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1章‐5

 暗闇に深く沈んでいた意識が緩やかに浮上する。ゆっくりと瞼を持ち上げるが、目を開いたはずなのに視界は暗闇しか映らない。

 頭と喉の奥の痛みを感じながら横たわっていた体を起こし、くらくらと揺れる頭を抑える。


「……私、ここは、どこ……?」


 先ほどまで自宅にいたはずなのに、どうしてこんな見覚えのないところにいるのかと記憶を手繰り寄せる。


「えっと、家で蒼くんを待っていて……それから、インターフォンが鳴っ、て……っ……!」


 ひとつずつ思い出していると、突如脳裏に蘇った光景に海は恐怖に身を震わせた。

 そう、あれは蒼が外に出て行ってから数十分後のことだった。

 蒼が使っていたグラスを割ってしまい片付けようとしていたら、突然自宅のインターフォンが鳴った。

 そのとき、なぜか微かな恐怖が胸の中に渦巻いた。居留守を使おうかと思ったが、インターフォンがもう一度鳴った。

 きっと、そのまま気が付かないふりをしていた方がよかった。そのはずなのに、海は立ち上がりふらふらと玄関の方へ歩いて行く。

 古いアパートなのでモニターなどなく、外を確認するには覗き穴を見るしかない。扉に手をついてゆっくりと目を覗き穴に近づける。ほんの数センチの距離なのに、確認するのが怖くて海の呼吸はどんどんと浅くなり、心臓が激しく胸を叩く。

 恐る恐る外を見ると、そこには見慣れた人物がいた。そのせいか、海は緊張が解けて警戒もせずに扉を開けた。


「こんばんは、水郷さん」

「こんばんは、立花先生。どうか、されましたか……?」


 扉を開けると立花が佇み、笑っていた。その顔は恍惚に染められて、夕暮れの逆光が妖しく彼を照らす。普段とはあまりにも違う様子に恐怖を覚えた海は微かに後退る。


 どうして、立花は自宅を訪ねて来たのだろうか。

 どうして、こんな夏の日に黒いコートを着ているのだろうか。

 どうして、立花の頬に赤黒いものが付着しているのだろうか。


「……せ、先生……?」


 海が呼びかけると、立花の口角が上がった。まるで口が裂けてしまったような笑みに、恐怖が海の体を駆け抜ける。咄嗟に扉を閉めようとするも、次の瞬間には立花が左手で海の腕を掴み、右手で一枚の布で海の顔を覆う。布に沁み込ませたなにかの薬品が海の体内に入っていく。


「なっ!な、に……?」


 抵抗するように海は手を彷徨わせたが、すぐに体から力が抜けて膝が崩れ落ちた。海の体を引き寄せてから横抱きにして持ち上げ、立花は愛おしそうに海の頭に頬を擦り寄せる。


「迎えに来ましたよ、僕の女神」


 立花に気絶されられたことを思い出した海は、これ以上ここにいることは危険だと本能的に感じた。逃げなければと慌てて立ち上がるが、周囲があまりに暗すぎてどうすることもできない。

 せめて隠れられる場所はないかと手探りで動くが手は空を切るばかりだった。

 段々と心細くなり目には涙が浮かび、その場にへたり込んでしまう。胸元のネックレスを握りしめどうにか心を落ち着かせようとしていると、後ろから一筋の光が差し込んできた。

 部屋の扉が開けられ差し込んできた光によって浮かび上がった光景に、海は息を呑む。


「え……?」

「おはよう。起きたんだね」

「どうして、なんで……?」

「ああ、素晴らしいでしょう?どの姿の貴女も美しい」


 壁一面にあったのは海の写真だった。それは通学路での姿だったり、学校で授業を受けている姿、花壇の世話をしている光景だったり様々だった。私服姿の写真も数多くあり、どこから撮ったのか自宅での海の姿も多くあった。

 恐怖で動けずにいる海に、部屋に入ってきた立花は後ろからそっと海の肩を抱く。耳元で囁かれ、体は恐怖で動かない。立花の指が頬を撫で、首筋に触れると海の肩がびくりと跳ねる。


「や……あおいくん……」


 それはほとんど無意識だった。海の口から蒼の名前が零れた瞬間、立花の表情は豹変し海の首を掴む。


「なのに!貴女はいつまで経っても僕を見てくれない!こんなにも!愛しているのに!」

「あっ、いや、やめて、ください……せ、んせ……!」


 立花は怒号を上げながら力を込めて海の細い首を絞める。抵抗をしようにも海の力が成人男性に敵うはずもなく、喉が潰され呼吸ができなくなっていく。

 息を吸うことも吐くこともできず、開かれた口から微かに漏れる気管の音が小さくなり意識も薄れ始める。


(私……死んでしまうのかな……蒼くん、お父さん……)


 たすけて


 遠のいていく意識の中、海は声なく蒼と父に助けを求めた。だが、その声は届くはずもなく首を絞める立花の手の力が一層強くなった。

 諦めたように海は瞼を閉じた。抵抗をしてた手はだらりと垂れ下がり、目の端に溜まった涙が零れ落ちた、そのとき。轟音が鳴り響いた。


「なんだ?!」

「げほっはっ……あっ……」


 なにかが爆発したような音共に部屋全体が揺れる。轟音に驚いた立花は思わず海の首を掴んでいた力を緩めた。突然喉を通って肺に流れ込んできた空気に海は咳き込む。

 立花が反射的に部屋の入口の方を振り向いた瞬間、扉が吹き飛び窓ガラスを割った。ガラスの割れる音ともに破片が飛び散り、外から流れ込んでくる風が真っ黒なカーテンを靡かせた。

 なにが起きたか分からず唖然としたが、そこにいる人物を見て立花は驚きに目を見開いた。それは確かに、確かに自分が殺したはずの。


「お前……!なんで!」

「てめぇ!なにしてんだゴラぁぁあ!!」

「がっ!!」


 立花の手が海の首を掴んでいる光景を目に映した瞬間、蒼は走り出しきつく握りしめた拳で立花の顎を殴り飛ばした。殴り飛ばされた立花の手が海から離れ、その場に倒れそうになったがすかさず蒼が抱き止める。


「海ちゃん!しっかりして、海ちゃん!」

「あおい、くん……?」

「海ちゃん……!」


 腕の中で力なく横たわる海に蒼は心臓が止まりそうになる。自分が不甲斐ないせいで大切な人を傷つけてしまった、守れなかった。悔しくて涙をぼろぼろと零し海の頬を濡らす。

 すると、海の瞼がうっすらと開き視界には泣いている蒼が映った。蒼の額を伝う赤い血を見て、海は震える腕を伸ばして彼の頬を撫でる。


「頭、どうしたんですか、けが、してるじゃないですか……」

「俺のことはいいんだよ……海ちゃん、大丈夫?」

「はい」


 海の意識があることを確認して安心した蒼は、殴り飛ばした立花を睨みつける。吹き飛んだ体を壁に叩きつけられ、殴られた顎が脳を揺らし立花は立ち上がれず唸り声を上げている。


「お前、楽に死ねると思ってんじゃねぇぞ」


 蒼の怒りに満ちた声を遮るようにこつこつと靴音が響いた。そして、部屋に入ってきたのは鈴木だった。

 入り口で動きを止めた彼は、視線だけを動かして蒼の腕の中に抱かれている海、いまにも立花に飛び掛かりそうな蒼、部屋の隅で蹲っている立花を順番に見て静かに口を開いた。


「國司」

「先生」

「水郷を連れて外に出ていろ」

「でも、先生!」

「國司、俺は二度は言わん」

「っ……!はい」


 いままで聞いたことのないような冷ややかな鈴木の声に、蒼は背筋を伸ばして海を抱き上げ部屋を後にする。その背中を視線だけで見送ってから、鈴木は立花に向き直る。

 そして蹲る立花の元へ一歩近づくたびに、鈴木の足元は氷が張られ部屋全体を凍らせていく。立花は自分の体が氷によって床に張り付けられ身動きが取れない。

 あまりにも現実的ではない状況に、一体自分の身になにが起きているのかまったく分からずに恐怖に体が強張っていく。果たして今目の前にいるのは、立花が知る鈴木翠なのだろうか。


「な、なんだ、お前……!」

「俺は妹を迎えに来ただけなんだよ。そのついでにあの子が育った場所を見ようと思っただけなんだ」

「近寄るなっ!るな!来るな!来るなぁ!」

「あの子は純粋で、素直で、穢れを知らない子だったんだ。貴様のような塵が触れられるような存在ではない」


 鈴木の周りにはいつの間にか水が浮かんでいた。それはまるで魔法のようで、鈴木が指を鳴らすと水は無数の蛇の形になりするすると立花に纏わりつく。


「いやだ!やめろ!離せ、離せ!ごぼっ……!」


 水の蛇は立花の口や鼻から中に入り、彼の体の中を這い回る。息が止まり、空気が体に入り、また息が止まり、空気を吸う。水の中で溺れ、陸に打ち上げられたように感覚が交互に続く。

 抵抗もできずに床でのたうち回る立花を見ながら、鈴木は壁に貼られた海の写真を一枚一枚指先で燃やしていく。すべてが灰になったころ、立花は力なくぴくりとも動くことなく倒れていた。


「ああ、安心しろ。俺はこの世界で人は殺せないから死にはしない。だがまぁ、お前はこれから死ぬほど水が怖くなるだろうな。水に近寄れば発狂するくらいに」


 人間は水分でできている。そしてその源である水を拒否すれば待っているものはたった一つ。

 鈴木はそれだけを言って、部屋を出て行く。その後、立花の消息を知る者は誰もいなかった。

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