3章‐2
水郷藍。18歳。
彼は日本でも有名な資産家の一人息子であるが、幼いころから病弱で自宅よりも病室のほうが自室らしくなっている。
現在も療養として田舎町の病院に入院しているが、実のところ両親に見捨てられているようなものだった。それに、最近では両親は養子を迎えたとも聞いている。
「もう十年は顔も見てねぇから覚えてもない」
「そんなあっさり言うものでもないだろう……?」
「でもさ、人間なんて忘れる生き物なんだから。会わなきゃ忘れるよ、たとえ親でも」
藍と名乗った少年は、つまらなさそうにベッドの上に寝転んだ。それはまるで不貞腐れた子供の様だった。
そんな彼にシアリスの心が痛んだ。開きっぱなしになっている窓辺から風が流れ込み、カーテンとシアリスの髪を揺らす。
ここは病院以外にはなにもない山の上で、潮風しか知らないシアリスは森の匂いが少し新鮮だった。そして、この白い部屋は藍の病室で、彼はもうずっとここで暮らしていると言う。
「それにしても、よくこんな古びた魔術書なんて手に入ったね」
「面白そうなオークションやってたから暇つぶしで見てたんだ。いかにもそれっぽい感じがしたからさ」
サイドテーブルに置いた魔導書は年代物と言っても紛れもなく本物だった。こんな魔法も魔術も発展していない世界には必要もないはずなのに。
「けど、どうして悪魔召喚をしようとしていたんだい?」
「そんなの、叶えてほしい願いがあるからに決まってるだろ」
「うーん、君は知らないのかもしれないけど、悪魔は願いなんて叶えてはくれないよ」
ベッドから体を起こして、藍は魔術書のページを無造作に捲るが、その声には先ほどまでの暗さはなかった。
数年ぶりに見知った医者や看護師、実家で雇われている年老いた使用人以外の話し相手ができて楽しくなってきたのかもしれない。
「でも、物語とかゲームとか、そういうのでは悪魔ってのは対価の代わりに願いを叶えてくれるもんだろ」
「それはただのファンタジーだよ。悪魔というのは幻想種のひとつで、人間の知も及ばない未知の存在だ。狡猾で口が上手く、こちらが騙されて食べられて死ぬだけだよ。それに、そもそも悪魔は人間に呼び出されることを嫌っているしね」
「なんだよ、見たことあるように言うじゃん」
「もちろん。見たことあるからね」
「…………マジ?」
いつの間にかきらきらと目を輝かせこちらに身を乗り出してきている藍に、シアリスは笑いながらベッドのそばに置いてあった椅子に座る。
自分と同じ顔をしているはずなのに、こうも期待されるような表情を浮かべているのを見るとだんだんと可愛く思えてしまう。まるで弟でもできたかのように錯覚する。
そう思って、シアリスはハッと気が付いた。もしかすると、兄もこうして自分のことを可愛いと思ってくれていたのではないかと。
「なぁ、シィ」
「へ?な、なに?それ、僕のこと?」
唐突に、藍がそう呼んだ。あまりにも突然のことにシアリスは驚いて体を揺らしてしまう。まさか、家族以外から愛称で呼ばれる日がくるなんて思ってもいなかった。
「そうだよ。シアリスだから、シィ。いいだろ?」
「は、はは……!うん、いいよ。……アイ」
「おう」
シアリスが藍の名前を呼ぶと、藍もくすぐったそうに、それでも嬉しそうに笑っていた。
この世界には魔素がないことに、シアリスは早くから気が付いていた。
魔核不全を患っている人間は、つねに魔核が軋むような痛みを抱えている。原因は、脆い魔核は魔素の中和に耐えられないからだ。
魔核の脆さや痛みは個人差はあれど、魔核不全の人間は呼吸をするだけでも一苦労だった。けれど、この世界に来た瞬間から、シアリスは胸いっぱいに空気を吸うことができた。
初めての感覚に、空気を吸いすぎて咳き込んでしまい藍に大笑いされた。
「なんだよシィ、山ん中でも空気の味は変わんないぞ」
「そ、そういうんじゃ、ないから……!」
藍がシアリスを召喚してから半年が経過していた。最初こそ、シアリスは認識阻害の魔法で他の人間から姿を見せないようにしていたが、そんな生活ばかりを続ける訳にもいかない。
シアリスは【召喚】されてしまっているので、召喚者の藍が【契約】を解かない限り元の世界に帰ることもできない。だが、シアリスにはあまり帰る気はなかった。
帰ったところで、魔核不全の痛みに耐える日々が待っているだけだ。家族には悪いと思っているが、それでもシアリスは自由に動けるこの体を手放したくなかった。
藍はシアリスが魔法使いであることは理解していたので、試しに体を治せないかと聞くとシアリスは首を横に振った。
「僕ができるのは、アイに元々備わっている治癒力を活性化させて病状を遅らせることだけ。完治させることはできないよ」
「いいよ、それでも。それで退院できるなら十分だ」
シアリスの身体強化の魔法により、藍の体は急速に改善され、検査結果に医者は驚きが止まらなかった。そうして、ついには退院の許可が出た。
それに、年老いた使用人が涙ながらに喜ぶ姿を見て、藍は驚くと同時に自分にもまだ心配してくれている人がいることに嬉しくなった。
「それで、ここがアイの家?」
「そう。親が適当に買って与えた俺の家」
そこは静かな住宅街の中、小さな二階建てのアパートだった。建てられたばかりなのか、綺麗ではあるがまだ誰も住んでいない。
病院からここまで車で送ってくれたのはあの使用人だったが、いまはその姿はもうない。どうやらあまり藍の世話をすることは許されていないようだった。
「ここ、格安で賃貸にも出したからそのうち他の住人も来るかもな」
「アイに管理人なんてできるの?」
「んだよ。やってみなきゃわかんないだろ。ほら、これがシィの部屋の鍵な。202号室」
「ありがとう」
藍から渡された鍵を、シアリスはぎゅっと握りしめる。藍の部屋は101号室らしく、階段の前で別れそれぞれの部屋へ行く。
階段を上がり202号室に受け取った鍵を差し込んで回すと、かちゃんと鍵が開く音がした。
玄関では靴を脱ぐ、ということは藍から教わっていたので、きちんと靴を脱いで部屋に入る。そっと部屋の中を見て回っていると、洗面所にある鏡に気が付いた。
誘われるようにそちらに向かい、鏡の前に立つと自分の顔がこちらを見つめていたが、ゆらゆらとシアリスの顔が揺れ、それは徐々に兄の形になっていく。
『シア!』
「にい、さん……?」
どうやら向こうの世界とこちらの世界が鏡越しに繋がったようだ。おそらく、シアリスと仲の良い精霊の力だろう。ジェイルも優れた魔法使いであるが、世界と世界を繋ぐようなことはできない。
そんなことができるのは、【召喚】のような強制力のあるものを除けば、それこそ神や魔女といったおとぎ話レベルの存在くらいだ。
『ああ、良かった……!ずっと心配していたんだ。お前が【召喚】されてしまったと聞いて』
「そっか……ごめん、兄さん。心配かけて」
シアリスのそばにいた精霊はきちんと役目を果たしてくれたようで、シアリスの状況は把握しているようだった。
半年ぶりに見る弟は思ったよりも元気そうで、ジェイルは胸をなで下ろしこちらに向かって手を差し伸べた。
『さぁ、早く戻って来い。いまなら辛うじて空間が繋がっている』
「…………」
『シア?』
俯いてしまったシアリスにジェイルは何故だか胸騒ぎがした。どくどくと、心臓の鼓動が速くなっていく。
そして、ジェイルはシアリスがずっと辛そうに目を伏せていたことにようやく気が付いた。けれど、気付いたところで、シアリスの決断は変わらない。
「ごめん、兄さん。僕はそっちには戻れない」
『なっ……!なにを言っているんだ!召喚者に脅されているのか?』
「違う。違うんだよ、兄さん。そんなんじゃない。アイはとってもいい子なんだ」
『なら、どうして……!』
「アイはね、……僕なんだ。僕もアイも同じなんだ。生きていたいのに、生きられない。でも僕はこの世界なら生きられる。魔核がなくても、生きていけるんだ」
向こうに帰ってしまうと、どうしたって魔核不全に苦しめられ、兄に対して負い目を感じてしまう。ジェイルがそんなことを思っていないことなど分かり切っているのに、どうやったってその思いは拭いきれない。
それに、藍が心配なのも本当だった。シアリスと藍はそれこそ鏡写しのような存在で、きっとここで藍を置いて行ってしまえばシアリスは一生後悔するだろう。
シアリスの強い瞳に、ジェイルは諦めたように息を吐いた。
兄だから知っている。弟は、こうと決めたら絶対にその意思を曲げないことに。だからこそ、ジェイルができることはたった一つしかなかった。
『……俺は、お前が生きて幸せでいてくれるなら、それで構わない』
「兄さん……?」
『弟の幸せを願うのが、兄の役目だからな』
「ありがとう、兄さん……我儘ばかりで、ごめんなさい」
そっと鏡越しにジェイルの手が添えられて、シアリスもその手のひらに合わせるように手を重ねる。そうして自然と二人は目を閉じて額を合わせる。
昔から、ジェイルはシアリスが眠る前にこうしてあやしてくれていた。
『いいんだ。……愛しているよ、シアリス。お前の幸せを願っている。どこの世界に生きていたとしても』
「僕も、愛してる。兄さんを、いちばん……」
額に感じるリップ音。そうして兄の姿は鏡から消え、シアリスを映すだけになった。一人になったその部屋で、シアリスは藍が迎えにくるまで、ずっと泣き続けた。




