3章‐3
シアリスが藍に呼び出されたのは日本という国だった。島国らしく、四季があり、治安は諸外国に比べると悪くはないと聞いて、シアリスは生まれ育ったマリヴェラに似ていると思った。
違うのは藍が住むのは内陸部で近くには海がないということだった。そうして藍と共に過ごし始めて二年が経ったが、未だに藍はシアリスに【召喚】した理由を教えてはくれなかった。
季節は夏、8月も半ばが過ぎた8月23日。毎朝のルーティンとしてシアリスは藍の様子を見に101号室を訪れる。
「アイ、調子はどうだい?」
「お~、元気元気」
「そう?でも無理をしてはいけないよ」
アパートも少しずつ住人が増え、藍も管理人として働いており、最近20歳の誕生日を迎えていた。
毎日を元気に過ごしているように見えるが、藍の体は年を重ねるごとに病に浸食されている。現代の医療で完治するものではないようで、シアリスの治癒魔法でも進行を僅かに抑えるだけだ。
今日はいつもよりも血色がいいが油断はできない。心配そうに眉を下げるシアリスに藍はからからと笑い飛ばす。
「僕、いまから仕事に行ってくるけど、調子が悪くなったらちゃんと連絡するんだよ」
「携帯の使い方が未だに下手くそなやつがなに言ってんだよ」
「で、電話にくらい出れるよ……!」
「はいはい。早く行かねぇと遅刻するぞ」
心配をするシアリスを追い出すように見送ってから、藍の体はぐらりと揺れる。ベッドに倒れ込み深く息を吸う。
激しく痛む胸を押さえながらも、藍はどこか満足したように笑みを浮かべていた。(本当だったら、余命三ヶ月とか言われてたんだ……十分だよ……マジで……)そんなことを思いながら、藍は休むようにゆっくりと目を閉じた。
【召喚】により契約者とは会話できるが、それ以外ではシアリスは『日本語』というものを知らない。なので一から学ぶ必要があったが、元々知識を得ることが好きだったシアリスにとって新しい言語を学ぶことは楽しかった。
今日も町に溢れている文字を眺めながら職場までの道のりを歩く。マリヴェラでは魔法使いとして研究ばかりをしていたが、こちらの世界ではそうもいかない。
だが、こちらで仕事をしようにもシアリスの存在はこの世界には受け入れられていない。
平たい話、身分を証明できるものがない。シアリスが持つシュタルム家の家紋が刻まれたコインは、こちらの世界では記念硬貨にすらならない。魔法で気配は消せても身分を作ることはできない。
シアリスがどうしたものかと悩んでいると、藍は次の日にはどこからかシアリスの『身分証』を用意していた。
「おはようございます」
「おはよう、水郷さん」
「暑い日が続きますね」
「ほんとほんと。日焼け止めを塗ってもすぐに流れちゃう」
シアリスが職場に到着すると、先に出勤していた同僚と挨拶を交わす。シアリスがこの図書館で臨時職員として勤め始めてもう一年半が過ぎていた。
藍が用意した『身分証』には藍の名前があった。驚いてどういうことか聞くと藍は「俺とお前は同じ顔だから、誰にもわかんねぇよ」と言って笑った。それにシアリスは困惑していたが、それ以上の策もなく、ここではシアリスは水郷藍として働いていた。
いつしか仕事にも慣れ、人当たりの良いシアリスは同僚との関係も良好だった。通常業務に加えて、いまは夏休みなので宿題を持った子供たちの相手をすることも楽しい。
そして、見目が良いシアリス目当てに女性利用者が倍に増えたことを彼は知らない。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様。今日もモテモテだったわね、水郷さん」
「そうでしょうか。でも、話しかけてくれるのは嬉しいものですね」
ロッカー室でエプロンを脱いで荷物を取り出しながら微笑むシアリスに、同僚の女性は年甲斐もなくときめいてしまう。まるで王子様のようなシアリスに憧れる女性職員は多く、いつの間にかファンクラブが発足している。もちろん非公式なのでシアリスはなにも知らない。
帰宅準備を整えたシアリスは、再びお疲れさまでしたと頭を下げて職場を後にする。携帯を取り出して、藍から連絡が来ていないことを確認してから帰宅を伝えようと電話をかける。
だが、シアリスの耳に聞こえるのは電子の呼び出し音だけだった。別に藍が電話に出ないことは珍しいことではない。そのはずなのに、この日はなぜか胸騒ぎがしてシアリスは走り出した。
全速力で走るなんて、いままでのシアリスならばできなかっただろう。しかし、全力で走ったことがないせいで足がもつれ転びそうになる。
「アイ!」
アパートにたどり着いたシアリスは101号室の扉を開ける。部屋の中に視線を向けるとベッドに倒れ込む藍を見てシアリスの血の気が一気に引く。
「アイ、しっかりして、起きて……!アイ!」
駆け寄って藍の体を抱き起しても、藍の目は開かず腕がだらりと垂れ下がる。微かに呼吸音が聞こえるが、いまにも消えてしまいそうなくらいに小さいものだった。
藍のそばを離れるべきではなかったとシアリスは強く後悔する。藍がシアリスに体調不良を隠すことは珍しいことではなかったのに。知っていたはずなのに、一人にしてしまった。
「アイ……」
「……なに、泣いてんだよ」
ぼたぼたと流れる涙が藍の頬を濡らしていると、藍が薄っすらと目を開く。それにシアリスは安心したように笑みを浮かべた。
「アイ!よかった……!大丈夫かい?いまから病院に行こう」
「いや、行かなくてもいい」
「そんなわけにはいかないよ!ちゃんとお医者さんに診てもらわないと!」
「いいんだ。俺はもう、いいんだ。それよりもさ、シィ。俺の願い事、なんだけど」
藍は手招きをして、シアリスの耳を自分の口元に寄せる。呼吸がままならない声で藍は初めてシアリスを【召喚】した理由を告げた。
それを聞いて、シアリスは驚いて藍の顔を見る。そして、ゆっくりと頷いた。
「……マジ?」
「うん、いいよ」
「ほんと、お前ってさ……」
お人好しすぎるよ、そう言って藍は再び目を閉じた。シアリスは意識のない藍を抱きかかえて、外に出た。辺りを見回し人の目がないことを確認してから、上空へ向かって踏み出した。
まるで階段を上るように、一歩一歩、ゆっくりと。空の上まで登り切り、そこからは風に導かれるまま海に向かって歩きだした。
以前、藍は海に行きたいと言っていた。ここから海まで遠くはないが、病院暮らしが長かった藍は海を実際に見たことがなかった。それを覚えていたシアリスは、藍のために海を目指す。
その途中、藍から告げられた願い事を思い出す。
『俺の代わりに、俺として生きてほしい』
それが藍の願いだった。
水郷藍は恐れていた。体が弱く、両親からも見捨てられ、小さな田舎の病院で微かに息をしているだけの自分は、世界からも自分の存在を忘れられるんじゃないかと。
けれど、自分ではどうすることもできない。いまの医療技術では藍の病を治すことはできないし、その病は年々体を蝕んでいく。
体も心も痩せ細って、近い未来に死んでいく。この世界に、自分の存在を刻めないままいなくなっていく。それがなによりも恐ろしかった。
暇つぶしで見ていたインターネットのオークション。悪魔も呼び出せる魔術書を見かけて、藍は縋った。眉唾ものでも、オカルトでも、なんでもよかった。自分の願いを叶えてもらえるならなんでもよかった。そうして藍の前に現れたのは、自分とまったく同じ顔をしたシアリスだった。
「……風……」
「うん。もうすぐ海だよ」
「そっか……初めてだな、海。楽しみだ」
「着いたら起こすから、まだ寝てて」
「うん……」
頬を撫でる風の感覚に一瞬目が覚める。微笑むシアリスとその向こうに見える星空が綺麗で、藍は微笑んでまた目を閉じた。いやに空が近いように感じたが、「そういやシィって魔法使いだったっけ」、と藍は今更ながらに思った。けれど、シアリスの治癒魔法がなければ藍はここまで生きてはいられなかった。一緒に過ごしていた彼はあまりにも普通の青年だったからすっかりと忘れていた。
「藍、起きて」
「うん……」
「海、着いたよ」
「へへ、夜の海って、いいな」
「月の光でキラキラしてて、綺麗だよね」
いつの間にか辿り着いていた海を見て、藍は笑った。シアリスの言う通り月明かりが海面を照らしていた。
藍は、夜も月も好きではなかった。すべてが眠りにつく夜は、自分が世界でたった一人になってしまったと錯覚してしまうから。それでもいまは美しいと思う。
「シィ」
「なぁに?」
「本当に、いいのか?」
「いいよ。君が望むままに、僕は君として、水郷藍の存在をこの世界に刻んでいくから」
「ごめん……我儘で、ごめん。シィの存在を、無くして、ごめん」
「いいんだよ。僕は藍で、藍は僕だった。……そうだろう?」
「うん……俺は、シアリス・シュタルム、か。いい、響きだ」
そう笑って、緩やかに目を閉じた藍の体からすべての力が抜けた。命の灯が消えた体はずしりとシアリスの腕にのしかかる。
シアリスは最後に藍の体を強く抱きしめて、海の上に寝かせる。手をかざし、呪文を唱える。すると、魔核に蓄積されていた魔力が膜となり、藍の体を包み込む。
【O Mare, Custodia Eum.】
膜に包まれた藍の体はゆっくりと海の底へ沈んでいく。どんどんと海底へ沈む藍をシアリスは見えなくなるまで見送っていた。
帰ろう、そう思い風に乗って飛び立とうとしたとき、不意に波がシアリスの裾を引いた。
まるで意思を持っているような波の行動に驚くと、波はなにかをシアリスに差し出してきた。
「この子は……」
波が連れて来たのは生まれたばかりの赤子だった。赤子はマリンブルーの髪と琥珀色の目を持っていて、それは兄によく似ていた。
赤子から流れる魔力はシアリスと同じもので、胸に手を当てると心臓とは別に魔核が存在していることが確認できた。まさしく、シアリスと同じ世界で生まれた赤子だ。なぜここに来たのかは分からない。
だが、波が連れてきたということはこの赤子は世界に守られている子なのだろう。
「そうか、じゃあ、今日から君は僕の娘だ。僕の名前は水郷藍。君の名前は、そうだな……海ってどうかな。安直かなぁ?」
赤子の顔を覗き込むと、赤子はシアリスをじっと見つめていた。その姿が可愛くて、愛おしくて、シアリスは赤子を大事に抱きしめた。
あれから、シアリスは藍として生き、海を拾い育て始めてから十五年が経った。海はすくすくと成長し、動物や植物が好きで、人に優しい子に育っていた。
もうすぐ高校に入学する。入学式の日も近く、彼も浮かれていた。昔の自分は子育てができるなんて思ってもいなかっただろう。
けれど、終わりはあまりにも唐突に訪れた。
体が吹き飛ぶような重い衝撃と全身を走る痛みと辺りを裂くような悲鳴が響くのは同時だった。
いつものように仕事へ向かう途中だった。海の作ったお弁当を受け取って、行ってらっしゃいと見送られて。今日は早く帰るから蒼くんたちとご飯を食べに行こうね、と言っていたのに。
自分の体が潰れて全部の血が流れ出ていく。そうして体温がなくなって冷たくなり、動かなくなっていくことが理解できる。もう自分はここで死ぬのだろうと、彼は自然と受け入れることができてしまった。これまで生きてきた人生に後悔はないが、心配事はある。
(海……、僕の娘……一人にしてしまってごめん……。蒼くんが、助けてくれるといいんだけど……)
目を閉じると辺りは暗闇に包まれる。耳もだんだんと遠くなり、声をかけられても彼にはもうなにも届かない。
(藍、僕は、君の存在を世界に刻むことができたかな、僕は君の願いを叶えることができたかな)
「当たり前だろ!」
「……藍?」
聞き慣れた声が耳に届いて、シアリスは驚いて目を開ける。すると、シアリスの目の前では藍が笑っていた。
十五年前に亡くなったはずの藍がどうしてここにいるのかと思ったが、潰れたはずの体が元に戻っていることに気が付いて自分はもう死んでしまったということを理解した。
「そっか、僕はもう死んだのか」
「おう……。あの、ありがとうな、シィ」
「ううん。僕は君の願いを叶えただけだよ」
「うん……。もう、大丈夫だ。俺は、十分幸せな人生だったよ。それでさ、お前の兄ちゃんにめっちゃ小言言われてんだよ。なんとかしてくんねぇ?」
「え?兄さんがいるの?本当に?」
藍の言葉にシアリスは驚いた。ここに兄がいるということは彼も亡くなってしまっているということだろう。
こんなにも早くに兄が亡くなったなんて信じ難いことだが、藍が嘘をつくはずもない。疑問は尽きないが、話を聞く時間はこれからはたくさんあるだろう。
藍にも話さなければいけないこともたくさんある。水郷藍として生きてきた日々のことを。
「海、僕たちの娘。君の幸せを願っているよ」
最期に、シアリスは最愛の娘の幸せを願い、その生涯を閉じた。
ここで過去編終了です。
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