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1章‐2

 この高校には"聖母"がいる。

 彼女は誰に対しても平等で優しい人だった。


「水郷さん、頼みたいことがあるんだけど」

「はい。構いませんよ」

「あの、水郷さん、今いいかな……?」

「はい。どうぞ」


 彼女は生きとし生けるものすべてを慈しむ心を持っていた。


「裏庭の花壇ってさ、いつも綺麗だよね。季節ごとに花も違うし」

「あれ、水郷さんが手入れしてるらしいよ」

「うわっ……美少女に花かぁ~似合い過ぎる」


 彼女は常に静かに笑みをたたえ、凪のような穏やかな性格をしていた。


「はー……今日も水郷さんって美人だな。あんな子が彼女だったらいいよなぁ」

「やめとけよ。あいつがどこで聞いてるか分からないんだぞ」

「そういえば、水郷さんに告白した奴があの番犬に潰されたらしいぞ……」

「え……なにそれ怖ぁ……」


 男女問わず注目を集めている、それが"聖母"――水郷海という少女だった。

 海がそう呼ばれる切っ掛けとなったのは、クラスメイトの女子生徒がどこか苦しそうにしている姿を見かけ、彼女を助けたいと思ったときだった。

 高校生という年頃は大人が思う以上に悩み事や相談事を抱えている。けれど、思春期真っ只中である生徒たちはその悩みを素直に吐き出すことができない。


「大丈夫ですか?」

「……え?なにが……?」

「とても苦しそうな顔をしていたので。私でよければなんでもお話してください」


 声をかけられたクラスメイトは最初は訝しんでいたが、海が心底心配してくれていることは伝わってきた。その心配をしてくれる心がどうしてか嬉しく感じて、クラスメイトは自分が抱えているものをすべて海に話した。海は静かに話を聞いたあと否定も肯定もせず、クラスメイトの存在すべてを受け止め包み込むように「いいんですよ」それだけを言った。

 あまりにも優しい感情に、クラスメイトは海に泣き縋ってしまった。それさえも海は受け入れてクラスメイトの背中をゆっくりと撫でた。

 その出来事は噂となり、いつしか生徒たちの間で「海に相談すると"赦される"」と広まっていった。まるで教会の懺悔室のように。


「ねぇ、昨日"聖母様"に話を聞いてもらったんだけど、すごくよかった」

「ええ!いいなぁ。私も聞いてほしいことあるんだよね」

「本当に優しすぎてマジ"聖母様"だった」


 いつの間にか聖母と呼ばれるようになっていて、海自身はその呼び名は不相応すぎではないかと思っていた。だが、それで皆の心が救えるならばと、海は聖母と呼ばれることを知らないふりをしていた。


「それで?海ちゃん、また相談室やってたの?」

「蒼くん」

「本当に勝手だよ。関係のない海ちゃんに自分の感情を押し付けてるだけでさ。一方的すぎる」

「皆さん、話を聞いてほしいだけですよ。ほら、誰かに話すと思考が整理されていくじゃないですか」

「それでも、それは海ちゃんのためにはならないよ」

「いいんですよ。私が話を聞くだけで、皆さんの心が救われるなら」


 とある日の放課後、海は相変わらず生徒たちの悩みや相談事を人気のない裏庭のベンチで話を聞いていた。

 ひとしきり話したあと、海が「気を付けて帰ってくださいね」と見送っていると背後から蒼が顔を覗かせた。どうやら部活が終わり海を迎えに来たようで、蒼の手には二人分の鞄があった。

 去って行く生徒を蒼が苦々し気に見つめていると、海がくすりと笑いながら蒼の頬を和らげるように優しく撫でる。


「私は、皆さんが幸せならそれでいいと思っています」


 海はこの世界を愛している。そしてこの世界に含まれる、生きとし生けるものをすべて愛し慈しむ。

 そして海は、自身が注ぐ愛に対して決して見返りは求めない。まるで愛することが自分の義務であるかのように、愛に対価を求めることが罰であるかのように。

 蒼は海のその性質を悪いことだとは思わない。蒼は海のその性質ごと愛しているからだ。けれど、その性質は危うくもあると思っている。


「まぁ……俺は海ちゃんが幸せならそれでもいいけどさぁ……。あ、でも男と二人きりになるのだけはダメだからね」

「そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」

「いーや。油断大敵だよ。海ちゃんってば頼まれたらすぐに頷いちゃうんだからさ」

「ふふっ」

「お、そんな可愛い顔で笑っても俺は誤魔化されないよ」


 海はなんでもないというように笑うが、蒼は頬に添えられた手を離さないように少しだけ強く握りしめる。

 この世界には本当に悪い人間などいないと信じている海を蒼は否定しない。だが、いつか危険な目に遭ってしまうことになるだろうという確信じみた思いがある。


「まったくもう……。今日はもう帰ろう。母さんから晩ご飯食べにおいでって連絡入ってたよ」

「わぁ!ありがとうございます」


 鞄を受け取り、そのまま手を繋いで校舎を出る。正門まで歩く道すがら、校舎の上階で二人の姿を見下ろす黒い陰。

 陰は唇を強く噛みしめ、皮が裂け歯の間から赤い血が滴り落ちる。


「……?」

「海ちゃん?どうかした?」

「いいえ、なんでもないですよ」


 帰り道をしばらく歩いていると、海はふと立ち止まり後ろを振り振り返った。けれど、そこはいつもの通学路があるだけでなにも変わったところはない。

 じっと来た道を見つめていると、蒼も立ち止まり不思議そうな顔をしたので海は首を横に振る。


「そう?」

「はい。あ、猫ちゃん」

「ん?おー、ほんとだ」

「かわいいですね。おいで」


 目の端に映り込んだ猫に海は顔を輝かせる。塀の上に座ってこちらを視線を向けていた猫は、海に呼ばれると素直に尻尾を揺らしながら近寄りその足に擦り寄ってくる。

 海はしゃがみ猫に手を差し出すと、猫は手の匂いを嗅いでから撫でてほしいというように額を擦りつける。頭や喉元をくすぐるように撫でるとゴロゴロと音を鳴らす。

 昔から海は動物に好かれるタイプだった。小学生の頃、動物園に遠足に行ったときそこにいた動物という動物が海に向かってこようとして軽くパニックになったなぁと蒼は思い出す。


「ふふっ……かわいい」

「なぁ、俺も撫でていいか?」


 楽しそうにしている海の隣にしゃがみながら蒼が猫に声をかけると、猫は蒼を一瞥してから顔を背けて海に体を擦り寄せた。

 まるでこちらの言葉をすべて理解しているかのような態度に蒼は眉を顰める。


「くっそ、猫のくせに……」

「んふふふ」

「笑い過ぎだよ海ちゃん」


 呆気なく振られている蒼がおかしくて海は笑いを堪えることができない。その姿は年相応の女の子で、やはり蒼は海が聖母などと呼ばれることは間違っていると思った。

 すべての人間の感情を受け止めるなんて、一人の女子高生にできる訳なんてないのだと。


「海ちゃん」

「はい」

「……なんでもない。そろそろ帰ろう」

「そうですね。またね、猫ちゃん」


 蒼は立ち上がり海に手を差し出すと、海は迷うことなくその手を取る。立ち上がった海は蒼より随分と小さい。

 昔は海の方が大きかったのになと、あの遠足の時を思い出す。あの時は、動物たちが怖くて海の後ろに隠れてしまい、海に「だいじょうぶですよ」と慰められてしまった。

 けれど、今はもう違う。海を守れるくらいには成長したし、強くなったと蒼は思う。猫に手を振る海を見つめ、蒼は絶対に彼女を守ろうと心に誓った。


 暗い部屋。小さな明かりの中ぼんやりと浮かび上がるその姿。

 様々な角度から撮られているのは一人の少女。壁一面に貼られた写真を恍惚な笑みを浮かべ見つめ、その一枚に頬を寄せる。猫を撫でながら笑う少女の姿。

「ああ……今日も美しい……聖母、いいや、私の女神……。待っていてください、必ず、必ずお迎えにあがります」

 黒の陰は床に放っていた写真を強く強く踏みつける。そこには少女の隣に並ぶ一人の少年があった。

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