仕事
「——ゾ、ねえ、エリゾ」
声の方を向くと、フードを深くかぶったマルコが、青い顔をしている。
「……お前、体調でも悪いのか?」
「違うよ。ただ……」
マルコは自身の足先をしばらく見つめるも、おずおずと顔を上げた。
「さっきから、すごく速足で、一言も喋らないし、顔も合わせてくれないから……何か怒らせてしまったのかな、と」
「え……? あ、ああ……」
さっきから、確かに倉庫街を進んでいたはずが、あまりその景色を思い出せない。
頭の中は、ひたすらあいつの顔と声を延々と繰り返すので、追い出そうと必死だったのかもしれない。
「ごめん……少し苛ついていて。それで、余裕がなかったんだ」
「俺こそ、ごめんなさい。姉ちゃんのこと、何も出来なくて」
「いや、そうじゃない。それとは無関係の話だよ」
マルコの顔色は、やっぱりあまり良くならない。再び、俯いて足先を眺めている。
「アニタは……あの後も大丈夫だったか?」
「うん……」
「そっか……しばらく、症状も落ち着くと思うから。安心しろよ」
こくりと頷くだけだったが、マルコの顔はわずかに緩んだ。
——この、嘘つき野郎
頭の奥から、見て見ぬふりをしている事実が囁いてくる。
——アニタをもう、後戻りできなくさせたのは、お前だろう?
(……あの訪問客の男の嘘だって、可能性はあるじゃないか)
そうだ。
あいつの趣味の悪い嘘じゃないという、保証がどこにある?
確実じゃないんだ。
だから、憶測でマルコを落ち込ませる必要なんてない。
「エリゾ。今日はここじゃないの?」
振り返ると、首を傾げるマルコがいる。
見ると、なぜか指定場所である倉庫街の隅を、無視して通り過ぎようとしていた。
「ごめん、そうだな」
誤魔化したが、マルコは訝しげな目で見つめるのを、やめてはくれない。
「本当に大丈夫だ、本当に……いや、疲れてるのかもしれない」
疲れているのは事実。だが、なんとしてでも、あのことを悟られたくない。
幸い、マルコは納得したように頷いた。けれど、また暗く沈んだ顔に戻った。
「うん……帰ったら、ゆっくり休んでよ。最近、姉ちゃんだけじゃなく、ディノ、ルーカ、レアも、発作をよく起こすかっ——」
足音が聞こえた。
反射的に、マルコを静かにさせる。
奥から、骨が目立つ相貌の男が、歩いてきた。二十半ば、黒髪、青白い顔。メモと特徴が同じだ。
フードを深く被り直す。仕事の始まりだ。
「ファビオ・リッチか?」
繕った低い声で訊ねると、男はビクリと肩を震わせた。
「一七〇ヴァロル、用意はできたのか?」
男は、懐から封筒を取り出すと、小さく背を曲げながら差し出してきた。
封筒を手に取るも、明らかに足りている厚さ、重さではない。
「いくら入っている? 明らかに少ないんだが」
封筒をマルコに渡し、数えるのを任せる。
交渉役は得意でもなんでもないが、マルコに胸糞悪いことをさせたくはない。
「さ、三十ヴァロルだ……こ、これでも、必死にかき集めたんだ。頼むから、もう少し期限を延ばしてくれないか? さすがに、これは短すぎる!」
「そう言われても。こちらは必ず返すと信じて貸した。その信頼を裏切っていることは、忘れていないだろうな?」
「そんな……せめて、利子の分は待ってくれないか?」
「……この期に及んで、まだこちらに要求するのか?」
紙幣を整える、小気味よい音が鳴った。
「全部で二十七。三ヴァロル足りない」
マルコはこちらに束を渡しながら、小さく息をついた。
「おまけに、二十七ヴァロルを三十ヴァロルとちょろまかそうとしているのか?」
「そんな! そんなはずない、だって確かに……」
ファビオ・リッチの顔からして、嘘はついていなさそうだ。となると、どこからか調達したときに取られたか、騙されたか。
マルコに合図を送ると、姿が溶けるように消える。
「まあいい。とにかく、金がないなら代わりを貰うぞ」
「そんな、待ってくれ」
ファビオ・リッチの手首から、腕時計がひとりでに外れる。
「まあまあ、良さそうな時計をしているらしいし、その指輪もそこそこ価値にはなるだろ」
指輪もするりと、薬指を通り抜ける。
ぱっと見、金になりそうなものはそのくらいだ。
合図を出すと、ふわりと風が揺れ、側からマルコがぬっと現れる。手にはしっかりと時計と指輪を握っていた。
「待ってくれ、その二つだけはっ……」
「うるせえな。用意もできないくせに、文句言うなよ」
確かに大切な形見か、何かだったりするかもしれない。
だが、特別公演に出るよりも数千倍はマシに決まっている。あんなやつに参加すれば、死ぬだけなんだから。
「だから、それだけはダメなんだ! 返してく——」
——パンッ
平手打ちのような、やけに乾いた音が響く。
後を追うように火薬の匂い、そして鉄臭い匂いが鼻をついた。
「俺の義弟に、何してんだ?」
粘質のある声音が、ファビオ・リッチの向こうから聞こえてくる。
「っ……! ぐえっ……」
隣が崩れ落ちる。
目をやると、肩から赤を吹き出すマルコがうずくまっている。
(何が、起こっているんだ……?)
「こんばんは、貸金屋さん?」
粘性のある声が、ファビオ・リッチの向こう、闇の溜まりから染み出してきた。
靴音が、こつり、こつりと、急がずに近づいてくる。急ぐ必要がない者の歩幅だった。
男はファビオ・リッチの肩を叩きながら押しのけると、こちらへ向かってくる。倒れたマルコには、目もくれない。犬でも蹴った程度の顔をしている。
「ふーん? 随分と熱心な仕事ぶりしてると思えば、ガキかよ。いくら未来がある若者でも、これはいただけねえよな?」
建物の陰で見にくい。が、一瞬、月光の当たる位置に出たところで、そいつの姿が見えた。
(マジかよ……)
仕立ての良い上着を、わざと着崩している。指には過剰な数の指輪。
口元は笑っているのに、目だけが値踏みの色を浮かべたまま動かない——明らかにギャング界隈の住人の風貌をした男。
その後ろに、似たような気配の男たちが影のようについてくる。
面識はない。
ただ、俺たちが後ろ盾のないカモだけを狙うのは、暗黙の了解だったはずだ。座の連中——あの眼鏡の腐れ野郎は、縄張りに触れるような、馬鹿を見るようなことはしなかったはずだ
「ぶ、ブルーノ、なんで……」
ファビオ・リッチが、頼りない声を絞った。
安堵よりも怯えの色が濃い。普通なら、助けが来たと喜ぶはずが、助かった人間の顔をしていない。
「ん? 当たり前だろぉ? かわいい義弟を守ってやるのは、義兄の役目だってのは」
ブルーノと呼ばれた男は、ファビオ・リッチの肩を抱いた。抱いた、というより、掴んで固定した。
「真面目で小心者のお前が、突然金を貸してくれなんて、おかしいと思ったんだよなぁ。何があったかは知らねえけど、かわいそうに、恐喝されていたとはなあ」
白々しい猫撫で声を出しながら、目を細めて笑うと、その目をぐるりとこちらへ向けた。
値踏みの目が、上から下へ、ゆっくりと往復する。
昼間、何百人の観客に浴びる視線とは、質が違う。
「どこのファミリーの筋の奴かと思えば、たった二人のガキとは。たくさん仲間連れてきて損したなあ」
(……仲間?)
途端に、背筋にぞわりと寒気が走った。
「エリ、ゾ……」
マルコが青白い顔で、背後を見ている。
つられて、目線だけ後ろに寄越す——いくつもの人影が、壁のように退路を塞いでいた。四……六……いや、数えるのをやめた。数える意味のある数じゃない。
いつからだ。いつから囲まれていた。取り立ての間か。それとも、倉庫街に入った時にはもう——考えても遅い。俺は今夜ずっと、あの事務方の男の顔を頭から追い出すのに必死で、周りが見えていなかった。
(——俺の、せいだ)
マルコの肩の赤が、フード越しにも広がっていくのが分かる。
呼吸が浅い。早く、止血しないとまずい。
だが、これでは動けない。囲みの輪が、じり、と一歩狭まる音がする。
「貸金屋のガキども。俺の義弟を、よくいじめてくれたなあ? 俺の妹とこいつは、裏社会とは無関係だけどな。でも、手を出すってなら、話は別だぞ?」
ブルーノは、嗜虐的な笑みを浮かべながら、拳銃を手の内でくるくると回す。
回る銃口が、一周ごとに、こちらを向いては逸れていく。
「裏社会にも、掟ってのはある。金融屋も、それぞれ領分決めてやってるんだ。それを無視して、土足で入ってきたやつには、それなりに制裁を受けてもらわなきゃならねえ。何より……」
奴は、俺の目の前に立った。
煙草と、安くない香水の匂い。その下に、鉄錆に似た匂いが薄く混じっている。銃の匂いか、それとも——。
顔がずいっと近づく。近くで見る目は、笑っていなかった。瞳孔の開いた、湿った目だった。
「俺は、身内を大事にする男なんだ。だから、手を出した奴に容赦はできねえ……ファビオらに近づけないよう、水底で寝ててもらおうか」
港の方から、波の音が、やけにはっきり聞こえた気がした。
(考えろ。考えろ、考えろ……)
俺はともかく、マルコを、死なせるわけにはいかない。今回しくじったのは俺なんだから。
なんとしてでも、この囲みを脱するのが、優先だ。
「マルコ」
声をかけると、荒い息をしながら彼は顔を上げた。
あまり焦点が合わない。それでも、榛色の目が、こちらの意図を読もうと必死に俺の顔を辿る。
ややあって、マルコは、小さく頷いた。言葉いらずに通じたようだ。
「どうした? ああ……ここでは始末つけねえから、まだお別れの挨拶はしなくていいぞ」
後ろから、下卑た笑いが聞こえる。
ただのガキ二人と、侮っているらしい。——それでいい。侮ってろ。まだ可能性はある。
右手をゆっくりと上げる。降参の仕草に見えるように、ゆっくりと。
ブルーノの視線が、上がっていく俺の手を追う。
この右手に、視線が吸い寄せられている空気が、高まっていく、その時を狙って————指を鳴らした。
「……ぐわあっ」
ブルーノの拳銃を持つ手に、火が上がった。
「走るぞ!」
同時に、マルコの姿が溶けるように消える。
悲鳴と怒号。
銃を取り落とす金属音。
一瞬の混乱に、頭が追いついていない男たちの間を、俺たちはすり抜けて走り出した。




