第四章 元カノの影
「……じゃあ金曜の夜、空いてます?」
黒崎はパソコン画面を見たまま、まるで業務連絡のような口調で言った。
けれど愛香の心臓は、業務連絡では済まなかった。
「き、金曜?」
「はい」
「えっと……」
昨夜、刈谷先輩にも同じ日の夜を聞かれたばかりだ。
(なにこれ。どうして急に金曜に集中するの)
愛香が固まっていると、黒崎はようやくこちらを向いた。
「予定ありますか?」
「……ちょっと」
「誰とですか」
「そこまで聞く?」
「聞きます」
真顔だった。
「もしかして、あの営業さんですか」
「……」
沈黙は肯定になる。
黒崎は小さくため息をついた。
「わかりやすいですね」
「そんなことないよ!」
「あります」
彼は椅子を回し、愛香に向き直る。
「じゃあ別日にしてください」
「え?」
「俺も誘ってるので」
「ええっ!?」
声が出た。
周囲の視線が集まり、愛香は慌てて口を押さえる。
黒崎は涼しい顔でキーボードに戻った。
「静かにしてください」
「原因あなたでしょ!」
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結局その日は、仕事に追われて金曜の返事どころではなくなった。
月末の資料修正、急な翻訳依頼、取引先への確認電話。
気づけば時計は二十時を回っていた。
フロアには残業組が数人。
黒崎は別部署との打ち合わせに出ていて席が空いている。
愛香は肩を回し、ふうと息をついた。
「疲れた……」
その時、スマホが震えた。
**刈谷先輩:まだ会社?**
(なんでわかるの)
**愛香:なんでわかるんですか**
すぐ返信が来る。
**刈谷先輩:窓見ろ**
慌てて立ち上がり、オフィスの窓際へ走る。
下の歩道。
街灯の下に、スーツ姿の長身が立っていた。
スマホを片手にこちらを見上げ、ひらりと手を振る。
「……うそ」
思わず声が漏れる。
十階の窓からでもわかる。
刈谷先輩だ。
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十五分後。
会社を出ると、夜風が頬に冷たかった。
「先輩、何してるんですか」
「近く来たついで」
「絶対嘘です」
「ばれたか」
悪びれず笑う。
昔よりずっと大人になったのに、こういうところは変わらない。
「残業か?」
「はい。月末で」
「腹減ってる?」
「……減ってます」
「よし」
先輩は当然のように歩き出した。
「え、どこ行くんですか」
「飯」
「また!?」
「残業明けにコンビニ飯とか許さねぇ」
誰目線なのかわからない。
でもその強引さが、少し嬉しかった。
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連れて行かれたのは、会社近くの小さな和食屋だった。
カウンター席に座ると、先輩は迷わず注文する。
「この店、魚うまい」
「詳しいですね」
「営業だからな」
「それ万能ワードですね」
笑い合う空気が心地いい。
焼き魚定食が運ばれ、愛香はひと口食べて目を丸くした。
「おいしい……!」
「だろ」
なぜか得意げだ。
「先輩、こういう優しい味好きなんですね」
「なんだと思ってた」
「肉!油!ラーメン!」
「中学生のイメージで止まってんじゃねぇよ」
吹き出す。
その笑い声を聞きながら、刈谷は少しだけ目を細めた。
「……ほんと変わんねぇな」
「またそれ」
「いい意味で」
ふっと視線が柔らかくなる。
愛香は落ち着かなくなって、お茶を飲んだ。
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食事の終わり頃、愛香は思い切って聞いた。
「先輩、彼女と先月別れたって言ってましたよね」
「ああ」
「……長く付き合ってたんですか」
「三年」
三年。
その数字に胸がちくりとする。
「結婚とか、考えてたんですか」
刈谷は少し黙った。
「向こうはしてたかもな」
「……」
「俺がちゃんと向き合えてなかった」
静かな声だった。
「仕事言い訳にして、甘えてた」
その横顔に、いつもの余裕はなかった。
愛香は箸を置く。
「先輩でも、そんなことあるんですね」
「先輩でもってなんだよ」
「なんでもできそうだから」
「できねぇよ」
そう言って笑ったあと、ぽつりと続けた。
「失ってから気づくことばっかだ」
その言葉が、妙に胸に残った。
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帰り道。
駅までの夜道を並んで歩く。
「先輩の元カノさんって、綺麗な人だったんでしょうね」
なんとなく口にすると、刈谷が眉を寄せた。
「なんで」
「だって先輩かっこいいし、モテそうだし」
「そういうのどうでもいい」
「でも、お似合いだったんだろうなって」
自分で言っていて、少し苦しくなる。
刈谷は立ち止まり、愛香を見下ろした。
「おまえさ」
「はい?」
「なんでそんなに、俺と他の女並べたがるわけ」
低い声に、心臓が跳ねる。
「え……そんなつもりじゃ」
「あるだろ」
一歩近づかれる。
逃げ場がなくなる。
「俺が今、一緒にいるの誰だと思ってんの」
夜風より熱い空気が、二人の間に落ちた。
愛香は何も言えない。
刈谷は数秒見つめたあと、ふっと息をついて離れた。
「……悪い。言いすぎた」
「先輩」
「送る。駅まで」
その背中が少しだけ遠く見えた。
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翌日。
出社した愛香の机に、缶のカフェラテが置かれていた。
見ると黒崎が席でタイピングしている。
「これ……黒崎くん?」
「糖分不足そうだったので」
「なんでわかるの」
「顔に出てます」
またその言葉。
愛香が座ると、黒崎は手を止めずに言った。
「昨日、あの人と会ってました?」
「……え」
「顔がそう言ってます」
鋭すぎる。
「黒崎くんって、探偵?」
「違います」
そこでようやくこちらを向く。
「でも、あなたのことはよく見てます」
真っ直ぐな目だった。
愛香の鼓動が、大きく乱れた。




