上客
テントの入場口には、開演一時間前だというのに、既に列ができ始めている。
車を降りると、自動車への物珍しさと、見慣れぬ東洋人への好奇心。二種類の視線が体に刺さる。
人が大勢雪崩込んでいく、出入り口のその脇——柵で仕切られた別口に、臙脂の制服を着た案内人が退屈そうに立っている。
(パオロ・コスタ。三十八歳。カルーセル座の受付案内人——)
頭の中で、アシュリーの報告書の記述を反芻する。
——モランディ氏の本職、金融事業部の社員だったが、あまり仕事は出来ず、カルーセル座買収後、その受付に回された男。
——『自分は男爵家の人間だった』『上司と喧嘩して左遷させられた』などと吹聴しているが、他の団員関係者の様子から、そういった事実はないと見られる。男爵家の人間、というのは、使用人として両親が下働きをしていた事実を指していると考えられる。
——プライドが高いが、度胸はない。内縁の妻に見栄を張り、かなりの額を貢いでいる様子。
パオロは、ボックス席専用の受付を担当している。
アシュリーの調査資料は、絶対に必要な時は来ないだろうと思われる情報まで、網羅していた。
ここのボックス席は、金さえ積めば、実質誰でも入れるらしい。
そもそも、巡業しているサーカス団ゆえに、年間契約をするメリットがないため、誰もしない。昼の公演より、富裕層は特別公演が目当て。昼公演のボックス席の売り上げは、あまり良くないのだ。
実情を詳細に調べ上げたアシュリーのお蔭で、自分たちは芝居を打つことができる。
(さて……仕事だ)
打ち合わせ通りとはいえ、気は進まない。しかし、そんなことを言っていては、目的は果たされない。
一度だけ息を吐き、肩の力で歩き方を変える。
背筋を伸ばし、顎をわずかに上げ、他人を値踏みし慣れた人間の足取りを装い、案内人の前に立つ。
パオロ・コスタの、ブラウンの目と合った。
「ボックス席を、一室用意してくれ」
その一言を押し出すも、奴はこちらの顔を見るなり、あからさまに眉をひそめた。
上から下まで、無遠慮な視線が往復する。ちらちらと刺さる視線よりも、見下した色が出ている。
「……ボックス席は、ご紹介のあるお客様のみのご案内となっております」
「紹介? そんなものが要るとは、ビラのどこにも書いていなかったが」
「決まりですので」
言葉こそ丁寧だが、目は明確に語っていた。どこの馬の骨とも知れない、中央大陸東部人に売る席はない、と。
普段の自分なら、舌打ちの一つで済ませて立ち去るところだ。
だが今、俺は大陸東部人の使用人、"ジュン"だ。
「……ああ、なるほど」
できるだけゆっくりと、憐れむように首を振ってみせる。
「これだから、敗戦国の人間は……客の顔も見分けられんのか。田舎の見世物小屋には、過ぎた席だったな」
案内人パオロの顔色が、みるみる変わる。
丁寧に繕おうとした仮面の下から、怒りが滲み出てくる。
すんなり売ってくれれば、それはそれで良かった。
ただ——プライドが高い人間は、強い劣等感を抱えるもの。上手い具合に刺激すれば、目立つことができる。
世界政府の独断に振り回された国を、"敗戦国"などとはつゆにも思っていない。しかし、アングリアの名家に仕える、大陸東部出身の使用人の"ジュン"は、そう考えている。
それが染み付いたものとして振る舞わなければならないのだ。
「……お客様。それはどういう——」
「"ジュン"、手続きは済んだか?」
柔らかく、しかしよく通る声が、後ろから割って入った。
振り返ると、仕立ての良いフロックコートに身を包んだグレンが、杖を軽く鳴らしながら歩いてくる。
「"ジュリアン"様」
頭を少し下げつつ、ちらりと横目で案内人を見ると、いきなり現れた富裕層の男に、目をしばたかせていた。
「ん? どうした?」
「申し訳ございません。用意は出来ないとのことで」
「おや……満席だったのかな」
奴、顔を青ざめさせた。
金払いの良い人間の使いだったと知って、焦っているのだろう。
「いいえ……どうやら、紹介者でなければ観覧できないと」
「あ、あのっ——」
何か言いかけようとしたが、知らぬふり、聞こえぬふりを通す。
「そうだったのかい? これ、そんなこと書いてあったかい?」
富裕層の男"ジュリアン"は不思議そうに、案内人の側に貼っているビラを眺め始める。
「いや、あの……」
「そうか、紹介制か……書いてはいないようだが。困ったな。姪に、どうしても見せてやりたかったのだが」
「あの——」
「いやいや、すまないね。君に言っても仕方ないのだろうけれど。こういうこともあるのかと思ってね……今のこの街は、私がいたときと随分変わってしまったんだね。悲しいことだ」
案内人は、先の値踏みする態度はどこへ行ったのか、小さくなってしまった。
「せっかく姪の機嫌が良くなったというのに……」
"ジュリアン"は、芝居がかった仕草で振り返り、視線で背後を示す。
入場口から少し離れた道の端。磨き上げられた深緑の車体を持つ蒸気自動車が停められていることに、案内人は気がついたようだ。
場違いなほどの光を放ち、道行く人間が、遠巻きにちらちらと見ている。あれだけでも、羽振りの良さが伝わるだろう。
その後部座席の窓が、音もなく半分だけ下りた。
焦げ茶色の髪。白磁の顔。
ルナが、車内からこちらへ顔を覗かせた。
(台本には、なかったはずだが……)
ただ、青灰色の目が案内人を一瞥し、それから興味を失ったように、すっと前へ戻り、窓を上げて閉めた。
(気になって覗いたのか……?)
確かに、後部座席の窓は中が見えぬよう、随分と濃いガラスが使われている。〈アポクリファ〉の施設などで使われているものと違い、中からも外が見えにくいのだ。
(ただ、タイミングはちょうど良かった)
案内人は呆けたように、車体へと視線を注いでいる。
人形か絵画が動いているかのように見えたことだろう。
判断が鈍っている今、畳みかけるのが得策だ。
懐から札入れを抜き、中身を数えもせずに掴み出してみせる。
「ボックス席は、いくらだ」
「え……あ、三〇〇ヴァロルですが……」
札束を押しつけると、案内人は反射的に受け取った。
どう少なく見積もっても、提示した額の三倍を超える厚さだ。
「釣りは要らない。それと——」
もう一枚、今度は二つ折りにした札を、臙脂制服の胸ポケットに直接差し込む。
「開演までに、席を整えておいてくれ。お嬢様は、埃が嫌いだ。待たされるのも嫌いなんだ」
案内人は目の前の金に、視線を奪われたまま、こくこくと頷いた。
「……か、かしこまりました。確認いたしますので、少々おまちください」
「なるべく早くな」
案内人は勢いよく頭を下げると、中へ飛び込んでいった。
ちらりと見ると、グレンはまるで、いたずらが成功したかのように嬉しそうに微笑んだ。
金離れが良くて、得体の知れない一行が来たことは、モランディ氏に伝わるだろう。
あの手の男は、実入りは黙っていられない。
その雇い主も、今日の昼公演でボックス席が埋まったことに、気づかぬはずがない。
俺はひとまず、車へと戻る。
扉を開けようと手をかけると、窓が少し開き、青灰色の目がこちらを見上げた。
また体の内が暴れたが、平静を装い、口を開く。
「多分、餌はまけた」
ルナは、小さく頷いた。




