第七章 すれ違い
午後のオフィスに戻ってからも、愛香の心はずっと落ち着かなかった。
パソコン画面を見ても、数字が頭に入ってこない。
メール文面を打っては消し、また打っては消す。
「愛香さん」
隣から黒崎の声がした。
「この見積書、桁ひとつ多いです」
「……えっ」
「一千万になってます」
「うそ!」
慌てて修正し、顔を覆う。
「もうだめだ……」
黒崎は小さくため息をついた。
「今日は集中しなくていいです」
「それ仕事的にまずくない?」
「まずいです」
「じゃあ言わないで」
珍しく、彼は少しだけ笑った。
けれどその優しさが、余計に胸を痛くする。
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終業後、愛香はスマホを握りしめていた。
**刈谷先輩**
トーク画面を開いては閉じる。
何を送ればいいのかわからない。
“さっきは違うんです”
何が違うのか、自分でも説明できない。
“金曜行けます”
それも違う気がする。
悩んでいるうちに、メッセージが届いた。
**黒崎:駅まで送ります**
タイミングが良すぎる。
断ろうか迷ったが、今日は一人で帰ると余計に考え込みそうだった。
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駅までの道。
夜風が少し冷たい。
黒崎は歩幅を合わせてくれる。
無理に話しかけず、静かに隣を歩いてくれるところが彼らしい。
「……今日、ごめんね」
愛香が口を開くと、黒崎は首を振った。
「何がですか」
「変な空気にして」
「俺は別に」
少し間を置いてから、続ける。
「ただ、あの人が本気だってわかりました」
愛香は黙る。
「だから焦ってます」
「黒崎くん……」
「でも」
立ち止まり、彼は愛香を見た。
駅前の灯りの中で、その目は真剣だった。
「俺も本気です」
胸がきゅっと締めつけられる。
「今すぐ選ばなくていい。でも、ちゃんと俺も見てください」
そう言って、黒崎は愛香の髪に触れかけて、やめた。
指先だけが空中で止まる。
「……おやすみなさい」
そのまま背を向けて改札へ消えていった。
触れなかった指先の意味が、やけに残った。
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金曜。
朝から雨だった。
愛香は鏡の前で何度も服を着替え、結局シンプルな白いブラウスとネイビーのスカートにした。
(なんでこんな緊張してるの)
仕事中も落ち着かない。
黒崎は何も言わなかった。
ただ、昼休みにすれ違った時だけ静かに言った。
「行ってらっしゃい」
その声が優しすぎて、胸が痛んだ。
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夜七時。
待ち合わせ場所の駅前には、刈谷が先にいた。
黒いシャツにジャケット。
スーツより少しラフな格好なのに、やたら似合う。
愛香に気づくと、一瞬だけ目を細めた。
「……来た」
「行くって言いましたよ」
「いや、逃げるかと思った」
「失礼です」
けれどその声は少し掠れていた。
どこか余裕がない。
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連れて行かれたのは、夜景の見えるダイニングバーだった。
大人っぽい店内に愛香はそわそわする。
「先輩、こういう店も来るんですね」
「だから営業だって」
「万能すぎる」
笑い合う。
でも今日は、どこかいつもと違った。
刈谷があまり冗談を言わない。
視線だけが何度も愛香に触れる。
食事が終わり、グラスの氷が静かに鳴った頃。
刈谷が口を開いた。
「……昼、あいつといたな」
やっぱりそこだ。
「黒崎くんとは同期で」
「知ってる」
低い声。
「好きなのか」
真正面から聞かれ、愛香は息をのむ。
「わからない」
「じゃあ俺は」
その声が少しだけ乱れる。
「俺はどう見えてる」
いつも強気な刈谷先輩が、初めて不安そうだった。
愛香の胸が締めつけられる。
「先輩は……ずるいです」
「は?」
「急に現れて、昔みたいに優しくして、振り回して」
「振り回してねぇ」
「振り回してます」
睨むと、刈谷は苦く笑った。
「悪い」
その素直さに、また心が揺れる。
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店を出ると、雨はやんでいた。
少し遠回りして川沿いを歩く。
人通りは少なく、街灯の光が水面に揺れていた。
「愛香」
名前を呼ばれ、振り向く。
次の瞬間、手首を引かれた。
気づけば、刈谷の腕の中だった。
「せ、先輩……!」
「もう無理」
低く掠れた声。
「余裕あるふりすんの、限界」
抱きしめる腕に力がこもる。
広い胸板に頬が触れて、鼓動が伝わる。速い。
「他の男に見られてんのも、隣歩かれてんのも、全部嫌だった」
耳元で囁かれ、足が震えた。
「先輩……」
顔を上げると、すぐ近くに熱を帯びた目がある。
そのまま唇が重なった。
最初は触れるだけ。
けれど離れたと思ったら、今度は深く、確かめるように。
背中に回された手が、逃がさないように引き寄せる。
息が苦しくなって離れると、刈谷の額が愛香の額に触れた。
「……やばい」
「何がですか」
「おまえ、思ってたよりずっと可愛い」
真っ赤になる愛香に、刈谷は喉の奥で笑った。
そして首筋に顔を埋めるようにして、小さく言う。
「これ以上したら止まれなくなる」
その声に、本気の切迫が滲んでいた。
愛香の心臓が壊れそうになる。
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しばらくして、刈谷は大きく息をつき、名残惜しそうに体を離した。
「……送る」
「はい……」
足元がおぼつかない。
歩き出すと、先輩がさりげなく手をつないできた。
大きくて、少し熱い手。
「先輩」
「ん?」
「余裕ない先輩、初めて見ました」
刈谷は顔をしかめる。
「見せたくなかった」
「なんで」
「かっこ悪いだろ」
愛香は笑って、指を握り返した。
「……私は、好きです」
刈谷が足を止めた。
「今、なんて?」
「聞こえてたくせに」
「もう一回」
顔が熱い。けれどちゃんと見上げる。
「余裕ない先輩も、好きです」
次の瞬間、また強く抱きしめられた。
「……まじで勘弁しろ」
声が震えていた。




