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1章‐3

 夏の日々は緩やかに過ぎていく。一学期も終わり夏休みになったが、海は学校へ花壇の世話をするために登校するので生活に変わりはない。

 今日も朝練のある蒼と一緒に並んで学校へ行く。この日の話題は最近の剣道部についてだった。


「そういえば、鈴木先生が剣道部の顧問になったって本当ですか?」

「ああ、そうそう。臨時でね。まぁ、顧問っていうよりも指導員って感じだけど」

「そうなんですか?」

 

 インターハイ前のこの時期に、剣道部の顧問が怪我をしてしまった。顧問が不在でも部活を休みにするわけにもいかないし、試合の引率も必要だった。

 その結果白羽の矢が立ったのが、どこの部活にも関わっていない鈴木だった。


「鈴木先生がさ、すっげぇ強いんだよ。竹刀の構え方は全然剣道じゃないけど」

「蒼くん、毎日傷だらけですもんね」

「一本も取れないの悔しすぎる……」


 心底悔しそうな顔をする蒼は、毎日鈴木に挑んでは負け続けているようで、体中に打ち身による痣ができていた。その痛みを飛ばすおまじないをするように、海は彼の腕をそっと撫でる。

 鈴木が剣道部に初めて来たとき「私は剣道はしたことはないが、腕に覚えはあるので遠慮はしないように」と言っていた。最初は部の多くの人間が侮っていた。だが、その言葉通り部員たちは誰一人鈴木に敵うことはなかった。


「でも、そのおかげか今年は結構いい感じに仕上がってると思うんだよね」

「応援に行くの楽しみです」

「俺も!海ちゃんが来てくれるの楽しみにしてる。絶対勝つから!」

「はい」

「あ、そうだ。これ母さんから」


 学校が近づいてきたころ、蒼は持っていた紙袋を海に手渡した。首を傾げながら受け取り中を見て、海はぱっと笑顔を浮かべた。


「母さんから海ちゃんに誕生日プレゼントだよ。当日は渡せないからって」

「かわいい!……どうですか?似合いますか?」

「すっごいかわいい!!可愛すぎて心配になる。誘拐されないように気を付けるんだよ?」


 紙袋から取り出したのはバケットハットで、つばには波のような柄が刺繍されていた。海はさっそくそれを被ると、蒼は拍手をしながら褒める。

 些か大げさのようにも感じるが、蒼が海に対してべた褒めするのはいつものことなので彼女は素直に蒼の言葉を受け入れる。


「ありがとうございます。とっても嬉しいです」

「今年の夏も暑いから対策はしておかないとね」


 暑い中、無防備に花壇の世話をする海を蒼は心配していた。それを母に相談すると、母は蒼に海へのプレゼントを持たせた。

 それならば海も気兼ねなく使ってくれるだろうと。その読み通り、海は帽子を気に入ってくれたようで蒼は心の中でほっと胸をなで下ろした。

 そして二人はいつも通り、校舎と部活棟の前で別れ海は花壇へ向かった。帽子は夏の暑い日差しを遮ってくれていつもより快適に動けそうだと思うと足取りが軽くなる。

 いつものように手入れの準備をしていると、視線を感じた。それは春ごろから微かに感じていたもので、最初は気にしていなかったが最近ではその視線がどこにでも感じるようになり、海は戸惑っていた。それでも、ただの勘違いだということも有り得るの海は誰にも話してはいなかった。そして、意を決して後ろを振り返ると、そこには誰もおらず海がほっと息をついた瞬間。


「水郷さん」

「ひゃっ!」

「あ、ごめん。驚かせちゃったかな」

「立花先生。すみません、大丈夫です」


 横から声をかけてきたのは理科教師の立花で、彼は園芸部の顧問でもあった。立花は穏やかな男性で若く見目も整っており女子生徒からの人気も高い。彼も今年赴任してきたばかりで、女子生徒たちの間では鈴木派か立花派かとたびたび話のネタにもなっている。


「毎日来てくれてありがとう。僕がもっと部員たちにしっかり言えたらいいんだけど」

「いいえ。私が好きでやっていることなので構いません」


 園芸部は元々人が少なく、真面目に活動している人もいない。一応在籍をしている、幽霊部員というものが大半だった。

 なので、部員でもないが進んで花壇を整えてくれる海を有り難がって世話を押し付けている部分があり、立花も注意はするが暖簾に腕押しだった。

 立花と会話をしながら二人で並んで花壇へ向かう。手入れの道具を立花が運ぼうとした時に海は慌てて止めたが、「たまには顧問らしいこともしないといけないからね」と彼は朗らかに笑った。

 まるで少年のような笑顔を浮かべ軽々と道具を運んで行く。その後ろを追いながら、このスマートな部分が生徒たちから慕われている一つなんだと海は思った。

 それから、とりとめのない会話をしながら雑草を抜いたり水やりをしたり、支柱を整えてるとふと立花が海の被っている帽子に目を留めた。


「今日は、かわいいの被ってるね?」

「えへへ。これ、誕生日プレゼントで頂いたんです」

「へぇ……。いつなの?誕生日」

「八月二十三日です」

「もうすぐなんだね」


 嬉しそうに話す海に、立花はほんの少しだけその目に陰を宿すが海は気が付かない。

 日が高くなった午前の終わり、立花と海は綺麗になった花壇を満足そうに眺めていた。この調子だと植えた花は夏休み中旬頃、それこそ海の誕生日には満開になるだろう。


「だいぶ整ったね。今日はここまでにしようか」

「はい。ありがとうございます、立花先生」

「こちらこそ。とても有意義な時間だったよ」


 片づけを終えて、校舎に戻ろうとした立花は海を呼び止めた。海は不思議そうな顔をするも、こちらを見上げてくる彼女の瞳に立花は言葉に詰まる。

 海の美しい瞳はこちらのすべてを見透かしてしまいそうなくらいに澄み切っていた。


「水郷さん」

「なんですか?」

「あ、いや……、今日はこのまま帰るの?」

「そうですね。あ、でもその前に蒼くん、國司くんの様子だけ見に行こうと思っています」

「そう……。気を付けてね」

「わかりました。さようなら、立花先生」

「はい、さようなら」


 海は軽く頭を下げると、立花も軽く手を振って部活棟に歩いて行く海を見送った。そして、その背中が見えなくなったあと彼は指を深く噛みしめた。

 爪が割れ、口の端から血が流れ出る。


「ああ……私の女神に群がる忌々しい虫……早急に排除しないと……」


 海が立花と別れ、部活棟へ行くとちょうど昼休憩に入ったのか道場からぞろぞろと剣道部の部員たちが出てきていた。その中でも、蒼は真っ先に海の姿を見つけて駆け寄ってきた。


「海ちゃん!」

「蒼くん。お疲れ様です」

「海ちゃんも花壇の手入れ終わった?」

「はい。今日は立花先生と一緒にしたんですよ」

「立花ぁ?」


 海から立花の名前が出た瞬間、蒼は嫌そうな顔を浮かべた。それなりに年上の人間を敬う蒼にしては珍しい反応だった。

 鞄からタオルと塩飴を取り出し、蒼に手渡す。海からの差し入れを受け取り、タオルで汗だらけの顔を拭いながらも蒼は嫌そうな顔を浮かべたままだった。


「そんな顔して、どうしたんですか?」

「俺、あの先生好きじゃない」

「そんなこと言っちゃ駄目ですよ」

「でも好きじゃないんだよなぁ……。なんか、あの人の目つきが好きじゃない」

「國司」

「わっ!鈴木先生!」


 いーっと不快感を表す蒼二人の会話にねじ込むように入って来たのは鈴木で、彼は蒼の頭をボールのように掴んだ。眼鏡の奥ですっと鈴木の目が細められ、海は思わず背筋を伸ばした。


「國司、お前はなぜ裸足で出て行くんだ?行儀が悪い」

「あっ!すみません!」


 海を見つけた嬉しさから靴も履かずに外に飛び出してしまっていた。自分の足元を見て、蒼は慌てて靴を履きに道場に戻る。

 その場に二人で取り残されて、海はそっと鈴木を見上げる。以前、鈴木に呼ばれたあの『名前』は海の心の隅にずっとあった。しばらく無言だったが、鈴木は海の帽子を見てほんの少しだけ頬を緩めた。


「似合っているじゃないか」


 その微笑みは、どこか海に似ていた。

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