもしれない。
けれど、嘘をついて直人と離れさせた以上、良くないことであることには変わりない。
山道の方を見据えながら、探す振りをして、急いで茂みを突っ切り、山道へ飛び出す。
枝が頬を打ち、下草が脛を裂いた。
(泥だらけになった……母さんに怒られるだろうな)
風呂敷を抱え直すと、なるべく音を立てないように屋敷へ向かって走り出す。
(やっぱり、花火は何かあったのか? 直人は危険な目に遭ってないよな? あの警護人を振り払って、町で直人を探した方が良かったか?)
色々な不安が頭を過っていく。坂を駆け上がる自分の足音が、なぜか後ろからあの警護人が追ってくる音ではないかと錯覚してしまい、何度も後ろを振り返ってしまう。
(馬鹿な振りが、効いてればいいけど)
喉の渇きが苦しくなってきた。いつもはこの程度走ったくらいでは、疲れないのに。
そういえば、蝉が鳴いていない。あれほど耳を塞ぎたくなるほどだったのに、この坂に入ってから、山は妙に静かだった。
道の曲がりが見えてきた。あそこを通れば、もう屋敷には近い。
その時、脇の茂みから白い影が飛び出してきた。ぶつかるかと思ったが、その前にあちらがふわりと避けた。
「え……?」
体調不良のはずの、彼女だった。
老婆のそれとは違う、白く、わずかに煌めく髪。
青灰色の静かな双眸。
特有の個性を持つ人物は、少なくともこの辺りでは、彼女以外にはいない。
だが、いつもの綺麗に整った姿とは少し違い、着物の袖口が、裂けている。
「体調はもう大丈夫なのか?」
声をかけるが、何も答えない。反応が薄いのはいつものことだが、少し呼吸が乱れており、わずかに肩が上下している。
「大丈夫か? 無理するなよ。ほら、これさっき──」
言いかけた瞬間、冷たい指が俺の口を塞いだ。
氷嚢のような、突き刺す冷たさに息を呑む間もなく、腕を掴まれ、強引に引かれる。
俺よりも細く、すらりとした腕なのに、踏ん張ろうとした足が、地面から簡単に剥がされた。
大福を包んだ風呂敷が地面に転がるのが見えたが、それを気にする余裕すらなかった。
「どうしたんだ?」
戸惑いながら呼ぶが、彼女は振り向かない。ただ無言で、茂みの中へ飛び込み、獣道を走り出す。
枝を避ける動きに、迷いがない。
道という道ではないのに、分かりきった道のように、どんどんと進んでいく。
ただ事ではない。何が起きているのか分からない。だが、背後に感じる妙な圧迫感が、事態の異常さを物語っていた。
引きずられないように、足を動かすだけで精一杯。
普段の静かな様子とは違う、俊敏な後ろ姿に、訊きたいことばかり浮かぶのに。口を開けば舌を噛みそうだし、息の上がったこの喉では声にならない。
ようやく木々の切れ間にたどり着くと、彼女は急に立ち止まった。
「待て、待って! 一体どうしたんだよ」
息を整えながら声をかけるが、彼女は答えず、辺りを見回すように警戒していた。
その横顔を、夕日が半分だけ照らしている。睫毛の先まで橙に染まっているのに、目だけが、少しも温まっていない。
「なあ……どうしたんだよ」
思わず彼女の肩に手を置き、青灰色の瞳をまっすぐ覗き込む。彼女に、確かに伝えたかった。
「何を抱えているんだよ? 俺に話してくれよ。お前の力になるから──」
しかし、首を振った。きっぱりと。
これまでの彼女にはない拒絶の仕草だった。
(なんで……少しは、俺を頼ってくれてもいいじゃないか)
虚しさとともに悔しさがこみ上げる。
昨日もその前も、一緒に過ごしていたのに。
仲良くなったと思っていたのに。
それは、全部自分の思い過ごしだったのか?
もう一度説得しようと口を開こうとした瞬間、背後から足音が近づいてくるのを感じた。
(あの警護人か……? いや、それにしては足音の数が多いぞ)
振り向こうとしたが腕を強く引かれ、体勢を崩す。
なんとか足に力を込め、持ち直すと、気づけば背後に深い崖が広がっていた。
風が、下から吹き上がってくる。木々の匂いと、湿った土の匂い。それがどれほどの深さから昇ってくるものなのか、考える暇はなかった。
「え、なにが──」
彼女はまばたきをし、一瞬だけ視線を落とした。
その一瞬が、やけに長く感じた。何かを言おうとして、選んで、捨てて、また選び直しているような——そんな間だった。
青灰色の目はようやく、まっすぐ俺を見据えると、静かに言った。
「ごめんなさい……なにも訊かないで」
そして、彼女の手は————俺の胸元を静かに、けれど確かな力で後方へ押した。
(えっ……?)
爪先は地面を掴み損ね、空を切る。
一気に奈落の底に吸い寄せられるかのように、背中を引きずり込まれていく。
風の轟音が耳を打つとともに、彼女の青灰色の瞳が、遠ざかっていく。
崖の縁に立つ彼女の姿が見える。
ただ、じっと、落ちていく俺を見ている。まるで、しっかり下へ落ちているかを確認するかのように。
(なん……で……?)




