第五章 雨の日の傘
「でも、あなたのことはよく見てます」
黒崎の声は静かだった。
大げさでもなく、照れ隠しもなく、ただ事実を述べるように。
愛香は返す言葉を失った。
朝のオフィス。周囲では電話が鳴り、コピー機が動き、人が行き交っている。
なのに二人の間だけ、妙に音が遠く感じた。
「……黒崎くん、それ」
「はい」
「さらっと言うとこじゃないよ」
「思ったので」
「思ったからって」
「ダメでした?」
まっすぐ見つめられ、愛香は視線を逸らすしかなかった。
「……ずるい」
「何がですか」
「そういうとこ」
黒崎は少しだけ口元を緩め、また画面に向き直った。
「褒め言葉として受け取っておきます」
心臓に悪い。
愛香はカフェラテを開け、一気に飲みたくなった。
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その週は、天気予報がずっと雨だった。
木曜の午後。
外回りの営業たちが濡れた傘を持って戻ってくる頃、空は完全に灰色になっていた。
「愛香さん、この見積もり先方に送れます?」
「はい、今やります!」
「こっちの英語版もお願いします」
「えっ、追加!?」
「すみません、急ぎで」
「やります!」
月末前で、社内は戦場だった。
愛香は髪を耳にかけ、必死にキーボードを打つ。
その横で黒崎が無駄のない手つきで別案件を片付けていく。
「黒崎くん、分身できる?」
「できません」
「してるように見える」
「愛香さんが一人で三人分騒いでるだけです」
「ひどい」
そんなやり取りをしていると、営業部の先輩が声を上げた。
「やば、今日この雨で電車止まるかもって」
「えー!」
窓の外を見ると、雨脚はさらに強くなっていた。
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気づけば時刻は二十一時を過ぎていた。
残業組も次々帰り、フロアには数人だけ。
愛香は最後のメール送信ボタンを押し、椅子にもたれた。
「終わった……」
「お疲れさまです」
隣で黒崎が立ち上がる。
「黒崎くんもまだいたの?」
「まだって、ずっといましたけど」
「途中から意識なかった」
「でしょうね」
彼は自分の傘を手に取った。
「駅まで送ります」
「え、大丈夫だよ」
「この雨で?」
窓の外では、バケツをひっくり返したような雨が降っている。
「でも傘あるし」
「その折りたたみ、昨日骨折れてましたよね」
「なんで知ってるの」
「見てますから」
またそれだ。
愛香が苦笑した、その時。
フロア入口が開き、受付の女性が顔を出した。
「愛香さん、下にお迎えの方来てます」
「……え?」
「背の高い、営業マンっぽいイケメンの方」
黒崎の空気が変わった。
愛香は嫌な予感しかしないまま、一階ロビーへ降りた。
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自動ドアの向こう。
強い雨の中、黒い傘を差して立っていたのは刈谷だった。
スーツの肩が少し濡れている。
片手をポケットに入れ、当然のような顔でそこにいる。
「先輩!?」
「おう」
「なんで!?」
「天気予報見た」
意味がわからない。
「雨すごいから迎え来た」
さらっと言われ、愛香は言葉を失った。
そこへ後ろから黒崎が降りてくる。
「……なるほど」
静かな声だった。
刈谷が視線を向ける。
「同期くん」
「黒崎です」
「そうだったな」
二人の間に、雨より重い空気が流れる。
愛香は本気で頭を抱えたくなった。
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「愛香さん、傘あります。駅まで送れます」
黒崎が言う。
「いや、俺が車だから」
刈谷が言う。
「車?」
愛香が目を丸くすると、先輩は顎で外を示した。
路肩に停まる黒いSUV。
似合いすぎて腹が立つ。
「先輩、いつの間にそんな大人っぽい……」
「失礼だな」
「でも、わざわざ来なくても」
「来たかったから来た」
その一言で、愛香の心臓が跳ねる。
黒崎が無表情のまま口を開いた。
「愛香さん、選んでください」
「えっ」
「送ってもらう相手」
「そんな究極の二択ある!?」
「あります」
「ある」
二人同時だった。
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数秒の沈黙。
受付の女性たちが明らかに様子を見ている。
もう逃げたい。
「……じゃ、じゃあ」
愛香は苦し紛れに言った。
「三人で駅まで……?」
「嫌です」
「嫌だ」
また同時だった。
「なんで仲いいのそこだけ!?」
思わず叫ぶと、二人とも少し笑った。
その空気に助けられ、愛香は深呼吸する。
「……今日は、先輩に送ってもらいます」
黒崎の目がわずかに揺れた。
胸が痛む。
「でも黒崎くん、今日ほんとに助かった。ありがとう」
真っ直ぐ言うと、彼は少し黙ってから頷いた。
「……わかりました」
そして刈谷を見る。
「次は譲りません」
静かな宣戦布告だった。
刈谷は口元を上げる。
「上等」
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車の助手席に乗り込むと、シートの革の匂いと微かな香水がした。
雨音が屋根を叩く。
「……大丈夫か」
刈谷がエンジンをかけながら言う。
「何がですか」
「顔、疲れてる」
「そんなに?」
「出てる」
みんな同じこと言う。
愛香が笑うと、刈谷は横目で見た。
「さっきのやつ」
「黒崎くん?」
「おまえのこと好きだろ」
直球すぎて咳き込む。
「な、何言ってるんですか!」
「見りゃわかる」
「そんなこと……」
言いかけて、今日の黒崎の視線や言葉を思い出す。
“あなたのことはよく見てます”
急に顔が熱くなる。
刈谷は小さく舌打ちした。
「その顔すんな」
「え?」
「他の男のことで赤くなんな」
低い声だった。
車内の温度が、一気に上がった気がした。
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家の近くまで送ってもらい、車が止まる。
「ありがとうございました」
「おう」
ドアに手をかけた時、刈谷が呼んだ。
「愛香」
振り向くと、先輩は真っ直ぐこちらを見ていた。
「金曜、空けとけ」
「……命令ですか?」
「今度は頼んでる」
少しだけ柔らかい声。
愛香は胸の奥がくすぐったくなった。
「……予定、空けます」
そう答えると、刈谷は満足そうに笑った。
その笑顔が、なぜかずっと頭から離れなかった。
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翌朝。
出社すると、机の上にメモが置かれていた。
**今日、昼休み少しください。 黒崎**
その丁寧な文字を見た瞬間、
愛香の鼓動はまた忙しくなった。




