Salve Frater
角を二つ折れ、倉庫の間の細い隙間を抜ける。
視界の端に、点々と続く赤い跡。自分の走るすぐ横を、それが途切れずに辿っている。
姿の見えないマルコの、苦しげな息遣いが、跡と一緒についてくる。息の間隔が、さっきより短い。
(テントまで保たない……)
どこかに、入らないと。血の跡を切って、傷を縛れる場所に。
脇の倉庫が目に入った。大扉の横の、人ひとり分の通用口。取っ手には、真鍮の錠前がぶら下がっている。
鍵はない。だが—一気に高温で燃やせば、溶けるかもしれない。やったことはない。だが、他に手もない。
「マルコ、一回やすも——」
ぶわりと、マルコの体が視界に飛び込んでくる。
膝から崩れる体を、なんとか受け止めた。腕の中のそれは、驚くほど軽くて、驚くほど熱かった。
「エリゾ……もう……」
(くそっ……)
撃たれた体で、走りながら、能力を維持し続けるのは、さすがに厳しかった。
もうマルコは、自分で隠れられない。この先は、俺が隠すしかない。
彼を扉の脇に座らせ、錠前に掌をかざす。指先に集めた火を、一点に絞って放った。
「早く、早くっ……」
真鍮の錠前が、火に包まれる。表面が煤け、色がくすんでいく——が、それだけだ。形は、微塵も崩れない。
舞台の火とは、勝手が違う。
燃えたがっているもの、燃えやすいものに火を貸してやるだけの芸だ。
怒号が、近づいてくる。足音が、増えている。
(頼む、早く溶けろっ)
火を強め、輪郭を絞る。しかし、錠前は色を変えはするが、まだ形を保っている。
「あ、つい……」
マルコが消え入りそうに呟く。
俺は、自分の火の熱を感じないし、感じたことがない。だが、金属を炙るほどの火なら、この距離のマルコには、肌を刺す熱だろう。
「ごめん。もうちょっと待ってくれ」
空いた手で、マルコの体を少しでも火から遠い壁際へ寄せ、寄りかからせる。マルコは何か言おうと口を動かしたが、声にはならなかった。
錠前に向き直る。
舞台では一度もやったことのない火の使い方を、手探りで探していくしかない。
炎の色が、橙から、白っぽいものに変わる。
(溶けろ、溶けろっ……!)
真鍮が、赤黒く、そして眩い赤へと染まり——ぐにゃり、と。
飴細工みたいに、形が崩れた。掛け金から、錠前の残骸が音を立てて落ちる。
「よしっ! マルコ、空いた、ぞ……」
跳ね上がるような興奮を抑えながら、振り向いたが——。
いつの間にか、錠前ひとつと睨み合っていた、そのわずかな間に、路地の両側は、また壁が出来上がろうとしていた。取り巻く状況は、いつの間にか先と同じに変わっていた。
「よお、ガキども……よくも、やってくれたな?」
脂汗をかいたブルーノが、引きつった笑みを浮かべている。
「そうか、そうか……毎年、変な事件が起きるのは、お前たちの仕業か……へえ?」
唾を吐くと、奴は距離を一気に縮めにきた。
「どんな手品使ってるのかは、知らねえけど。その変な芸当のお蔭で、見つけやすかったぜえ? ばっかだなあ。目立つ行動しちまうんなんて」
カチャっという音とともに、眉間に冷たく硬いものがめり込む。
「お前をここで殺しはしないが、腕の借りは返してもらうぞ」
拳銃が撫でるように、眉間から鼻を通り、もったいぶって下へと降りていく。
「言っておくが、指一本でも動かせば、お前のお仲間に穴が増えるからな? ちなみに、お前の後ろで、俺の仲間がいつでも撃てるようにしているぞ」
ブルーノは、三日月型に口を歪める。
「さて、どこを撃とうかなあ。お前らを沈めたら、きっと街には感謝されるだろうなあ?」
拳銃が喉元を通り過ぎ、心臓の辺りを過ぎ……そして、腹の上で止まった。
「ここにし——」
声を遮るように、空気が弾けたような、乾いた音が体の側をすり抜けた。
風、と呼ぶには硬すぎる何かが、すぐ横を通り、遅れて、金属が金属を叩く甲高い音がした。それとともに、腹に食い込んでいた冷たさが、ふっと消えた。
視線を落とすと、ブルーノの手が空になっていた。拳銃は、二間ほど先の石畳の上で、独楽の終わりのように回って、止まった。
(なんだ……今、こいつが撃ったわけじゃ、ないよな?)
銃のことはよく知らない。だが、知らない俺でも、さすがに今のはこいつじゃない。自分の得物を自分で弾き飛ばす馬鹿はいない。
「おい……動くなって言ったよな?」
ブルーノが、すべてを削ぎ落としたかのように、無表情で呟いた。
さっきまでの嗜虐の笑みも、猫撫で声も、剥がれ落ちている。残ったのは、濡れた石みたいな目だけだった。
感じのいい男ではもとよりないが、ここまで気味が悪いと思ったのは、この顔が初めてだった。
だが、この口ぶり——奴は、今のを俺の仕業だと思っている。
「俺は、何もしていない……」
「よし……やれ」
淡々とした口調に、一瞬、何を言っているのか分からなかった。俺にではない。俺の後ろに向けた言葉だと、遅れて理解が追いつく。
「マルコっ!」
振り返ると同時に、先と同じ乾いた音が、三度、重なるように鳴った。
だが、マルコは青白い顔でしゃがみ込んでいるだけで、何も変わらない。
代わりに、彼の足元に、拳銃が三丁、順に転がり落ちた。持ち主たちは、揃って自分の空の手を見つめている。
空気が冷え、一気に張り詰めた。
(誰かが銃で、拳銃だけを弾き飛ばした……? 三丁、続けざまに?)
そんな芸当が、できるものなのか。暗がりで、動く人間の手の中の、掌ほどの的を——正確に。
月光が、狭い路地に差し込んだ。
雲が切れたのだ。青白い光が、倉庫の壁を、転がった銃を、男たちの強張った顔を順に洗っていく。
そんな場合じゃない。分かっているのに——視線が、勝手に光の出所を遡った。
倉庫の屋根の上に、人影がひとつ、立っていた。
夜空を背に、微動だにしない。構えた腕の先だけが、静かにこちらの路地を向いている。
海風が吹いたその一瞬、影の輪郭から、白いものがほどけて流れた。
(まずい……何やってるんだ、俺は!)
マルコを抱えて逃げる、今がその一瞬だったはずなのに。月なんか仰いでいる場合じゃなかったはずなのに。
また、発砲音が連続して鳴り響いた。
(せめて、マルコをっ……)
弾を背中で受ける覚悟で、人影に背を向け、マルコに覆い被さる。
だが、痛みも、熱も、衝撃も、いつまで経っても来なかった。
顔を上げると、俺たちを囲んでいた男たちの方が、じり、と後ずさっていた。彼らの爪先のすぐ前の石畳に、小さな穴が、点線みたいに整然と並んでいる。
「誰だ? てめえは!」
誰かが叫んだ。応えの代わりに、その男の靴の前へ、間髪入れずにもう一発。男は短い悲鳴を上げて跳び退った。
「君たちに、選ばせてあげよう」
どこかで聞いた覚えのある、柔らかい声がした。
しかし、屋根の上から降ってくる声ではない。地上の、路地の口からだった。
「大人しく手を引くか、ここで塵になるか」
ギャングたちが、一斉に振り向く。その視線の先——ガス灯の淡い光の中に、壮年の男がひとり、立っていた。
後ろ手に手を組み、余裕綽々な立ち姿で、見覚えのある顔がにこやかに笑っている。
(……なんで、あの爺さんが、こんな所に)
なんで、あの金持ちが、こんな血の匂いのする路地にいるんだ。
「おいおい……おっさん。邪魔するなよ? 誰がここで塵になるって?」
ブルーノは鼻で笑うと、足元の拳銃を拾い上げ、素早く構えた。
「そんな丸腰で、俺たちに喧嘩売るとは、随分な度胸だなあ?」
「そうかい? ありがとう。では、私も賛辞を送ろう。この私に、そんなもので脅しをかけようだなんて。おまけに、私の目を見てしまうなんて、随分な肝の座りようだね……」
男は笑いながらも、どこか哀れむように言った。
直後——ブルーノの構えた腕が、ぎこちなく動いた。
操り糸の絡んだ人形みたいな、本人の意思とまるで噛み合わない動き方で、腕は銃口の向きを変え——自分のこめかみに、押し当てた。
「は……?」
皆、呆然と奴を見ていたが、ブルーノ自身が、一番呆けた顔をしている。
誰も動かない。囲みの男たちも、凍りついたように動けないようだ。
「さて、もう一度聞くよ。大人しく手を引くかい? それとも、その引き金を引いてしまうのかい?」
「はあ? そんなバカなことを、するわけっ——」
強気な言葉とは裏腹に、ブルーノの指が、ゆっくりと引き金にかかった。
本人の目が、恐怖に見開かれていく。だが、奴は動かない。こめかみに銃口を押し当てたまま、彫像のように固まっている。
喉仏だけ、上下している。
時間ごと凍りついたような路地に、波の音だけが遠く聞こえていた。
「て、てめえら、何ぼさっとしてんだ……!」
囲みの中の誰かが、上擦った声で叫んだ。
「あのジジイをやれ! ジジイさえ、どうにかすりゃ……!」
その一声で、止まっていた男たちが、息を吹き返したように動き出した。
三人、四人——路地の口の男へ向かって、雪崩を打つ。
しかし、鈍い音とともに、雪崩は一気に方向を変えた。
数人が真横へ吹き飛ぶ。積み荷の木箱に背中から突っ込み、板の割れる音とともに沈む。
何が起きたのか、見えなかった。あの壮年の男との間、何もなかったはずの闇に、いつの間にか別の人影が立っていた。
残った奴らが、その人影へ拳を、銃把を叩き込もうと殺到するが、届くことはなく、人が地面へ畳まれていく。
まばたき、数回分。それだけの間に、雪崩は全部、地面に伸びていた。
漆黒の髪の陰で、顔はよく見えないが、この辺りの人間とは違う。異国人のような————
(いや……今だ。今!)
見とれている場合じゃない。全員の目が、あの二人に釘付けになっている、この一瞬しかない。
マルコの腕を肩に回す。ほとんど引きずる形になる。
胸の内で謝りながら、呆然と立ち尽くすギャングの間を、縫うように抜けた。
「おい、ガキどもが逃げるぞ!」
背後で声。振り向かずとも分かる。視界の端で、銃口が二つ、こちらへ振り向く。
苦し紛れに、奴らとの間の空中へ、火の幕を広げてみせる。弾は火を抜ける。
気休めになるかも分からないが、他にできることがない。
その時、頭上に影が落ちた。
月が、翳ったのかと思ったが、違う。
顔を上げるとほぼ同時、影は目の前に降り立った。
着地の音がしなかった。三階分はある倉庫の屋根から降りたはずなのに、猫の跳躍ほどの音もなく、影は俺とマルコの前に、すっと立った。
(まずいっ……)
発砲音が、目の前で連続して鳴った。
体を強張らせてしまったが、痛みは来ない。熱も来ない。火薬の匂いだけが、鼻の奥に広がり、背後から、体が地面に叩きつけられる鈍い音が聞こえた。
目の前に立つ女が、ゆっくりと銃を下ろし、俺を見上げる。
雪と見間違えるほどに白い髪が、夜風に揺れている。
恐ろしく精巧に作られた顔。体温を感じさせない、蝋人形めいた白。
そして、どこかで見た青灰色の目。
「血を止めないと、死ぬ」
細いが、芯の通った声が、形のよい口から出た。
「もう動かさない方がいい」
女は淡々と、肩へ手を伸ばすと、マルコがピクリと震えた。
「触るなっ!」
怒鳴ると、喉奥にわずかな痛みが走った。急に叫んだからだろうが、気にしている暇はない。
誰なのか、味方なのか——果たして、俺たちに味方なんているのか。
だが女は、全く気にする素振りもなかった。びくりともせず、細く白い指がマルコの傷口へ伸びていく。
(絶対に、守るんだっ、守らないと)
指先に、熱が集まる。この白い手を、燃やさなければ——意識を火へ向けた、その次の瞬間。
青灰色の目が、こちらを見た。
その冷たい目が、集めたはずの熱を無に返した。
目が合った刹那、女の腕が持ち上がり——数発の発砲音と火薬の匂いが、また広がった。
——銃口は、俺ではなく、俺の肩越しを向いていた。
女は、再び銃をゆっくりと下ろす。それと同時に、また鈍く重いものの倒れる音がした。
ちらりと見やると、胸元から赤いものを垂れ流したギャングが数人、拳銃を握ったまま仰向けに転がっていた。
(無理だ……)
この女は、一瞬で俺の後ろを撃った。それも、多分正確に心臓を狙って。構えていなかった状態から、一瞬で撃ったのだ。
俺が火を出して攻撃したところで、今と同じようになるのだ。この女にとっては、俺の火など、路傍の小石どころか、砂粒でもない。
(駄目だ、逃げられない……)
火で、能力で、どうにかなる相手じゃない。
背は、俺よりずっと低い。腕も細い。体格だけ見れば、非力そのものだ。が、この女を人間の枠組みで測ってはいけない——頭が、いや、もっと深いところにある本能に近い何かが、全力で警告を鳴らしている。
アニタの暴走とは違う。
人ではなく、何かもっと、目に見えぬ大きな力、それも規格外な。神か悪魔か、何か、次元が異なるモノ。そんなものを目の前にしているような感覚なのだ。
「分かった、お前の言う通りにする……」
搾り出した声は、自分でも情けなくなるほど掠れていた。
このまま言いなりになるのが危険なことくらい、分かっている。だが、今の俺の頭は使い物にならないし、マルコの血は、待ってくれない。
「でも、教えてくれ……お前は、何なんだ」
女は、数度まばたきをした。
それが、なんだか妙な気がした。人形が、まばたきをしたようなそんな違和感。
視線が一瞬だけ左右に揺れ——それから、青灰色の目が、まっすぐこちらを見据えた。
「——Salve, Frater」
夜気に、その三語だけが、静かに置かれた。
"やあ、同胞よ"
ボックス席の金持ちどもが初めて来た日、心付けと一緒に寄越された、白々しい賛辞のカード。
鬱陶しくて、手の内で燃やしたが、その炎の中から浮かび上がった、あの言葉。
恐らく、俺が燃やすことを見越して仕込まれていた言葉であり、そして、この火がただの手品ではないと知っている者でなければ、書けない言葉。
(そうか……そういうことか……)
髪の色が、違う。焦げ茶ではなく、雪の白。
だが、この目の色の持ち主が、そう何人もいるはずがない。
昼間、団長が揉み手で見送った——俺が、頭空っぽの人形だと嗤った、あのいけ好かない令嬢。
人形は、確かに人形だった。
ただし、金持ちの飾り物なんかじゃない。もっと得体の知れない、恐ろしい何かを宿したものだったのだ。




