2章‐1
雲ひとつない満天の星空と満月
波は凪ぎ海面は月明かりに照らされ
木々は茂り大地の花が咲き誇る
動物たちは喜びの歌を奏でる
その日、この世界のすべてから祝福されて生まれた子供がいた。
神々の愛し子の魂の欠片を持って生まれた女の子。
幸せになるはずだった、大切に育てられるはずだった。
けれど、『祝福の子』は母の腕にはもういない。
"流れてしまった"
"流されてしまった"
どこへ行ってしまったのか、どうしてしまったのか。
ただひとつ分かることは、母が泣き狂っていることだけだった。
母親はベッドから飛び起き、出産に立ち会った人々を押しのけて、外に飛び出した。辺りが血に塗れても、自分の体に激痛が走っても、一心不乱に外に向かって走っていた。
何処へ流されてしまったかも分からない我が子を追って。
「あぁっ……!私の子!私の子を返して!返して!私の赤ちゃん!私の……!」
「リリス!アマリリス!落ち着くんだ!」
つい先ほどまで、この腕の中には生まれたばかりの愛おしい我が子がいた。確かな温もり、確かな命の重みがあったはずなのに。
幸せに包まれて、我が子に頬を摺り寄せようとしたその瞬間、その現象は起きた。
『時化』
普段は凪いでいる時空の波が荒れ、人や物をどこか違う世界へ流してしまう自然現象。
だが、時化とは滅多に起こるものでないし、時化が発生する場合はその兆候がある。そのはずなのに、突如時化に見舞われて、母から子供を奪っていった。
「リリス、私たちの子は必ず、必ず見つけると誓う。だからどうか落ち着いてくれ。このままだと君の体が危ないんだ」
「ああ……お願い、お願いよジェイル。必ず……必ず見つけて……」
泣き叫ぶ妻を夫が抱き締める。これ以上動いてしまうと母体も危険な状態に陥ってしまう。少なくとも、いますぐ止血をしなければ出血多量で死んでしまってもおかしくない。
「わた、し、の……」
「ああ、必ず見つけよう。だからいまはお休み」
張り詰めていた神経が緩み、だんだんと力が抜けていく妻の体を夫は優しく抱き上げて額にキスをする。
そして、妻が飛び出した屋敷の中へと戻っていく。
「エメル」
「はい、父様」
「すぐに厳戒態勢を構えろ。あの子がどこへ流されてしまったのかを突き止めるんだ。そして連れ戻せ」
「承知しました」
シュタルム家当主、ジェイル・アリシア・シュタルムは研ぎ澄まされたナイフのように鋭く言い放つ。両親を心配して玄関ホールで様子をうかがっていた二人の少年のうち、シュタルム家長男のエメライドは頷いた。恭しく頭を下げるエメライドを一瞥してジェイルは妻の寝室へ戻っていく。
「兄さま……」
「大丈夫だ。俺たちの妹は必ず見つける。心配しなくてもいい」
母を連れて寝室に戻っていくジェイルを見送り、エメライドは踵を返す。アマリリスを世界で一番愛し、彼女にすべてを捧げるジェイルはおそらくこれから先はずっと彼女につきっきりになるだろう。
それこそ、領地を顧みないくらいには。けれどそんなことは許されるはずもない。
「だからカイラム。お前はこの家を頼むよ」
「はい、兄さま」
「お前もまだ小さいのに、すまないな」
「大丈夫です。僕、頑張ります」
まだ十歳だった弟の健気な笑顔を思い出しながら、エメライドは十七年かけて見つけた妹を見つめる。
水郷海という名前を持ち、地球という惑星、日本という国で暮らしていた。育ての親を亡くしても、一人でも逞しく生きていたことは喜ばしい。
だが、どれだけこの世界に思い入れがあろうと、見つけたならば連れて帰らなければならない。おそらく、海にかけられた認識の魔法は切れかかっているから。
そうして蒼も向こうの世界へ行くと言い出したとき、海は蒼の胸を押して彼から離れてゆっくりと首を横に振った。
「駄目です、蒼くん」
ここまで、蒼に抱きしめられたまま黙っていた海がようやく口を開いた。そして、蒼のことを諫めた。そのことにエメライドは驚き僅かに目を見張った。
いままで観察をしてきた海は、常に受け身であり、受け身が故にすべてを肯定していた。だからこそ、蒼の決断になにも言わないと思っていたが海は首を横に振った。
「蒼くんがいなくなったらおば様が……」
「ここで海ちゃんを黙って見送ったほうが、あとでぶっ飛ばされちゃうよ。そうだろ?」
「そ、そうかも……しれないです……」
「だろ?」
蒼の母親は若いころは「やんちゃ」をしていた人であり、夫を亡くしてからも蒼を女手一つで育てている。
明朗快活な性格の女性で、一本筋の通ったまさに女傑という人物だった。そんな蒼の母親を思い浮かべて、海も思わずうなずいてしまった。
「それに、これはただの俺のわがままなんだ。だから俺のわがままに付き合ってよ」
「蒼くん……」
「だから先生。俺も一緒にお願いします」
「……これ以上言っても無駄なんだろうな」
「はい!」
大きなため息をつくエメライドとは対照的に、蒼はとてもいい笑顔で頷いた。軽く頭痛がしてきたこめかみを押さえながらエメライドは呆れたような目で蒼を見やる。
「元気よく返事をするな。ああ、もう。分かった、分かった。もう俺も何も言わん。とりあえず、いまから向こうに帰る」
「え、このまますぐに?手ぶらで?」
「最低限必要なものは向こうでも手に入る。それとも、思い出のためにここに残るか?」
「いますぐ行きましょう。俺の思い出はいつだって俺の中にあるんですから!」
鼻で笑うエメライドに置いて行かれると感じ取った蒼は、ぎゅっと海の手を握った。単純なんだよな、こいつは。と思いながらエメライドは胸ポケットから鍵を取り出した。それは鍵と呼ぶにはあまりにも作りが単純で、ゲームなどでよく出てきそうな古めかしいデザインをしていた。
「先生、それは?」
「これは時空を繋ぐ道を開くための鍵だ。今から扉を呼び出し、そこから時空の道を辿る」
「徒歩帰宅……?」
「ハッ、目の前が光るとすぐに別世界になるとでも思ったか?それこそファンタジーだな。物事にはいつも物理と摂理が付いてくる。どんな現象でもな」
エメライドは開いたままだった居間の引き戸を一度閉じた。そして、引き戸の取っ手に鍵を差し込み、回した。閉まっている鍵を開けるように。
「え、先生、何してる……えぇ……?」
「すごい……違う扉になっちゃいました……!」
普通なら、鍵穴もなにもないただの引き戸に鍵がささるわけもなく、ましてや鍵が開くはずもない。そのはずなのに、エメライドが回した鍵はかちゃんと小気味いい音が鳴り、そしてじわじわと引き戸は形を変えアンティーク調の木製の扉になっていた。
「アクアマリア、おいで」
「は、はい」
扉の前でエメライドは海に向かって手を差し出した。先ほどまでとは打って変わって、優しい声色に海は戸惑いながらもエメライドの手を取る。
すると、握られた手を引かれ視界がエメライドの胸元になったかと思えば、突然の浮遊感。一瞬のうちに海はエメライドに横抱きをされていた。
「わっ、わぁっ……!」
「捕まっていないと落ちるぞ」
「ちょっと!先生!何やってるんですか?!」
「うるせぇ。兄妹のスキンシップだろうが」
長身のエメライドに抱き上げられると、想像以上に地面が遠くて驚いた海はとっさにエメライドの首に腕を回してしがみつく。
海が素直に自分に抱き着いてくれたことが嬉しくて、エメライドは彼女の額に唇を寄せる。それを見た蒼が飼い主をとられた猫のように怒ってエメライドの腕を掴んで揺らす。ぎゃんぎゃんと怒る蒼に舌打ちをして、エメライドは軽く指を振ると蒼の体がふわりと持ち上がり浮遊する。
「な、なに?!」
「お前はうるさいから後ろから付いてこい。暴れると狭間に落ちて死ぬぞ」
海を抱き上げたままエメライドが扉を開けると、そこには星空が広がっていて一本の細い道が遠く遠く、見えない向こうまで続いていた。その細い道をゆっくりと歩き出すと、浮いたままの蒼の体はエメライドの後ろを追従する。しばらく進んだ時、ぎぃっと錆びついた古ぼけた音を鳴らしながら扉が閉まっていく様子を蒼は静かに見つめていた。
「…………」
「後悔しているか」
「まさか。俺はいつだって自分が決めたことを間違いだなんて思ったことないです」
「……そうか」
蒼はこちらを向き直り、にっと歯を見せるように笑った。
扉の向こう、海と蒼が過ごした部屋からは2人の存在がゆっくりと消えていった。
水郷海という少女も、國司蒼という少年も、そこに最初から存在などしていなかったのだ。




