見えないモノ
案内された二階のボックス席は、それなりに凝った作りをしていた。
臙脂のカーテンで仕切られた個室に、天鵞絨張りの椅子が四脚。舞台を斜め上から見下ろす。
(今思うと、やっぱり俺は、いいところの坊ちゃんだったんだな)
遥か昔に、両親、祖父母と一緒にサーカスを見に行ったことを、急に思い出した。
四人が椅子に触り、俺は、皆の膝の上をはしごした。
使用人に、間食を手配してもらって、それをつまんで。
階下から見える他の客を眺めて。
演目の華やかさに、胸を高鳴らせて——
くだらない感傷に浸ってる場合ではない。
奥の特等席の椅子を指で拭う。
埃はついていない。
「"お嬢様"、こちらへ」
室に入っても、使用人として振る舞うのは続けなければならない。
椅子を少し引き、ルナを促す。
彼女は至極慣れた動きで、椅子の前に立つと、ゆっくりと腰を下ろす。俺は、タイミングを見計らい、椅子を押した。
エスコートなどやったことはないが、使用人がやる動きを見ていたお蔭か、要領は分かっている。
彼女も俺も、その世界で暮らした時間があるから、こういうちょっとした振る舞いからは、誤魔化せるだろう。
グレンは杖を椅子に立てかけ、ゆったりと腰を下ろす。
俺は使用人らしく、主人の斜め後ろに立つと、階下に視線を向ける。
人はまだ、ざわめいているが、客席の灯りが落とされているので、次第に声が静まっていく。
カーテンの外に人の気配が近づく。
(めんどくせえ……)
足音の感じから、明らかに素人。
カーテンをめくると、及び腰のウェイターと目が合った。
「あ、あの……」
「用は、こっちから言いつける。それまでは近づかないでくれ。お嬢様は、人の気配に敏感なんだ」
ウェイターは背を縮こませ、一礼をするととぼとぼと遠ざかる。
大方、何か売りつけてこいとでも、上から言われているのかもしれない。
「いや、待て」
思いつきのまま呼び止めると、彼はびくりと肩を震わせてこちらを振り返った。
「お嬢様は、果物の盛り合わせがお好みだ。すぐ用意できるか?」
「は、はい……! かしこまりました!」
勢いよく頭を下げると、慌てて駆けていった。
カーテンを閉め、階下へ視線を戻す。
既に舞台は、華やかな演出に彩られている。
踊り子が、ひらひらした衣装をはためかせ、演舞をしている。
"主人"を盗み見ると、彼女は顔色一つ変えず舞台を観ていた。
彼女の生い立ちを、全て知っているわけではない。
ただ、とてもサーカスを観覧できるような環境で育っていなかったはずだ。
能力者という、手品かインチキのような存在を知る時点で、演目に心躍らせることは、あまりないだろう。しかし、華やかな舞台演出に、少しは驚くものかと思っていた。
足音が近づいてくるのが聞こえる。さっきと同じ、素人の足音だ。
カーテンから顔を出すと、ウェイターは驚いたのか、変な声を出した。
「ご苦労だった。あとは俺がやる。こちらが声をかけるまで下がっていろ」
ウェイターから、半ば強引に盆を奪うように取る。こういう振る舞いは嫌いだが、こそこそ嗅ぎ回られるのは面倒だから。
盆を、"主人"の近くに置かれたテーブルに載せる。
クローシュをとると、冷やされた果物の盛り合わせが出てきた。富裕層を相手にしているせいか、品質は高いように見える。
演目はいつの間にか移り、軽業師の少年たちが、人間離れした跳躍で塔を組み上げている。
「あの黄色の衣装の少年——ジーノ、だね」
グレンは、舞台に視線を置いたまま言った。
「跳ぶ瞬間、着地点の床がわずかに沈んでいる。あれは板の反発じゃない。資料通りやはり、あれは能力によるものだね」
「人力……では、ああはならないですね」
「そうだね。土があんな、まるで水面のように歪むはずがない。歪むのなら、塔は傾くだろうし」
種も仕掛けもないから、誤魔化しの所作が要らない。
観客には「切れ味の良い曲芸」に見えて、知っている人間には、能力の輪郭がそのまま透けて見える。
拍手が湧いた。少年たちが一礼して舞台袖に駆けていく。
「……いい目をしているね、あの子たちは」
グレンが、ぽつりと呟いた。
「は……?」
「いや……アシュリーの報告書に、不可解な事件は、取り立てに関連するものだろう、と書かれていたことを覚えているかい?」
あの紙束の山の中にあった、記述を思い返す。
「もちろんです……ただ、状況的には可能性が高いものの、断定するには情報があまりに足りない。その上、それに関する話題が不自然なほどに出てこなかったと」
「ああ、そうだね……ただ、巡業のタイミングと、証言からすれば、関連はあるだろうに。なのに、情報が出てこないなんて。そんなことがあると思うかい?」
確かに、報告書は内部の情報は詳細に書かれているが、ギャヴィンが言っていた怪奇現象との関連については、ほとんど触れられていなかった。
〈オリジン〉の情報収集が甘かったとは、正直考えにくい。
「まあ、その違和感は一旦置いておいて。僕が言いたいのはね、"人殺し"の割には、あまりにも目が明るいということだ。たとえ、殺しが故意でなくとも、ほとんどの人間は闇を抱えるはず。なのに、どうしてこんなに、明るい目をしているの、か……」
グレンの目が、据わっている。
ここにいるようでいない、その目をしている。
「"ジュリアン"様? ……グレン?」
「あ、ああ……でも、僕の思い過ごしかもしれない。忘れてくれ」
彼はいつもの柔和な顔に戻った。
舞台に視線を戻す。
演目が切り替わったのだ。
銅鑼の音が、派手に鳴り響く。
そして、灯りが落ちるとともに、火が宙に浮かび上がった。
火は揺らめくと凄まじい速さで動き出す。
動く度に、客席が明るくなっていく。客席のろうそくを辿るように、火が動き回ったらしい。
上背のある青年が、舞台に一人立っている。赤味のあるブラウンの髪。自分と同じくらいの年齢。痩せているが、姿勢がいい。
「エリゾ——カルーセル座看板の、火使いですね」
青年が両腕を広げると、掌の上に炎が灯る。
炎は生き物のように腕を這い、輪をくぐり、宙に投げられて花の形に開く。
油も松明も使っていない。燃え移るべき布は燃えず、燃えるはずのない空中で炎が形を保っている。
「……ああ。あれは、隠す気がないね」
グレンが小さく笑いながら言った。
客席は大きく沸いている。
だが、誰一人、目の前の炎が本物の異能だとは思っていない。
異能力者なんて存在を、知らない彼らは、それにたどり着く思考を持ち合わせていないのだ。
炎が渦を巻き、ひときわ大きな歓声が上がる。
しかし、盛り上がりようとは裏腹に、エリゾの顔は随分と冷めている。
(俺も、何かが違えば、あそこに居たのだろうか)
ふと、エリゾの視線が、すっと二階へ滑った。
目が合った——気がした。
「おや、僕たちを見たね」
グレンが言うのだから、気の所為ではないだろう。
物珍しい客への好奇ではない。もっと乾いた、値踏みに近い色だった。
——観察力が高く、頭の回転が速い。座内でも一目置かれている様子。
アシュリーの調査書に、そう記述があった。
「彼に、接触を図ってみようか?」
「……接触を図ったところで、うまくいくとは」
「いいのさ。それならそれで。彼の観察眼に掛けてみるのも面白いんじゃないかな」
「でも、どうやって?」
グレンは、唇の端を持ち上げた。
「もちろん。そこは、チップだろう」
「しかし、資料を見るに、団員へのチップは渡しても……」
「なら、手に渡りそうなものを渡せばいいのさ。例えば、応援メッセージとか」
「さすがに、中身は第三者に見られるのでは?」
ふと、視界にオレンジ色が入ってきた。
皮についたオレンジを持つその手を辿ると、青灰色と目が合った。
「……これを、使えば?」
随分と久しぶりに、彼女の声を聞いた。
ただ、意図が分からない。オレンジと青灰色を、無意識に見比べる。
「ああ、そういうこと。なるほど。いい案かもしれない」
グレンは頷くと、筆記用具を探し始めた。




