第六章 黒崎の告白
机の上のメモを、愛香は何度も見返してしまった。
“今日、昼休み少しください。 黒崎”
黒崎らしい、簡潔で整った字。
余計な飾りもなく、用件だけがまっすぐ書かれている。
それなのに、なぜこんなに胸が落ち着かないのか。
「愛香さん、朝からメモと見つめ合ってますけど」
背後から声がして、飛び上がりそうになった。
「く、黒崎くん!」
本人だった。
いつも通り黒髪は整い、シャツも皺ひとつない。
何事もない顔でコーヒーを飲んでいる。
「人を驚かせる天才なの?」
「普通に話しかけただけです」
「心臓に悪いよ……」
「昼、時間ください」
真顔で念押しされた。
「う、うん」
「逃げないでくださいね」
「逃げないよ!」
「昨日みたいに“急ぎの修正が〜”とか」
「根に持ってる」
黒崎は少しだけ笑った。
その笑顔にまた落ち着かなくなる。
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午前中は仕事に集中しようとした。
けれど集中できなかった。
黒崎は何を話すつもりなんだろう。
まさか、本当に——。
(いやいやいや)
そこまで考えて首を振る。
けれど昨日の視線。
「次は譲りません」と言った声。
冗談ではなかった。
愛香は資料の数字を二度も打ち間違え、営業部の先輩に心配された。
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昼休み。
黒崎に連れて行かれたのは、会社近くの小さな公園だった。
平日の昼らしく、ベンチにはサラリーマンが数人座っているだけ。
桜はもう散り、若葉が揺れていた。
「ここ、静かで好きなんです」
黒崎がベンチに腰掛ける。
愛香も少し距離をあけて座った。
「で、話って?」
黒崎はすぐには答えなかった。
缶コーヒーを一本差し出してくる。
「どうぞ」
「ありがとう」
「甘いやつです」
「なんで毎回知ってるの」
「見てますから」
またそれだった。
愛香が笑うと、黒崎は少しだけ目を細める。
そして真面目な顔に戻った。
「……愛香さん」
その呼び方だけで、空気が変わる。
「俺、ずっと言えなかったんですけど」
胸が強く打つ。
黒崎は視線を逸らさずに続けた。
「好きです」
まっすぐだった。
「入社した時から、ずっと」
愛香の指先が震える。
「明るくて、誰にでも優しくて、たまに抜けてて。周りはみんな愛香さんに助けられてるのに、本人だけ気づいてなくて」
「黒崎くん……」
「そんなところ全部、好きです」
風が吹いた。
若葉が揺れる音だけが聞こえる。
「急に答えなくていいです」
黒崎の声は落ち着いていた。
でも、膝の上で握った手だけが強くこわばっている。
「ただ、ちゃんと伝えたかった」
「……ありがとう」
それしか言えなかった。
「嬉しい」
本当に嬉しかった。
こんなふうに大切に思ってくれる人がいることが。
でも。
頭に浮かぶのは、別の人だった。
雨の中迎えに来た背の高い姿。
ぶっきらぼうに優しい声。
“他の男のことで赤くなんな”
愛香は唇を噛んだ。
黒崎はその表情を見逃さなかった。
「……あの人のこと、好きですか」
静かな問いだった。
「え……」
「刈谷さん」
名前を言われるだけで心臓が跳ねる。
「まだ、わかんない」
正直に答えるしかなかった。
黒崎は少しだけ笑った。
苦い笑いだった。
「そうですよね」
「黒崎くん……」
「でも、待てます」
驚いて顔を上げる。
「理系なんで。短期決戦向いてません」
こんな時にそんなことを言うから、愛香は思わず笑ってしまった。
「なにそれ」
「本気です」
黒崎も少し笑う。
「ただし」
その目がまっすぐになる。
「簡単には譲りません」
胸がどきりとした。
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午後、会社へ戻る途中。
二人で並んで歩いていると、向かいの歩道に見覚えのある長身がいた。
薄茶の髪。
スーツ姿。
片手にスマホ。
刈谷だった。
目が合った瞬間、彼の表情が止まる。
その視線が、愛香と黒崎の距離を見る。
並んで歩く二人を見る。
空気が一気に冷えた気がした。
「先輩……?」
刈谷はゆっくり近づいてきた。
「昼休みか」
「はい」
「へえ」
黒崎が一歩前に出る。
「何かご用ですか」
「別に」
刈谷の視線は愛香から動かない。
「楽しそうだったな」
低い声だった。
愛香はなぜか、責められている気持ちになる。
「ち、違っ……」
何が違うのか自分でもわからない。
刈谷は数秒黙ったあと、鼻で笑った。
「悪い、仕事戻るわ」
そのまま背を向ける。
「先輩!」
思わず呼ぶと、立ち止まった。
けれど振り返らない。
「金曜、無理ならいい」
それだけ言って去っていく。
愛香の胸がぎゅっと締めつけられた。
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隣で黒崎が静かに言った。
「……かなり、好きみたいですね」
「え?」
「あの人、嫉妬してました」
愛香は刈谷の背中を見つめたまま、何も言えなかった。
自分の心まで、もうごまかせなくなっていた。




