↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
26/46

Salve Frater

角を二つ折れ、倉庫の間の細い隙間を抜ける。

 視界の端に、点々と続く赤い跡。自分の走るすぐ横を、それが途切れずに辿っている。

 姿の見えないマルコの、苦しげな息遣いが、跡と一緒についてくる。息の間隔が、さっきより短い。


(テントまで保たない……) 


 どこかに、入らないと。血の跡を切って、傷を縛れる場所に。

 脇の倉庫が目に入った。大扉の横の、人ひとり分の通用口。取っ手には、真鍮の錠前がぶら下がっている。

 鍵はない。だが—一気に高温で燃やせば、溶けるかもしれない。やったことはない。だが、他に手もない。

 

「マルコ、一回やすも——」


 ぶわりと、マルコの体が視界に飛び込んでくる。

 膝から崩れる体を、なんとか受け止めた。腕の中のそれは、驚くほど軽くて、驚くほど熱かった。


「エリゾ……もう……」

(くそっ……)


 撃たれた体で、走りながら、能力を維持し続けるのは、さすがに厳しかった。

 もうマルコは、自分で隠れられない。この先は、俺が隠すしかない。

 彼を扉の脇に座らせ、錠前に掌をかざす。指先に集めた火を、一点に絞って放った。


「早く、早くっ……」


 真鍮の錠前が、火に包まれる。表面が煤け、色がくすんでいく——が、それだけだ。形は、微塵も崩れない。

 

 舞台の火とは、勝手が違う。

 燃えたがっているもの、燃えやすいものに火を貸してやるだけの芸だ。

 

 怒号が、近づいてくる。足音が、増えている。

 

(頼む、早く溶けろっ)


 火を強め、輪郭を絞る。しかし、錠前は色を変えはするが、まだ形を保っている。


「あ、つい……」


 マルコが消え入りそうに呟く。

 俺は、自分の火の熱を感じないし、感じたことがない。だが、金属を炙るほどの火なら、この距離のマルコには、肌を刺す熱だろう。


「ごめん。もうちょっと待ってくれ」


 空いた手で、マルコの体を少しでも火から遠い壁際へ寄せ、寄りかからせる。マルコは何か言おうと口を動かしたが、声にはならなかった。

 

 錠前に向き直る。

 舞台では一度もやったことのない火の使い方を、手探りで探していくしかない。

 炎の色が、橙から、白っぽいものに変わる。


(溶けろ、溶けろっ……!)


 真鍮が、赤黒く、そして眩い赤へと染まり——ぐにゃり、と。

 飴細工みたいに、形が崩れた。掛け金から、錠前の残骸が音を立てて落ちる。


「よしっ! マルコ、空いた、ぞ……」


 跳ね上がるような興奮を抑えながら、振り向いたが——。

 いつの間にか、錠前ひとつと睨み合っていた、そのわずかな間に、路地の両側は、また壁が出来上がろうとしていた。取り巻く状況は、いつの間にか先と同じに変わっていた。


「よお、ガキども……よくも、やってくれたな?」


 脂汗をかいたブルーノが、引きつった笑みを浮かべている。


「そうか、そうか……毎年、変な事件が起きるのは、お前たちの仕業か……へえ?」


 唾を吐くと、奴は距離を一気に縮めにきた。


「どんな手品使ってるのかは、知らねえけど。その変な芸当のお蔭で、見つけやすかったぜえ? ばっかだなあ。目立つ行動しちまうんなんて」


 カチャっという音とともに、眉間に冷たく硬いものがめり込む。


「お前をここで殺しはしないが、腕の借りは返してもらうぞ」


 拳銃が撫でるように、眉間から鼻を通り、もったいぶって下へと降りていく。


「言っておくが、指一本でも動かせば、お前のお仲間に穴が増えるからな? ちなみに、お前の後ろで、俺の仲間がいつでも撃てるようにしているぞ」


 ブルーノは、三日月型に口を歪める。 


「さて、どこを撃とうかなあ。お前らを沈めたら、きっと街には感謝されるだろうなあ?」


 拳銃が喉元を通り過ぎ、心臓の辺りを過ぎ……そして、腹の上で止まった。


「ここにし——」

 

 声を遮るように、空気が弾けたような、乾いた音が体の側をすり抜けた。

 風、と呼ぶには硬すぎる何かが、すぐ横を通り、遅れて、金属が金属を叩く甲高い音がした。それとともに、腹に食い込んでいた冷たさが、ふっと消えた。

 

 視線を落とすと、ブルーノの手が空になっていた。拳銃は、二間ほど先の石畳の上で、独楽の終わりのように回って、止まった。

 

(なんだ……今、こいつが撃ったわけじゃ、ないよな?)

 

 銃のことはよく知らない。だが、知らない俺でも、さすがに今のはこいつじゃない。自分の得物を自分で弾き飛ばす馬鹿はいない。

 

「おい……動くなって言ったよな?」

 

 ブルーノが、すべてを削ぎ落としたかのように、無表情で呟いた。

 さっきまでの嗜虐の笑みも、猫撫で声も、剥がれ落ちている。残ったのは、濡れた石みたいな目だけだった。

 感じのいい男ではもとよりないが、ここまで気味が悪いと思ったのは、この顔が初めてだった。

 

 だが、この口ぶり——奴は、今のを俺の仕業だと思っている。

 

「俺は、何もしていない……」

「よし……やれ」

 

 淡々とした口調に、一瞬、何を言っているのか分からなかった。俺にではない。俺の後ろに向けた言葉だと、遅れて理解が追いつく。


「マルコっ!」

 

 振り返ると同時に、先と同じ乾いた音が、三度、重なるように鳴った。

 だが、マルコは青白い顔でしゃがみ込んでいるだけで、何も変わらない。

 代わりに、彼の足元に、拳銃が三丁、順に転がり落ちた。持ち主たちは、揃って自分の空の手を見つめている。

 

 空気が冷え、一気に張り詰めた。

 

(誰かが銃で、拳銃だけを弾き飛ばした……? 三丁、続けざまに?)

 

 そんな芸当が、できるものなのか。暗がりで、動く人間の手の中の、掌ほどの的を——正確に。

 

 月光が、狭い路地に差し込んだ。

 雲が切れたのだ。青白い光が、倉庫の壁を、転がった銃を、男たちの強張った顔を順に洗っていく。

 

 そんな場合じゃない。分かっているのに——視線が、勝手に光の出所を遡った。

 倉庫の屋根の上に、人影がひとつ、立っていた。

 夜空を背に、微動だにしない。構えた腕の先だけが、静かにこちらの路地を向いている。

 

 海風が吹いたその一瞬、影の輪郭から、白いものがほどけて流れた。


(まずい……何やってるんだ、俺は!)

 

 マルコを抱えて逃げる、今がその一瞬だったはずなのに。月なんか仰いでいる場合じゃなかったはずなのに。

 また、発砲音が連続して鳴り響いた。

 

(せめて、マルコをっ……)

 

 弾を背中で受ける覚悟で、人影に背を向け、マルコに覆い被さる。

 だが、痛みも、熱も、衝撃も、いつまで経っても来なかった。

 

 顔を上げると、俺たちを囲んでいた男たちの方が、じり、と後ずさっていた。彼らの爪先のすぐ前の石畳に、小さな穴が、点線みたいに整然と並んでいる。

 

「誰だ? てめえは!」

 

 誰かが叫んだ。応えの代わりに、その男の靴の前へ、間髪入れずにもう一発。男は短い悲鳴を上げて跳び退った。

 

「君たちに、選ばせてあげよう」

 

 どこかで聞いた覚えのある、柔らかい声がした。

 しかし、屋根の上から降ってくる声ではない。地上の、路地の口からだった。

 

「大人しく手を引くか、ここで塵になるか」

 

 ギャングたちが、一斉に振り向く。その視線の先——ガス灯の淡い光の中に、壮年の男がひとり、立っていた。

 後ろ手に手を組み、余裕綽々な立ち姿で、見覚えのある顔がにこやかに笑っている。


(……なんで、あの爺さんが、こんな所に)

 

 なんで、あの金持ちが、こんな血の匂いのする路地にいるんだ。

 

「おいおい……おっさん。邪魔するなよ? 誰がここで塵になるって?」

 

 ブルーノは鼻で笑うと、足元の拳銃を拾い上げ、素早く構えた。

 

「そんな丸腰で、俺たちに喧嘩売るとは、随分な度胸だなあ?」

「そうかい? ありがとう。では、私も賛辞を送ろう。この私に、そんなもので脅しをかけようだなんて。おまけに、私の目を見てしまうなんて、随分な肝の座りようだね……」

 

 男は笑いながらも、どこか哀れむように言った。

 直後——ブルーノの構えた腕が、ぎこちなく動いた。

 

 操り糸の絡んだ人形みたいな、本人の意思とまるで噛み合わない動き方で、腕は銃口の向きを変え——自分のこめかみに、押し当てた。

 

「は……?」

 

 皆、呆然と奴を見ていたが、ブルーノ自身が、一番呆けた顔をしている。


 誰も動かない。囲みの男たちも、凍りついたように動けないようだ。

 

「さて、もう一度聞くよ。大人しく手を引くかい? それとも、その引き金を引いてしまうのかい?」

「はあ? そんなバカなことを、するわけっ——」

 

 強気な言葉とは裏腹に、ブルーノの指が、ゆっくりと引き金にかかった。

 本人の目が、恐怖に見開かれていく。だが、奴は動かない。こめかみに銃口を押し当てたまま、彫像のように固まっている。

 喉仏だけ、上下している。

 

 時間ごと凍りついたような路地に、波の音だけが遠く聞こえていた。

 

「て、てめえら、何ぼさっとしてんだ……!」

 

 囲みの中の誰かが、上擦った声で叫んだ。

 

「あのジジイをやれ! ジジイさえ、どうにかすりゃ……!」

 

 その一声で、止まっていた男たちが、息を吹き返したように動き出した。

 三人、四人——路地の口の男へ向かって、雪崩を打つ。


 しかし、鈍い音とともに、雪崩は一気に方向を変えた。 

 数人が真横へ吹き飛ぶ。積み荷の木箱に背中から突っ込み、板の割れる音とともに沈む。

 

 何が起きたのか、見えなかった。あの壮年の男との間、何もなかったはずの闇に、いつの間にか別の人影が立っていた。

 残った奴らが、その人影へ拳を、銃把を叩き込もうと殺到するが、届くことはなく、人が地面へ畳まれていく。

 まばたき、数回分。それだけの間に、雪崩は全部、地面に伸びていた。

 漆黒の髪の陰で、顔はよく見えないが、この辺りの人間とは違う。異国人のような————

 

(いや……今だ。今!)

 

 見とれている場合じゃない。全員の目が、あの二人に釘付けになっている、この一瞬しかない。

 

 マルコの腕を肩に回す。ほとんど引きずる形になる。

 胸の内で謝りながら、呆然と立ち尽くすギャングの間を、縫うように抜けた。

 

「おい、ガキどもが逃げるぞ!」

 

 背後で声。振り向かずとも分かる。視界の端で、銃口が二つ、こちらへ振り向く。

 

 苦し紛れに、奴らとの間の空中へ、火の幕を広げてみせる。弾は火を抜ける。

 気休めになるかも分からないが、他にできることがない。

 

 その時、頭上に影が落ちた。

 月が、翳ったのかと思ったが、違う。

 顔を上げるとほぼ同時、影は目の前に降り立った。

 

 着地の音がしなかった。三階分はある倉庫の屋根から降りたはずなのに、猫の跳躍ほどの音もなく、影は俺とマルコの前に、すっと立った。

 

(まずいっ……)

 

 発砲音が、目の前で連続して鳴った。

 体を強張らせてしまったが、痛みは来ない。熱も来ない。火薬の匂いだけが、鼻の奥に広がり、背後から、体が地面に叩きつけられる鈍い音が聞こえた。

 

 目の前に立つ女が、ゆっくりと銃を下ろし、俺を見上げる。

 

 雪と見間違えるほどに白い髪が、夜風に揺れている。

 恐ろしく精巧に作られた顔。体温を感じさせない、蝋人形めいた白。

 そして、どこかで見た青灰色の目。

 

「血を止めないと、死ぬ」

 

 細いが、芯の通った声が、形のよい口から出た。

 

「もう動かさない方がいい」

 

 女は淡々と、肩へ手を伸ばすと、マルコがピクリと震えた。

 

「触るなっ!」

 

 怒鳴ると、喉奥にわずかな痛みが走った。急に叫んだからだろうが、気にしている暇はない。 

 誰なのか、味方なのか——果たして、俺たちに味方なんているのか。

 

 だが女は、全く気にする素振りもなかった。びくりともせず、細く白い指がマルコの傷口へ伸びていく。

 

(絶対に、守るんだっ、守らないと)

 

 指先に、熱が集まる。この白い手を、燃やさなければ——意識を火へ向けた、その次の瞬間。

 青灰色の目が、こちらを見た。

 

 その冷たい目が、集めたはずの熱を無に返した。

 目が合った刹那、女の腕が持ち上がり——数発の発砲音と火薬の匂いが、また広がった。

 

——銃口は、俺ではなく、俺の肩越しを向いていた。

 

 女は、再び銃をゆっくりと下ろす。それと同時に、また鈍く重いものの倒れる音がした。

 

 ちらりと見やると、胸元から赤いものを垂れ流したギャングが数人、拳銃を握ったまま仰向けに転がっていた。


(無理だ……)

 

 この女は、一瞬で俺の後ろを撃った。それも、多分正確に心臓を狙って。構えていなかった状態から、一瞬で撃ったのだ。

 

 俺が火を出して攻撃したところで、今と同じようになるのだ。この女にとっては、俺の火など、路傍の小石どころか、砂粒でもない。

 

(駄目だ、逃げられない……)

 

 火で、能力で、どうにかなる相手じゃない。

 背は、俺よりずっと低い。腕も細い。体格だけ見れば、非力そのものだ。が、この女を人間の枠組みで測ってはいけない——頭が、いや、もっと深いところにある本能に近い何かが、全力で警告を鳴らしている。

 

 アニタの暴走とは違う。

 人ではなく、何かもっと、目に見えぬ大きな力、それも規格外な。神か悪魔か、何か、次元が異なるモノ。そんなものを目の前にしているような感覚なのだ。

 

「分かった、お前の言う通りにする……」

 

 搾り出した声は、自分でも情けなくなるほど掠れていた。

 このまま言いなりになるのが危険なことくらい、分かっている。だが、今の俺の頭は使い物にならないし、マルコの血は、待ってくれない。

 

「でも、教えてくれ……お前は、何なんだ」

 

 女は、数度まばたきをした。

 それが、なんだか妙な気がした。人形が、まばたきをしたようなそんな違和感。

 視線が一瞬だけ左右に揺れ——それから、青灰色の目が、まっすぐこちらを見据えた。

 

「——Salve(サルヴェ), Frater(フラーテル)」

 

 夜気に、その三語だけが、静かに置かれた。

 

 "やあ、同胞よ"

 

 ボックス席の金持ちどもが初めて来た日、心付けと一緒に寄越された、白々しい賛辞のカード。

 鬱陶しくて、手の内で燃やしたが、その炎の中から浮かび上がった、あの言葉。

 

 恐らく、俺が燃やすことを見越して仕込まれていた言葉であり、そして、この火がただの手品ではないと知っている者でなければ、書けない言葉。

 

(そうか……そういうことか……)

 

 髪の色が、違う。焦げ茶ではなく、雪の白。

 だが、この目の色の持ち主が、そう何人もいるはずがない。

 

 昼間、団長が揉み手で見送った——俺が、頭空っぽの人形だと嗤った、あのいけ好かない令嬢。

 人形は、確かに人形だった。

 ただし、金持ちの飾り物なんかじゃない。もっと得体の知れない、恐ろしい何かを宿したものだったのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。