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1章‐8

 海は壁を背にして膝を抱えて座っていた。蒼が部屋を出てすぐ、海は意識を取り戻していた。自分が出て行っては邪魔だろうと、海は一人息を顰めていた。

 居間の開いたままの扉の向こうから聞こえる蒼とエメライドの声に耳を傾けながら目を閉じる。


(鈴木先生の名前はエメライド・シュタルムさん。私の、お兄さん。私の名前は、アクアマリア・シュタルム)


 以前、エメライドから聞かされたアクアマリアという名前、あれは自分のことだったのだと海は納得した。聞こえてくる話はあまり信じられるものではなく、どこか他人事のように聞こえる。

 それでも、自分の存在が立花を歪めてしまったという事実は悲しいものだった。授業や園芸部の顧問として接してくれていた立花は確かに良き教師だった。

 それを思い出し、海はぎゅっと膝を抱え込みそこに顔を埋めた。


「私と関わらなければ、先生は……」

「それは違う」

「あ、海ちゃん!大丈夫?」


 小声で呟いた言葉に返事があり、海は驚いて顔上げるとエメライドが海を見下ろしておりその横から蒼も顔を覗かせた。

 蒼が海と目を合わせるようにしゃがみ込み、心配そうな顔をした。それに大丈夫ですよと笑うと、彼も微笑みを返してくれた。立ち上がった蒼に手を差し伸べられたので、その手を取って海も立ち上がる。そのまま居間に入り、海と蒼はエメライドと向かい合うように座った。


「調子はどうだ」

「はい。問題ありません」

「そうか。……あの男のことに関しては気にすることはない。元々そう言う素養があっただけだ」

「そんな嫌すぎる素養あります?」


 エメライドの言葉に蒼は嫌そうに顔を歪める。海はまだどこか心配そうな顔をしていて、蒼は海を安心させるように優しく手を握る。

 その光景を眺めながら、エメライドは立花の自宅にあった魔力痕を思い出す。それはエメライドのものでも、海のものでもないまったく知らない魔力痕だった。

 もし、立花が魔力を持つ人間であったなら話は別だが立花はごく普通のこちらの世界の人間だった。立花は良くも悪くも小物だった。遠くから見つめることしかできない典型的なストーカー。

 たとえ祝福によって思考を刺激されていても、本来なら誘拐をする行動力もなかったはずだ。その立花の箍を外した者がいるのだ。それもこの世界ではない者が。

 だからこそ、エメライドは一刻も早く海を連れて帰らなければならないと思っている。


「それで、お前はどこまで聞いている?」

「おおよそすべて、でしょうか」

「ならば話は早いな。俺は、お前を迎えに来た。共に帰るぞ」

「だから!それはちょっと待った!」


 海の手を取ろうとするエメライドの手を弾いて、蒼は海を抱き寄せる。それを見て、エメライドの眉間がぴくりと動く。

 まだうまく状況を飲み込めていない海は、蒼の腕の中でぼんやりとエメライドを見上げる。今まで気にしていなかったけれど、よくよく見れば彼はなんとなく海の父親に似ている気がする。


「お前がどう思うと関係ない。これ以上アクアマリアをこの世界に置いておくわけにはいかない」

「そんな、そんな勝手なこと言わないでください……」

「蒼くん……」


 抱きしめる力が一層強くなった。海は知っている。蒼がいつも自分を守ってくれていることを。どんなときでも彼は海のことを一番に思ってくれていることを。


「それに、海ちゃんが突然いなくなったらこの先どうなるんですか」

「問題ない。"存在がなかったことになる"だけだ」

「は?え……?」

「言葉の通りだ。この世界には"初めから水郷海という存在はなかった"。すべての人間の記憶から消える。それだけだ」

「そっ、そんな、そんなこと、はいそうですかなんて言えるわけないだろ!」


 声を荒げる蒼にエメライドは微動だにすることなくただ二人を見つめるだけだった。そこには一切の感情はなく、ただ言葉通りに海を連れて帰るだけなのだろう。

 この表情を浮かべているときのエメライドは何を言っても無駄だということを蒼はこの夏休みの間によく学んだ。部活で指導されてるとき、エメライドは蒼に対してよく無茶苦茶だと言わんばかりの練習メニューを課していた。そして、どれだけ蒼が抗議してもエメライドは一切の妥協を許さなかった。だからこそ。


「……俺も行きます」

「何を言っているか分かっているのか?」

「分かってます」

「お前の存在はこちらの世界にしか認知されていない。そのお前が一緒に来たらむこうの世界の因果が崩れる」

「でも、先生はそれをどうにかできるんでしょう?」


 蒼の強い視線に、エメライドは思わず舌打ちを零した。

 最初、彼はずっと蒼のことが気に食わなかった。いや、大嫌いだった。長年探していた妹の隣に当然のように立っていたこの少年が憎らしくて羨ましくて腹立たしくて。

 だからこそ、部活では他の部員から遠巻きにされるくらいには厳しくしてやった。無茶なことばかりを言ってたまに抗議をされても耳を貸さず、無様に諦めること期待していた。

 それなのに、蒼はひとつの弱音を吐かずにエメライドのしごきに食いついてきた。そして、海の前では蒼はずっと笑顔を見せていた。辛さなど苦しさなどなにもないというように。


「俺がもし、あちらの世界にお前の存在を組み込ませることに成功したとする。その代わり、こちらの世界での國司蒼という存在は失われる。存在していなかった、生まれてさえいなかった。そういうことになる」

「分かりました。それでいいです」

「簡単に言うな。お前は正真正銘この世界の人間で、存在証明も刻まれている。家族も、いるだろう」

「……母さんには、悪いとは思います。本当に最低で親不孝な息子だと俺も思います。それでも、そうだとしても、俺は海ちゃんのそばを離れるわけにはいかないんです」


 蒼は一切揺るがなかった。ずっと、蒼の行動原理は海にあった。それはエメライドも理解はしているが、己の存在を消してまでこちらに付いてこようとする価値は果たして海にあるのかとも思う。

 本当の家族であるエメライドとは違い、蒼と海はどこまでいっても他人なのだ。


「なにが、そこまでお前を奮い立たせる」

「俺が海ちゃんを、愛しているから」

 それはまごうことなき、愛の言葉だった。



 ヴァルネシア王国の南海岸に位置する、王国最大の港町である貿易都市『マリヴェラ』

 周囲一帯を領地とし、巨大な屋敷を構え治めているのがシュタルム侯爵家だった。シュタルム侯爵家はヴァルネシア王国建国時代から存在する由緒正しい家系であり、王国三貴族の一角でもあった。

 そんな屋敷の一室、当主のみが使用できる執務室では当主代理を務めているカイラム・シュタルムが忙しく書類にペンを走らせていた。

 机にはこれでもかと書類が山積みになっており、それが崩れる様子はまったくない。カイラムは書類の山を一瞥し、これ以上仕事をしても集中はできないと判断しから諦めたようにペンを置いた。

 座りっぱなしの椅子から体を離し背中を伸ばすと骨の軋む音がした。しばらく窓から外を眺めているとドアをノックする音が聞こえた。


「入っていいよ」

「失礼します。カイラム様、こちら追加の書類です」

「まだ増えるのか……?」


 一礼をして執務室に入ってきた家令のローシュは、容赦なく山を増やしていく。げんなりとするカイラムだがローシュは涼し気な表情を浮かべたままだ。

 だが、疲れた顔をしているカイラムに思うところはあるのか、本来この仕事を執り行うべき人物を思い浮かべる。


「それにしても、エメル様が姿を消してからもう半年になるのですね。いまはどちらにいらっしゃるのやら」

「ははっ。兄上が長期間いなくなるのはいつものことだからね」


 十七年前、妹が時化により流されてしまったあの日から兄のエメライド・シュタルムはすべての時間を妹を探すことに費やしていた。

 当時、エメライドは十一歳、カイラムは十歳だった。そして両親も亡くなり、当主となるべきはずのエメライドはそのすべてをカイラムに任せきりにしていた。

 妹を探して世界を飛び回るエメライドは、いつだって突然姿を消してしまう。そしてカイラムはそれにすっかりと慣れてしまった。


「心配しなくてももうすぐ帰ってくるさ。案外、我らが妹を見つけていたりしてね」

「そうだとよいのですか……。あの日からもう十七年も経つのですね」

「そうだね。十七歳になるんだね。僕の妹は」


 カイラムは妹の生まれた姿さえも見たことがない。唯一知るのはアクアマリア・シュタルムという名前だけ。本当に妹が存在しているのかすら怪しい。

 そう思っていると、突然執務室のドアが大きな音を立てて開かれた。ドアを開けたのはメイドの一人で、その顔には興奮と焦りが同時に浮かんでいた。


「ノックも無しにドアを開けるとは無礼な!」

「も、申し訳ございません!」

「いい。ところで、なにがあった?」


 ローシュの叱責を止め、カイラムはメイドに尋ねる。メイドは息を整えながら先ほど自分が見た光景をカイラムに伝える。


「エメライド様がお戻りになられました。そして、アクアマリア様もご一緒にお戻りになられました」


 それは、止まっていた十七年の時が動き出した瞬間だった。

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