2章‐2
どれだけの時間、この星空の道を進んだだろう。静かな空間にエメライドの腕の中の揺れが心地よくて海はいつの間にか眠ってしまったようだった。
ゆっくりと上下する胸の動きとともに聞こえる寝息にエメライドは微かに笑みを零す。後ろからついてきているはずの蒼も先ほどまでは賑やかにしていたのにいまはとても静かだった。
様子を確認するために少しだけ後ろを振り返ると、蒼は座った格好のまま膝に顔を埋めて寝ていた。あまりにも緊張感がない光景に、エメライドは呆れたような表情を浮かべる。
「本当になんだこいつは……」
それからまたしばらく歩けば、入ってきたときと同じ扉が見えてきた。
扉の前で一度立ち止まり、海を起こそうとするがあまりにもぐっすりと眠っているうえに色々あって疲れているだろうと思い、起こすのをやめた。
そして、エメライドが一歩踏み出すと同時に扉が開いた。エメライドの足が踏みしめたのは半年ぶりに帰ってきた自宅の玄関ホールだった。
「え、エメライド様……?!」
玄関ホールに偶然居合わせたメイドが、扉から出てきたエメライドを見て息を呑み驚いた。彼女の悲鳴のような声を聞きつけた使用人たちが駆けつけ、皆一様に屋敷の主の帰還に驚いていた。
「なぁ」
「は、はい!」
「カイラムとローシュを呼んできてくれないか。アクアマリアが戻ったと」
「かしこまりました!」
駆けていくメイドを見送り、エメライドが指を軽く振ると後ろでどさりと重いものが落ちるような音がして無様な悲鳴が上がる。
「んぎゃ!」
「いつまで寝ているつもりだ」
「いったぁ……先生、もう少し優しくお願いします」
「着いたぞ、いつまでも這いつくばっていないで立て」
涙目で強く打ち付けた腰をさする蒼の抗議を無視して、エメライドはこちらを窺う数人のメイドに指示を出す。
「アクアマリアの寝室の準備を頼む。あとこの子が起きたときのために湯あみの用意もしておいてくれ」
エメライドに恭しく礼をしてから立ち去るメイドたち。そんな光景を蒼がぽかんとして眺め、そして隣にいるエメライドに視線を移す。
蒼からのなにか言いたげな視線を注がれて、エメライドはめんどくさそうな顔をした。
「なんだ」
「先生、なんだか偉い人みたいですね」
「地位にあまり興味はないが、まぁそこそこ偉いな」
「へぇ……」
説明するのがめんどうなのか、適当な説明に、蒼もよく分かっていない顔で頷いた。そんな二人を使用人たちはどこかはらはらとしながら見つめている。
エメライドは使用人にも柔らかな態度をとるが、それは彼がそういう性格であるだけだ。使用人の目線からすると、この屋敷の主である最高権力者に向かってそんなにも気安い態度をとって無事なはずがないと思っている。
「まずはアクアマリアを寝かせる。付いて来い」
「はぁい。でも先生、俺の扱い雑じゃないですか?」
「気のせいだろ」
けれど、使用人の心配とは裏腹にエメライドは気にする様子もなく海を抱き直して彼女の部屋へ歩いて行き、蒼はその後ろを付いて行ってしまった。
玄関ホールに現れた扉は、いつの間にか消えてなくなってしまっていた。
長い廊下を歩いて行く。廊下は歩くたびにコツコツと足音が鳴る。美しく磨き上げられた白い廊下、壁にかかる絵画や所々に置かれている調度品に蒼は自然とエメライドのそばに寄る。
明らかに富裕層だと分かるくらいの場所に、庶民である蒼は怖くなってきたのだった。
「近い。歩きにくい」
「ここ怖すぎじゃないですか?!触っただけで壊れそうなんですけど……」
「聞け。別に壊しても困るようなものは置いてないだろう。……多分」
「うそうそ、絶対に嘘!」
相変わらず適当な相槌に蒼は勢いよく首を横に振る。実際、蒼の予想通りすべてのものが蒼の想像がつかないくらい高価なものだったが、エメライドは調度品などに興味がなく価値を分かっていなかった。怯える蒼を尻目に、エメライドはひとつの部屋の前で立ち止まりそれに合わせて蒼も足を止める。
「ここだ。開けてくれ」
「あ、はい」
扉に施された装飾は可愛らしいものだったが、その可愛らしさの中に気品があり一目でここが特別な部屋だと分かる。蒼はドアノブに手をかけてゆっくりと押すと二人を招き入れるように扉が開いた。
先に来ていたメイドによって窓とカーテンが開けられて、外の光が注がれておりまだ太陽の高い時間だと分かった。そして窓の外から流れ込んでくる空気からは、どことなく潮風の匂いを感じた。
エメライドは迷いなく部屋に入り、ベッドメイキングがされピンと張ったシーツの上にそっと海を横たわらせた。
その後を付いて行こうと蒼が一歩部屋の中に足を踏み入れると、足の裏に感じた柔らかな感触に驚いて思わず足を上げた。
「なにをしているんだ」
「床がふかふか過ぎてびっくりしました」
「お前はたまによく分からないことを言うな」
そろそろと部屋に入ってくる蒼に、海が風邪を引かないように薄手のキルトをかけながらエメライドは首を傾げる。蒼がきょろきょろと部屋を見渡すとドレッサーやテーブル、チェア、クローゼットなどがあった。あまりにもじっと見過ぎていたのだろう、エメライドは軽く蒼の頭をはたいた。
「レディの部屋をあまり凝視するものじゃない」
「って、すみません……」
「兄上!」
「うわっ!」
突然部屋に駆け込んできた青年に蒼は驚いて肩を揺らす。
澄み切った青、まるで空のような青色の髪を揺らし、エメライドと同じ色の鮮やかな翠の目が美しかった。身長は蒼と同じくらいだろうか。
慌てて走ってきたのか青年は息を切らしており、エメライドとベッドで眠る海を交互に見て驚きに目を丸くした。
「カイラム、少し落ち着け」
「あ、す、すみません……。こちらの方は?」
「あー……、アクアマリアを保護してくれていた奴だ」
「そうなのですか?それはお礼を申し上げなければなりませんね。初めまして、僕はエメライド・シュタルムの弟、カイラム・シュタルムと申します」
エメライドに言われ、カイラムは深呼吸をした。そして蒼に向かって笑みを浮かべ軽く頭を下げた。カイラムの笑顔はエメライドと違って柔らかで優しいものだった。
それに蒼は曖昧に笑みを返し、そっとエメライドに耳打ちをした。
「先生、先生」
「なんだ」
「あの人、なんて言ってるんですか?」
「は?……ああ、そうか」
蒼がそっとエメライドに言うと、彼は呆れたような視線を向けてくるが蒼が言っている意味を理解して一人頷いた。
いままで蒼は日本語を話せるエメライドとしか会話をしていなかった。そして、蒼はこの世界の人間ではない。蒼はこちらの言葉を理解できないのだ。
「先生?」
「少し痛いだろうが、耐えろよ」
「え?っ、あぁぁああぁぁぁあああ?!」
「兄上?!」
そして、大きな掌で蒼の額を掴んだ。その瞬間、蒼の脳に強い痛みが走る。脳を直接触られているような感覚に蒼は吐き気を覚える。
カイラムも兄の突然の行動に驚き止めようとするが、エメライドの鋭い視線に足が縫い付けられて動けない。
「が、あっ、あぐっあぁぁぁ!」
悶絶する蒼の口からだらりと唾液が垂れ、同時に泡が吐き出される。手で捏ねているようなぐちゃぐちゃと耳の奥に響く音が自分の脳みそが作り変えられていくのが分かった。
そして、もう蒼の精神が限界を迎えそうになったとき、聞こえたカイラムの言葉。その途中から蒼はそれが理解できることに気が付いた。
「Rei Emeraido――なにをしているのですか?!」
「よし、もういいだろう」
エメライドが軽くそう言って手を離すと同時に、蒼は立っていられなくなりその場に倒れ込んだ。
慌てたカイラムが蒼に手を差し伸べる姿を見て、「やっぱり、先生って俺の扱い雑すぎるよなぁ」と思いながら蒼は力なく目を閉じた。




