第八章 ほどけない想い
刈谷と手をつないで帰った夜、愛香はほとんど眠れなかった。
唇に残る熱。
抱きしめられた腕の強さ。
耳元で囁かれた、余裕のない声。
――あの頃は、こんなふうに触れられる日が来るなんて思っていなかった。
(……好きです、って言っちゃった)
布団の中で顔を覆う。
中学二年の秋。
団地のベンチで、夕焼けを背にした先輩の横顔を見ていたあの時間。
何も言えなかった。
好きだと伝えたら、全部壊れてしまう気がして。
だから、ただ黙っていた。
その代わりに結ばれたのが、あのミサンガだった。
(あの時の気持ち、やっと言えたんだ)
二十五歳にもなって、恋愛初心者みたいに動揺している自分が恥ずかしい。
けれど胸の奥は、ずっとあたたかかった。
翌朝。
会社に着くと、黒崎はすでに席にいた。
黒のシャツに、整った黒髪。
無駄のない姿勢でパソコンに向かう横顔は、いつも通り落ち着いている。
「おはようございます」
変わらない声。
「お、おはよう……」
愛香はまともに目が合わせられない。
昨夜、刈谷先輩とキスをした。
手をつないだ。
好きだと伝えた。
その事実があるだけで、黒崎を見るのが苦しい。
黒崎はちらりとこちらを見て、手を止めた。
「……何かありました?」
「えっ」
「顔、いつも以上に赤いです」
鋭い。
「ね、寝不足かな!」
「そうですか」
納得していない顔だった。
昼休み。
コピー室で資料をまとめていると、後ろでドアが閉まる音がした。
振り向くと、黒崎が立っていた。
「黒崎くん?」
「少し、話せますか」
逃げ場のない声だった。
狭いコピー室。
機械音だけが、やけに大きく響く。
「……昨日、あの人と会ってましたよね」
愛香は息をのむ。
「なんで」
「今朝の顔でわかります」
観察力が怖い。
「……会ったよ」
正直に答えると、黒崎は数秒黙った。
その沈黙が、痛い。
「そうですか」
「黒崎くん」
「聞いてもいいですか」
まっすぐな視線。
「俺、もう負けました?」
胸が締めつけられる。
「そんな言い方しないで」
「じゃあどう言えばいいんですか」
初めて、黒崎の感情がはっきりと滲んだ。
「好きな人が、別の男のことで幸せそうな顔してるの見て、平気なふりしてるの、結構きついです」
愛香は何も言えない。
黒崎は一歩近づいた。
「……少しだけ」
低い声。
「少しだけ、俺のこと見てください」
その瞬間、手首を引かれ、抱きしめられる。
強くはない。
けれど、離したくない気持ちがそのまま伝わる。
肩口に額が触れる。
「ごめんなさい」
掠れた声。
「困らせたいわけじゃない」
腕が、わずかに震えている。
「でも、好きです」
胸が苦しくなる。
黒崎は、こんなにもまっすぐだった。
しばらくして、そっと体が離れる。
「……忘れてください」
「忘れられないよ」
思わず言うと、黒崎は少しだけ笑った。
「ですよね」
その笑顔が切なくて、愛香は泣きそうになった。
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その日の夜。
会社帰り、刈谷から連絡が来た。
――今から少し会える?
迷った末、駅近くの公園で待ち合わせた。
ベンチに座る刈谷は、愛香を見るなり立ち上がる。
「会いたかった」
昔と変わらない、まっすぐな言葉。
中学の頃もそうだった。
ぶっきらぼうなのに、肝心なところは真っ直ぐで。
その優しさに気づいたとき、もう好きになっていた。
「先輩、そういうの心臓に悪いです」
「慣れろ」
「無理です」
笑い合ったあと、刈谷はふと真顔になる。
「どうした」
やっぱり、わかる。
あの頃も、何も言えないでいた愛香の様子に気づいていた人だ。
「……黒崎くんに抱きしめられた」
刈谷の表情が止まる。
「は?」
「コピー室で」
「コピー室!?」
「ちょっ…、声が大きいです!」
「なんでそんな密室で」
「私が決めたわけじゃないです」
刈谷は髪をかきあげ、大きく息をついた。
「……無理」
「何がですか」
「その話聞いて平常心でいんの」
次の瞬間、腕を引かれる。
そのまま、胸に閉じ込められる。
あの頃より、ずっと広くて、あたたかい。
「先輩……」
「俺の前で他の男の名前出すな」
低く、嫉妬に濡れた声。
「やきもちですか」
「そうだよ」
即答だった。
愛香は思わず笑う。
すると刈谷は少し体を離し、じっと見つめてきた。
「笑うな」
「だって嬉しくて」
「……ほんとずるい」
額に口づけられる。
優しくて、どこか必死なキス。
「愛香」
「はい」
「昔やったミサンガ、覚えてるか」
あの夕焼けの記憶が、ふっとよみがえる。
「もちろん」
細い手首に結ばれた糸。
不器用な結び方。
あれは約束でも告白でもなかった。
でも、二人にとっては確かに特別だった。
「まだ持ってる?」
愛香は小さく笑う。
「……持ってるよ」
引っ越しても、環境が変わっても。
あの日の気持ちごと、ずっと。
刈谷の目が見開かれる。
「まじで?」
「宝物だったから」
夜風の中、刈谷は何も言わなかった。
ただ次の瞬間、強く抱きしめられる。
「……敵わねぇ」
耳元でこぼれる声が、少し震えている。
あの頃、言えなかった想い。
離れていた時間。
すれ違ったままの気持ち。
それ全部が、今この腕の中で繋がっている。
「そんなこと言う先輩、初めて見た」
「おまえの前だけだよ」
胸の奥が、いっぱいになる。
ほどけなかったのは、ミサンガじゃなくて――
きっと、二人の想いだった。




