経験知
「よし……じゃあ、治療は彼らに任せて、僕らは話をしようか」
グレンという男は、穏やかな笑みを浮かべると、空いている席を指した。
座れ、ということだろう。言われるままに、椅子に腰を下ろすと、柔らかく沈んだ。
今まで、そんなことを言われたことがないので、とても奇妙な感じがした。
部屋にはグレン、シン、〈アルティメイト〉と呼ばれていた真っ白な髪の女、口の悪い白衣の男、アニタと同い年の少女。そして、金髪の背の高い女と、背の低い大陸東部人らしき女が二人並んで、じっとこちらを見ている。
こうして見ると、シンと呼ばれていた、このいちいち癪に触る男は、かなり体格も良いのだと気づいた。大陸東部人を数度しか見たことはないが、少し背が低く、華奢な体格が多かった。自分より背が高く、肩幅もある奴は初めて見るかもしれない。
「さて、エリゾ・ロッシ」
思わず、グレンという男の顔を見てしまった。
自分の名前——それも、マルコ達でさえ知らない苗字まで知られていることに、寒気が走った。
「色々知りたいだろうけど、先ほどの経緯を話してもらおうかな」
「……まず他人のことを聞く前に、自己紹介じゃないのか?」
グレンという男は、おや、という顔をしたが、困ったように笑うだけで、何の歯牙にもかかっていないようだった。
「それもそうだね。失礼した」
男は膝の上で手を組み直すと、少しだけ姿勢を正した。
「僕はグレン。そして、君の友達を運んだ顰め面の彼は、シン。それから——」
視線が、治療台の側に立つ白髪の女へ向く。
「彼女はルナ。あとは、追い追いだね」
「そうじゃなくて。何者かって聞いてるんだ」
「ああ、そっちか。そうだね……」
男は、ふむ、と顎に手を当てた。
「社会から外れた人間、と言えばいいかな」
その言い方に、思わず鼻で笑いそうになった。
「随分と、ぼかすんだな。そりゃそうか。詐欺紛いのことしているもんな。犯罪集団か何か?」
挑発を仕掛けたが、やはり顔色を変えるどころか、にこりと穏やかに微笑むだけ。
「そうとも言えるね。でも、僕たちをただの警察に売っても、何にもならないよ。なぜなら、僕らは"存在しない"はずの人間だからね」
(……名前だけ寄越して、中身は寄越さないってことか)
嘘をつかれた感じはしない。嘘をつくなら、もっとマシな言い訳をするだろう。だが、嘘をついている感じがしないことが、余計に気味悪い。
「さて、自己紹介は済んだね。じゃあ、聞かせてもらおうかな。君と、マルコ・マリーニ——二人でサーカスを抜けて、あの倉庫街にいた経緯を」
(……マルコの苗字まで掴んでいるのかよ)
どんな方法で調べ上げたのかは知らないが、あの一座の中のことはもう知られているのだろう。多分、今日の経緯も、粗方把握しているに違いない。
拒否する理由を探そうにも、見つからない。寧ろ、今ここで拒絶すれば、マルコの治療を中断されたり、酷い目に遭わされることもないとはいえない。
(ははっ……人質かよ)
顰め面のシンという奴を思わず睨みつける。
何が、「目の前で治療してやらないと、うるさいだろう」だ。配慮をしている体を装って、自分たちの都合の良い状況に仕組んだだけじゃないか。
だが、意地を張ってもこいつらは損をしない。損するのは俺の方だ。
仕方なく、順を追って話す。
取り立て相手が初回で最終期限だったこと。
金が足りなかったこと。
時計と指輪を取り上げたこと——そこは、少し声が小さくなった。
そして、その義兄が現れたこと。
「〈十字谷の会〉の、ブルーノ・カターニアだね」
背の低い大陸東部人が口を挟んだ。
「まだ若いけど、幹部に抜擢されている。嗜虐的な性格で、かなり厄介な人物、だとか」
「ああ……〈十字谷の会〉か。懐かしいなあ、まだいるんだね」
グレンという男は、微笑んだまま頷いた。
「ただ……妙だね。君たちの座は、ああいう連中の領分には、手を出さないのかと思っていたんだけど」
「出さねえはずだった……あの眼鏡野郎が、そんな面倒を抱えるわけがない。なのに!」
思わず、グレンに八つ当たりするように吐き捨ててしまった。腹立つが、こいつに当たっても仕方ないのに。
なんで今日は、こんなにも上手くいかないんだ。
「単純に、外れたんだろう」
金髪の背の高い女が、初めて口を開いた。抑揚のない、事務的な声だった。
「ファビオ・リッチの住居は、〈十字谷の会〉の縄張りの外側。本人には前科も繋がりもない。妻の実兄が幹部だが、その兄妹はほぼ絶縁状態にある。名簿上、線が引けない」
女はそれきり、口を閉じた。
つまり、あの眼鏡の男が見落としたから、こんなことになったのか。
いつも通り、上から降ってきた紙切れ一枚を、俺は疑いもせずに持って出た。"曲馬"に成り下がって、ただこなそうとしたから、マルコは撃たれたのか。
「さて」
グレンが、話題を変える合図みたいに、軽く手を打った。
「本題だ。僕たちは、活動の一環として、能力者を保護しているんだ」
——来た。
腹の底が、す、と冷えた。
「保護、ね」
「そう」
「言い方を変えりゃ、囲い込みだろ」
声が、思ったより尖った。
「役に立つ能力者を集めて、自分らの都合のいいように使う。座と何が違う? あんたらが今夜やったことは全部、そのための投資だろ。マルコを助けたのも、俺を運んできたのも」
言い切ってから、心臓が嫌な打ち方をした。
こんな喧嘩の売り方をして、無事に済む相手じゃない。それくらい、路地で嫌というほど分かったはずなのに。
だが、グレンは怒らなかった。むしろ、少し感心したような顔をした。
「あはは……そういう見方されても仕方ないね。でもね、エリゾ・ロッシ。誤解があるようだから、はっきり言っておこう」
そして、穏やかな声のまま続けた。
「今回、君たちのことは、正直どちらでもいい」
予想外の言葉に、詰まった。
「昼の舞台に出ている子たちは、演目を楽しんでやっている子もいることだろうし、今の暮らしに満足している子もいるだろうし。こちらから言うことは何もないよ」
「……は?」
「僕たちは、能力の制御が出来ていない六人を連れて行く」
——ぞわり、と腕の産毛が立った。
「あんた……」
喉が、勝手に動いた。
「あいつの、仲間か」
——次に暴走したときは、殺すほかなくなるぞ。
そう言って、面白そうに唇を歪ませた、白い服の男の顔が、頭の中で膨れ上がる。
「何のつもりだよ、お前ら……」
「落ち着きなさい」
「寄って集って、あいつらを殺そうとっ——」
立ち上がりかけた膝が、動かなかった。
誰も俺に触れていない。ただ、あのシンという男が、椅子の背に手をかけてこちらを見下ろしていただけ。
だが、「何の話だよ」とでも言いそうな胡乱げな目が、体を動かなくしたのだ。
「とにかく、座りなさい」
グレンの声は、変わらず穏やかだった。
「僕たちは、その"あいつ"とやらを知らないが……君が、誰かに何かを言われたことは、よく分かった。いつか、聞かせてもらえると嬉しいね」
口が滑った。俺が零したものを、きっちり拾って懐に入れられたのだ。
「さてと……話を戻そう。覚醒失敗者を保護するのに、君の協力が得られれば一番早いんだ。座の中の様子、彼らの状態、公演の日程……君は、僕らの誰よりも彼らの傍にいるからね。どうかな?」
「……協力しなかったら?」
「しないならしないで、別にいいよ」
あっさりと、男は言った。
「僕たちは、なんとでもやれてしまうから」
脅しのつもりではなさそうだった。声も、表情も、少しも変わっていない。
余計に、背筋が冷えた。本当に、こいつらはなんとでもやれてしまうのだろう。今夜見たものを思えば、疑う余地なんてない。
俺がどれだけ必死に抱えてきたものを、こいつらは、俺の同意なんか一つも要らずに、持っていけるのだ。
「……素人が、口を出すなってことかよ」
「そんなことは言っていない。ただ——」
男は、初めて少し言葉を選ぶような間を置いた。
「覚醒失敗者は、君たちに扱えるようなものじゃない。それは、一番近くにいる君の方が、よく知っているんじゃないのかな?」
言い返せない。
自分の火で燃える、アニタの髪を思い出す。
どこかで、拠り所にしていたあの薬には、もう頼ることができない。次はない。全部、この男が知るはずのないことなのに、言葉だけが正確に急所を貫いてくる。
器具を置く、小さな金属音が響いた。
「終わったぞ」
白衣の男がてらてらと光る手袋を、煩わしげに取りながら、こちらを向いた。
「弾は抜いた。血は足りてないが、これが原因で死ぬことはまずない。三、四日は絶対動かすな……揺らせば、縫った所が開くからな」
いつの間にか、詰めていた息を吐き出す。マルコが生きてさえいれば、もうこいつらに用はない。
窓を見ると、空の色が薄くなり始めている。
「じゃあ、俺たちは帰るから」
立ち上がると、周りは皆、視線をよこすだけで何も言ってこない。
「治療は、世話になった。金は……今は無理だが、返すよ。でも、それだけだ。帰る」
「うん、そうか。わかったよ」
グレンは、にこりと微笑んだまま頷いた。が、吹き出すような笑いが聞こえた。
「お前、話聞いてたのかよ」
シンという男が、馬鹿にするように、唇の端を上げた。
「お前が運べば、こいつの傷が開くぞ……それとも何か? また、俺に運ばせる気か?」
「いや……そんなわけ……」
さっさと、こいつらと縁切りたい。ただ、それだけ。
だが、マルコを担いで行く以外、連れて帰る方法がないのは事実だ。俺の、揺らしてしまう抱え方で。
「そうだね。僕たちは、サーカスの敷地に近づくわけにはいかないから。あとさ」
グレンは指を組み、後ろに背を預けながら続けた。
「目を覚ましても、三、四日は歩けない彼を、誰が看るんだい?」
昼間は公演、明日は……特別公演がある。
六人の暴走が、いつ起こるかも分からない。
(となると、いったい誰が看れるんだ……?)
いや——そもそも……
「そもそも、団長や幹部たちは、休ませてくれるのかな?」
俺の考えを読むように、グレンは言った。
使えない"曲馬"に、飯を出してくれるのだろうか?
「……卑怯だな、あんた」
「そうだね。知恵と経験の賜物だよ」
マルコの側に寄り、顔をのぞき込む。
浅い息をしている。血の気のない顔で、それでもさっきよりは穏やかに眠っている。俺が抱えていた時より、ずっと。
(ここに置いていくしかない……)
「……いつまで、預かってくれる?」
「傷が塞がるまで。急かすつもりはないよ」
グレンは、事もなげに答える。
「勝手に、どこかへ連れて行ったりは」
「それはしない。もしそうなったら、彼だけここに置いていくよ。もちろん、君に伝えた上でね。他に質問は?」
肩をすくめて、促してくる。しかし、正直もう聞くことはない。
信用できないし、色々隠しているだろうが、こいつらに頼る以外に道はないのだ。
「……何かあったら、すぐ教えてくれ。頼む」
それだけ、振り絞って口にできたので、とっとと退散することにする。
部屋の扉を押し、狭い廊下を歩き、玄関へ向かう。
「あ、そうそう」
扉に手をかけた瞬間、呼び止められた。
「様子が気になるなら、いつでも来ればいい。追い返したりはしないよ。あと、さっきの返事もね」
振り返らなかった。
返事もしなかった。
外に出ると、夜明け前の冷たい空気が、血の匂いのする服に染み込んできた。
来た時と同じ道を、一人で歩く。
一座へと近づく度に、先までの非日常が薄れていくのを感じる。朝の空気が、すべてを洗い中間していくのだ。
流されて、剥がされて……いつものテントの群れが見えてきた頃には、ただの曲馬に戻っていた。
「随分遅かったな」
眼鏡男のテントに入ると、団長——ヴィットーリオ・モランディが一緒だった。
眼鏡男は、夜と変わらない様子だったが、団長の方は酒を飲んでいたんだろう。目が赤くなり、若干呂律が回っていない。
出会った頃は、細身で引き締まっていたのに、今では樽のような体型。
人生、何があるか分からないものだ。
「おや……お前一人か? それに、その血まみれの格好は?」
団長は、欠伸をしながら訊ねてきた。
「……ギャングに襲われました。そのせいで、マルコとはぐれました」
「ギャング……?」
眼鏡男は、訝しげにこちらを見た。あいつらが言っていた通り、こいつの想定外だったのは、間違いなさそうだ。
「なぜ? 何か、以前にしくじりでも?」
「……さあ、分かりません。なので、回収できたのは二十七ヴァロルだけでした」
懐から封筒を取り出して、机の上に置く。色々ありすぎたので、出しながら不安になったが、血はついていないし、くしゃくしゃになっていないらしい。
これでもか、というほど、大きなため息が響く。
団長は足元をじっと見つめながら、杖——に見せかけた鞭の柄を、机に一定のリズムで打ち付け始める。
「はあ……せっかく、面白そうな奴を見つけたと思ったんだがなあ。そうか、そうか。駄目だったか」
口調は軽くとも、苛立ちが滲み出ている。
鞭の音は、やけに耳への通りが良く、頭の中を強く揺らしてくる。
眼鏡男は立ち上がると、綺麗な角度で頭を下げる。
「申し訳ございません。必ず、団長のお望みの通り、事を運んでみせますので」
「ふーん。じゃあ、もう少しだけ待ってやろうか。ただし、次は……分かっているな?」
団長の目は、俺と眼鏡男を交互に捉えた。
「今日の特別公演は許そう。次回までに必ず、そいつを見つけてこい」
「承知いたしました」
眼鏡男は再び椅子にかけ、書類仕事にとりかかる。
団長は、俺が無反応なことには、何も咎めない。逆らわないし、逆らえない。そもそも、俺が何を考えていても、興味はないのだ。
「あの……」
言いかけると、団長は煩わしげに片眉を上げた。
「マルコは、どうすれば……」
「……マルコって奴は、何をやっていたんだっけ?」
団長は、机に視線を落としたままの奴に、求めるように顔を向けた。
「取り立てについては、火使いの彼と、あとは……そうそう、カメレオンみたいな少年に任せていましたね」
「ああ……あの子か……」
団長は、顎髭をなぞり、思案するような顔になる。
「確か、あまり観客受けは良くなかったような……」
「そうですね。舞台の花が、なかったかと。なので、演目を抜いても、さして問題ないかと」
「そうだな。代わりに、他を少しずつ延ばせば問題ないだろう」
額縁に顔をつけ、絵を眺めているような気がする。
——なんで、マルコなしで進めようとしているんだ。
どうして、どこで、とも、生きているのか、とも訊かないんだ。
(ああ……俺たちはやっぱり、何をしても"曲馬"なんだな)
とうの昔から、分かっていたはずなのに。
どうして今、こんなにも、ひどく裏切られたような気がしているんだろうか。
せめて、怪我はないのか、訊いてくれたら……
どこにいるのかさえ、訊いてくれたなら……




