1章‐1
朝日が目の奥をくすぐる感覚に、水郷海はぼんやりと意識を浮上させた。
眠気が残る体を起こし目を擦りながら布団を出る。カーテンと窓を開けると、外は夏の雲一つない青空が広がっていて朝の風が髪を揺らす。
洗面所で眠気を払うように顔を洗った。タオルで顔を拭きながら鏡に映る自分の顔を見つめると、こちらを見つめ返す琥珀色の瞳が瞬いた。
朝食や昼の弁当は昨晩の夕食と一緒に準備をしているのでそんなに時間はかからない。弁当を詰め終えて、朝食を手早く食べ終える。
それから自室に戻り、クローゼットにかけていた制服に着替える。ちょうど洗濯をしてアイロンをかけたばかりのブラウスは、袖を通すとぱりっと小気味いい音を鳴らした。
着替えを終えて、海が向かったのは居間にある小さな仏壇。そこに置いてある写真立てを手に取った。写真の中で笑いかけてくる優し気な男性に、海も笑みを返して仏壇に写真立てを戻した。
そして、首にかけているネックレスを祈るように握りしめる。
【Arielle na viesta lumina.】
海がそう唱えると、海の体の周りに小さな星が舞いきらきらと輝いた。毎日必ずこの「おまじない」を唱えること、それが父との約束だった。
『どうしておまじないをしなきゃだめなの?』
『このおまじないは海をみんなと"同じ"にするんだ。だから決して忘れてはいけないよ』
『うん、わかった!』
昔、父と交わした会話を思い出しながら鏡の前で自分の姿を確認する。二年前までは父が最後の確認をしてくれていたのに、その父はもういない。
玄関で靴を履いて、仏壇の写真に向かって声をかける。
「いってきます。お父さん」
海のその言葉に「行ってらっしゃい。海」と父の懐かしい声が聞こえた気がした。
玄関の鍵を閉めて海が二階建てのアパートの階段を降りると、階段下で待っていた少年が太陽のような笑顔で海に声をかける。
「おはよう!海ちゃん」
「おはようございます。蒼くん」
少年、國司蒼は海に手を差し出すとそれに自然と海の手が重ねられる。蒼は嬉しそうに手を繋いで、二人で学校までの道のりを歩きだす。
蝉が鳴きだす夏の朝の通学路。海は視線を空に向けると、太陽がこちらを照らしていて眩しさに目を細めた。
「だいぶ暑くなってきましたね」
「もうすぐ夏休みだもんなぁ」
「ふふっ、そうですね」
「海ちゃんの誕生日ももうすぐだし」
「それはまだ先ですよ」
「八月なんてすぐだよ、すぐ」
ゆらゆらと揺らしていた手をぎゅっと握りしめた蒼に海はおかしそうに笑った。ぬるい風が吹き、蒼のダークブルーの髪と海の"黒色"の髪が揃ってふわふわと揺れる。
「それよりも、蒼くんは部活の合宿があるんでしょう?」
「ああ……そう言えばそうだな……。面倒だな……うるさいんだよ、先輩たちがさぁ」
「皆さん蒼くんに期待しているんですよ」
「いーや。あれはただの僻みだよ」
剣道部のエースとして活躍している蒼は見目の良さも相まって女生徒に大人気の少年だ。部活中も見学の女生徒がいたり、ファンクラブが存在するという噂もある。
蒼は海以外の女性に興味がなく周りで騒ぐ女子たちを歯牙にもかけないが、それを快く思っていない人物も確かにいる。
「今年もインターハイも出るんですよね?」
「まぁね。今回は副将になったんだ」
「わぁ、責任重大なところですね」
「うん。それに部長は今年で最後だから、それには応えたいとは思ってるよ」
蒼は高校生になってから剣道を始めた。そして彼の剣道のセンスは抜群で、一年生の頃から試合に出る蒼に対して異議を唱える上級生もいた。
だが、剣道部は実力主義だと言ったのは現在の部長でそれに応えるように蒼も実力で上級生たちを捻じ伏せた。以来、蒼は部長には敬意を払っているようで今年は部長にとって最後のインターハイ。
いつになく真面目な顔をしている蒼を見て、海は微笑んだ。
「試合、見に行ってもいいですか?」
「本当?!絶対勝つから絶対来て!!」
「ふふっ、はい。楽しみにしていますね」
先ほどまでの真面目な顔とは打って変わって、蒼は子供のように頬を緩め笑みを浮かべる。無邪気に笑っているように見えるが、海は蒼が誰にも言わずに努力を重ねていることを知っている。
だからこそ、海はその努力が花開くことを楽しみにしている。そんな会話をしていると、いつの間にか学校に到着していた。
まだ朝が早い時間帯なので生徒はいない。正門を抜けて校舎と部活棟の分かれ道の前で蒼は名残惜しそうな顔をした。
「海ちゃんはいつもの水やり?」
「はい。随分と育ったので、また見に来てくださいね」
「わかった!じゃ、俺は朝練に行ってくるよ」
「行ってらっしゃい。頑張ってください」
手を振って朝練に行く蒼を見送ってから、海は校舎裏にある花壇へ向かう。海は園芸部ではないが、植物を育てるのが好きで朝の水やりを条件に花壇を間借りさせてもらっている。
ホースを持って花壇に行けば、そこには意外な人物がいて海は思わず足を止めた。
「鈴木先生?」
「水郷か」
「はい。おはようございます」
「ああ、おはよう」
鈴木翠という名のこの男性教師は、今年の春に産休に入った教師の代わりに来た教師だった。
「美しい」という言葉は彼のために存在するのだと言わんばかりの顔立ち、すらりと伸びる長身は二メートル近くはあるだろう。
それに合わせるように長く伸びる綺麗な髪は、無造作にポニーテールに結い上げているがそれさえも艶やかだった。
彼が全校集会で登壇した時、あまりの美しさにそこにいたすべての人間が息を飲んだ。実際、倒れ込む生徒も居たくらいだ。
間違いなく、この高校で一番注目されているのはこの教師だった。そんな彼がなぜこんなところにいるのだろうと、海は首を傾げる。鈴木はどこの部の顧問もしていないし、外に出ると主に女子生徒に囲まれてしまうので、授業以外では職員室から出てくることも珍しい。こちらを向いて声をかけてくる鈴木は無表情でなにを考えているのか分からない。
「いつも君が水やりを?」
「はい。植物を育てるのが好きなんですが、家では場所がなくてここを借りでいるんです。先生も植物はお好きですか?」
「……ああ、そうだな」
笑顔を浮かべる海に、鈴木は微かに目を細めながら曖昧に頷いた。水道にホースを繋ぐ海をしばらく眺めて、花壇から離れる。
鈴木はゆっくりと海そばまで寄り、腰を折るように身を屈めて彼女の耳元で微かに囁くがその視線はある一点を見つめていた。
「"マリンブルー"の髪の色が隠しきれていないぞ。……アクアマリア」
「えっ……?!」
ぱちんと響く指を鳴らす音。突然の出来事に驚いて鈴木を見上げると、彼は既に背を向けて校舎の方に歩き始めていた。海は咄嗟に自分の髪を手に取り見ると、"いつも通り"黒色に染まっていた。
だが、鈴木は海の本来の髪の色が"マリンブルー"だと知っていた。そして鈴木が言っていた"アクアマリア"という単語に海は不思議と親しみを覚えた。
「なん、だったんでしょう……」
なにも分からないが、悩んでいても仕方ないと海は水やりを再開した。そして、それを見つめる黒い陰がひとつあった。
黒い陰は物陰から鈴木を凝視していた。憎しみが籠ったその目からは血の涙を流し、壁を強く爪を立てていたせいで壁に血がべったりと貼り付いていた。




