2章‐3
『俺の名前はエメライド・シュタルム。お前が水郷海と呼ぶ子の兄だ』
その言葉は意外にも海の中にすんなりと入り込んだ。そして、鈴木として接していたときにあった親近感は、そのせいだったのだとも納得してしまった。
だからこそ、エメライドが迎えに来たと言われたときも大して疑問はなかったし抵抗をしようとも思わなかった。
いままで過ごしてきた日々はもちろん大切なものだったし、水郷海として生きてきた日々は確かに本物だった。それでも、海の中にある魂は生まれた場所に還りたがっていた。
ただ、蒼が一緒に来てくれるなんて思ってはいなかった。昔から蒼が自分のことを好きだと言ってくれていたしその気持ちを疑ったこともない。
それでも海は、どうしてそんなにも心を砕いてくれるのか、その気持ちだけは未だに分からなかった。
「…………」
ゆっくりと海が目を開けると、知らない部屋でベッドに寝かされていた。
「ああ、起きたか」
いつ眠ってしまったのかと、海は記憶を手繰り寄せる。けれど、エメライドの腕に抱かれて星空の道を辿っていたことしか思い出せない。
枕元では椅子に座ってなにかを読んでいたエメライドが、目覚めた海に気が付いて微笑んだ。
「せんせい……?」
ぼんやりとしながら辺りの様子を確認する。開けた窓からは太陽の光と潮風が流れ込んできて、カーテンを揺らしていた。ふと右手が温かいと思い視線を向けると、海の手を握った蒼が突っ伏すように眠っていた。
蒼が本当に一緒に来てくれたことに、心の奥が少しむず痒くなる。それを隠すように繋がれている手をぎゅっと握り返すと蒼の瞼が動いた。
「ん……むにゃ……ぁっ!海ちゃん、起きた?体とか大丈夫?しんどくない?」
「蒼くん……はい、元気ですよ」
「そっかぁ。よかった」
海が目覚めたことに気が付いた蒼はがばっと体を起こし海の顔を覗き込む。安心させるように海が頷くと、蒼も眉を下げて安堵したように笑った。
横たわっていた体を起こしてエメライドを見上げると、彼は優しく海の頭を撫でた。ひと撫でして満足するかと思いきや、しばらく撫で続けるエメライドに海は困惑した顔をする。
「せ、先生?」
「俺はもうお前の先生ではないよ」
「あ、えっと……」
エメライドにそう言われ、海はハッとする。つい先生と呼んでしまったが、エメライドは海の兄なのだからそう呼ぶのは適切ではない。けれど、そうするとどう呼ぶのがいいかと海は少しの間思案する。どことなく、エメライドから期待するような視線を向けられている気がする。
「お、おにい、さん……?」
エメライドさんと呼ぶのはきっと違うだろう。けれど、お兄ちゃんと呼ぶにはまだお互いのことを知らないような気もする。心の中で折衷案としてお兄さん、と呼ぶと頭を撫でていたエメライドの手がぴたりと止まった。
「……?……!」
「あれ、先生?どうしたんで、すか……!」
不思議に思って海はそろそろとエメライドを見上げ息を呑む。蒼もエメライドの様子がおかしいので彼を見上げ、驚きに目を丸くする。
「な、泣いてる……!」
エメライドの美しい翠の瞳から涙が一筋零れ落ち、彼は海を抱きしめた。その存在を確かめるように強く抱きしめられ、海はエメライドの気持ちに応えるようにその背中を抱きしめ返した。
「國司、お前はここまでだ」
「え?!」
ひとしきり海を堪能したあと、エメライドは蒼に対してそう言った。突然のことに蒼は声を上げる。
それを無視して、エメライドは部屋の外に声をかける。
「カーク」
「はい」
エメライドに呼ばれて入って来たのは燃えるような赤い髪、フォグブルーの瞳をもつ男性で身長はエメライドと変わらないくらいの長身だった。
軍服のような衣服で身を包み、腰には装飾を施されている細身の剣と使い古されてはいるがよく手入れをされている剣を帯刀していた。
「こいつをお前に預ける。良いようにしろ」
「畏まりました」
カークと呼ばれた男性はエメライドに恭しく頭を下げてから、なにも理解をしていない蒼の肩を掴み立たせると首根っこを掴んで部屋の外へ連れ出した。
「え、ちょ、なに?!離してください!」
「はいはい、俺を振り切れたらいいぞ~」
「ふん!あ、力つよ……!ぐぇ、首しまるしまる……!」
抵抗をするもカークの力は強く、蒼はずるずると引きずられて行ってしまった。ぽかんとその姿を見送る海を撫でながら、エメライドは安心させるように言った。
「心配をするな。ここで暮らしていくには必要なことだ」
「蒼くん……」
まだこの世界をなにも知らない海は、ただ蒼の無事を祈ることしかできなかった。
連れ出された蒼は、どれだけ暴れてもびくともしないカークから逃れることを諦めて、されるがままに肩に担がれていた。
屋敷の廊下を歩いているときは、使用人たちがちらちらとこちらを見ていたが気がつかないフリをする。カークは屋敷を出てしばらく歩いていると、不意に蒼に話しかけた。
「なぁ」
「なんですか」
「お前、これから先いつも通りお嬢様のそばにいられると思っているのか?」
「どういう、ことですか」
カークの問いに蒼は眉根を寄せて言葉を絞り出す。肩に担がれているせいで腹が圧迫されて今にも吐きそうだった。
そんな蒼の気配を察したのか、カークは目的地に到着したのでその場に蒼を放り出す。突然床に落とされて、蒼は何度目かの無様な声を出す。
「へぶっ!」
「こらこら、ちゃんと着地しないとここではやっていけないぞ~」
「どの口が言ってるんですか?」
「ははっ!それよりもさっきの続きだが、お前はいまのままではお嬢様のそばに寄ることさえ許されない」
そこは簡素な部屋だった。シンプルな机と椅子、堅そうなベッドがあるだけの部屋。ベッドには服が一着畳まれて置かれていた。
床に座り込んだままこちらを睨み上げてくる蒼にカークは笑う。
「ここには明確な身分制度が存在する。そしてアクアマリアお嬢様はこの屋敷でもトップの人間。そしてお前はただの庶民で一番下の人間。庶民は殿上人の姿を見ることさえ許されない」
「……なにをすればいいんですか」
「なに、とは?」
「先生は無駄なことはしない人なんだ。その先生が、あなたに俺のことを頼むって言っていた。だから、そのめんどくせぇ身分制度ってやつをどうにかできるんでしょう?」
真っ直ぐな瞳だった。エメライドの言葉を理解し自分がなすべきことのために教えを乞う。その愚直さにカークは口角を上げる。
「お前がお嬢様のそばにいられる方法はただ一つ。お前は騎士となりお嬢様の近衛騎士になることだ」
シュタルム家は王国から私兵を保有することを特別に許可されている。紺碧の騎士団と呼ばれているシュタルム家の騎士団は、主に海から襲撃してくる敵の迎撃や貿易船の警護を担っている。マリヴェラの少年たちの夢は騎士団に入団することが大半を占めるくらいだった。
そんな騎士団は入団試験も大変なもので、入団試験に合格することが誉れだとされる。それくらいに、紺碧の騎士団とは憧れの職業なのだ。
「エメライドの頼みで、いまから俺はお前の後見人になった。そして俺はお前を騎士団にねじ込む。いわゆるコネ入団ってことだ」
カークの笑みに蒼は心底嫌そうに顔を歪める。まるで最初から自分には無理だと言うように、面白がる様子が気に食わない。
「うちの騎士団は実力主義。弱い奴は必要ない。だからこそ、お前はその中で這い上がらなきゃ未来はねぇ」
「いいんですか?」
「うん?」
「俺があんたを倒して一番上になっても」
挑戦的な蒼の言葉に、カークは一瞬ぽかんとした表情を浮かべ次の瞬間には口を大きく開けて笑い声を上げる。部屋中に響き渡る笑い声に蒼は驚いて少し後ずさった。
「いいぜぇ。やってみな、ルーキー」
カークはいまだ座り込んだままの蒼の脇に手を入れて持ち上げる。小さな子供を抱き上げるようなそれに、蒼は顔を真っ赤にして大暴れする。
「子供扱いすんな!」
「俺より弱い奴は子供だよ。で?お前の名前は?」
「……國司、蒼」
「そうか。アオイ、俺のことはお父さんって呼んでもいいぞ」
「死んでもやだ」




