累汚
「離れろっ——」
言いかけたと同時、ガイアとジーノの体が天井に浮かび上がる。そして——
——勢いよく地面に叩きつけられた。
「二人とも! しっかりし——」
言葉を言い終える前に、視界が流れる。
途端に、背中に鈍く、重さがのしかかるような痛みが走った。
息が、出ていったきり戻らない。
脳が揺れる感覚と吐き気に耐えながら薄目を開けると、どうやら俺は支柱に叩きつけられたようだった。
「姉ちゃん、やめてくれ。お願いだよ!」
マルコが肩を掴んで揺さぶるが、彼女の爛々とした目は、自分を捉え続けている。
アニタの腕が、ゆっくり動くのが見えた。やけに、ゆっくりな動きで。
頬を、ぞわりとした感覚が走る————
「ぃやああああっ!」
アリタの髪から、火が上がる。
悲鳴を上げながら、髪を振り回す彼女に、もっと罪悪感が湧くべきなのに。
頭の中では、別のことを考えている。
————これは、お前らが決して知ることのない、高度な技術で作られた強力な鎮静剤だ。その睡眠薬とは比べものにならない
突然の訪問者――ストロベリーブロンドの男は、面白そうに唇を歪めながら、そう言った。
————これを、体のどっかに打ち込めさえすれば、暴走は確実に抑えられる。あと、おまけで一週間から十日は、能力の出力は安定する。ただ……
その先の言葉が確かに頭に過る。
だが、男に渡されたそれを握り——髪の火に、アニタが怯んだその隙を狙って、泣き叫ぶ彼女の肩に刺し込んだ。
————ただ、次に暴走したときは、殺すほかなくなるぞ。どのみち、睡眠薬に頼ってる時点でもう、先なんてないだろうけどな。
「エリゾ……大丈夫?」
マルコに肩を揺すられ、現実に戻る。
アニタは、マルコの側で穏やかな顔をして眠っている。
心配そうな榛色の目を見ることができない。マルコは何も知らないが、自分のしたことを責められているような気がした。
「大丈夫……ただの打ち身だから」
「そっか……良かった」
マルコの視線から逃れたくて、地面に伸びた二人の側にしゃがむ。
「大丈夫か?」
「なんとか……生きてるよー。さすがに、久しぶりで油断したけど」
「俺も……でも、明日の公演は休みたいなあ……」
二人は、へらりとした笑顔を浮かべた。
体が驚くほど頑丈な二人だから、何とかなった話だ。
「アニタは? 今度こそちゃんと寝れた?」
「……ああ。しばらくは眠ったままだろう」
「なら、良かったよ」
「じゃあ、アニタは私たちが寝かせておくよ。部屋に戻って休んでなよ。エリゾとマルコは、今日の夜は仕事でしょ?」
「そうか……ありがとう」
逃げるようにテントを出る。
早く、一人になりたい。
けれど、公演が終わったばかりで、まだ人の動きが忙しない。
自分の部屋まで、辿り着く前に限界が来そうだ。
物置きに使われているテントが目に入った。
あそこは、使われていない衣装や道具が納められている。よっぽど人が入ってこない。
幕を閉めると、喧騒が一気に遠のいた。
「くそっ……!」
手近にあった木箱に、拳を振り下ろすと、乾いた音がした。
アニタを攻撃してしまった。仲間を、妹のように可愛がっていたはずの存在を、攻撃してしまったのだ。
それも、能力を使ったのは、意図的じゃなかった。
(アニタが、恐かったんだ……)
あの目と、ゆらりと動いたあの手を見た瞬間、自分を守ることしか考えられなくなった。
本能的に、殺されると思ってしまったから。
誰かを守るために、使ったわけじゃない。自分が恐いから使ったんだ。
————覚醒失敗者は、お前たちが抱えられるような、生易しい存在じゃないんだよ。ほとんどは、今殺すか、後で殺すか。その違いしかない。どちらにせよ、地獄を見るんだよ
あの男が言っていた言葉が、再び頭の中に流れ出す。
————本気で、暴走した能力者。しかも、六人もまとめて付き合っていけると思っているのなら、やってみせろ。そしたら、俺が間違いだったと認めてやるよ。まあ……どうせ、恐くなって泣きつくか、お前と他のお友達が死ぬか。どっちかだろうけど
(うるさいっ、うるさいうるさい!)
「うるせえっ!」
声がぐわんと響き、霧散した。
一拍置いて、人が足早に駆けていくのが聞こえる。多分、通りがかった人間が、驚いて逃げていったんだろう。
あの男の言っていた意味が、否応なく突きつけてくる。
けれど、それを認めるわけにいかない。
認めてしまったら、あの男の言うことが正しいことが証明されてしまう。
そうすれば、アニタたちの未来がなくなってしまう。
だが……このままでは限界だ。
(誰か、俺たちを助けてくれ……)
縋る相手なんていないのに。
なんで、何かに祈っているんだろう。
信じられるのは、俺たちしかいないのに。
*
満ちる日も近い月が、紺碧の空の頂きに近づく。
黒の外套を羽織ると、マルコより一足先に事務局のテントへ向かう。
裏の仕事は、夜の十一時からの開始が多い。
依頼人がそもそも、家族、友人、知人に隠れて借りている人間が多いので、人目を避けたがるから。
こちらとしても、色々と夜の方が動きやすいので、互いの利でこのようになっている。
いつものように、団長の側仕えの男が、紙切れを寄越した。
「今日は一件だけだ。楽でよいだろう?」
男は、書類から顔も上げずに言った。
この男の名前は——忘れた。名前を覚えてないのは、お互い様だろう。毎回、違う名前で呼んでくるのだ。
紙切れの字に目を移すと、名前、待ち合わせ場所、風貌、取り立てる額が淡々と書かれている。しかし、いつも見る借金額より、二倍近い数字が書かれていた。
「……随分、額がでかいんだが」
「ん? ああ。先月から転がしてる奴なんだ。今夜を最終期限にしている。払えなきゃ、いつも通り"契約"の話をつけてくれ」
男は、書類——帳簿の数字と睨み合いをするばかりで、ちっともこちらを見ない。
「なんだ? まだ何か言いたいことでも?」
(別に、まだ一言しか話していないだろ)
煩わしげに息を吐く男が、別の生き物に見える。
普段から、この男たちは自分たちをバケモノ扱いするが、趣味の悪い催しを開いて金を稼ぐ、こいつらがバケモノの自覚がないのが、至極不思議だ。
「この名前、今回初めて見るんだが」
「当然だ。お前たちに任せるのは初めてだからな」
「……最終契約の話は、俺たちの取り立ての二回目以降のはずだが」
「別に。そんなルールを作った覚えはない」
取り立ては、金を回収するのが目的のはずだ。
だから今までだって、俺たちの能力を使って脅し、回収の確実を目指してきた。
なのに、それをしないということは……
「……腐れ野郎」
口からこぼれ出た言葉に、男はようやく顔を上げた。眼鏡の奥の切れ長の目が、ゆっくりと細められた。
「それは、私のことか?」
男は苦笑すると、緩慢な動きで細い銀縁の眼鏡を外した。
「私が善人ではないことは認めよう。しかし、君にそれを咎める資格は果たしてあるのかい?」
「……どういう意味だよ」
「ダニエレ・ロムアルド」
腕に、ぞわりと鳥肌が立った。
「彼は、結婚間近だったはずが、追い詰められて川に飛び込んでしまったとか……? 可哀想に。怯えながら溺れ死んでしまったんだっけ」
脳裏に、思い出したくない光景が蘇る。
「ピエトロ・リッツォ。君が一番最初に手を掛けた男は、そんな名前だったか? 彼は、自分がなぜ燃えているかも分からず絶命したことだろう」
この男の声に引き寄せられ、足元から赤黒いものが手を伸ばしてくる。
もう慣れたと思っていたのに。
他人に抉り、掻き回される感覚に胃の底が震え上がり、縮こまる。
奴は、勝ち誇ったように唇を歪めると、組んだ手に顎先を載せ、囁くように言った。
「血で汚れた君に、私を非難する資格はあるのかい?」
(お前のせいなのに……俺が人殺しになったのは、お前が指図したからだろうがっ……)
————コロシテヤリタイ
この目の前の男が、炎に包まれて燃える光景を想像する。
そうすれば、いくら精神が狂っているこいつでも、死に怯えるはず。
そうすれば、俺はここにいられなくなるけど、自由だ。
もう、誰かに飼われることなく生きていける。
——でも、そうしたら他の奴らはどうなる?
俺がいなくなっても、曲馬といわれてこき使われるのは、変わらない。
こいつを殺して逃げたこと、残った奴らが尻拭いさせられたら?
俺が皆を抱えて逃げるか?
どうやって?
「メモが粉々になりそうだが。それで仕事はできるのか?」
男は、鼻で笑った。
ぎりぎりと握りしめていた拳を開くと、紙切れがぐしゃぐしゃに固まっていた。
「それ一枚しかないんだ。大事に扱ってほしいんだが」
男は薄っぺらい笑みを浮かべながら、出口へと促す。
こいつを殺してどうしようか、考えていたのに、この男にとって今のは、何かが喚いている程度のことだったんだろう。
(こんなの、とっくに慣れたはずだろ?)
感情的になればなるほど、馬鹿を見るんだ。
促された通りにこのテントを出ていくのは、死んでも死にきれないが、この悪魔から自分を遠ざけなければ、どうにかなってしまいそうなのだ。
一秒でも同じ空気を吸わないよう、急いで出入り口を抜けた。




