第九章 嫉妬
「……敵わねぇ」
刈谷に抱きしめられたまま、愛香はその言葉を胸の奥で何度も繰り返した。
昔のミサンガを、まだ持っている。
それだけでこんな顔をするなんて思わなかった。
「先輩」
「ん?」
「そんなに嬉しかったの?」
腕の中で見上げると、刈谷は少し困ったように笑う。
「嬉しいっていうか……」
言いかけて、視線を逸らした。
「……救われた」
その一言が、やけに深く響く。
愛香は何も言えず、ただ先輩のシャツをそっとつかんだ。
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週明けの月曜日。
恋をしている時の会社は、どうしてこうも落ち着かないのか。
エレベーターの鏡で前髪を直し、深呼吸してフロアに入る。
「おはようございます!」
元気よく言った瞬間、黒崎と目が合った。
「おはようございます」
いつも通りの声。
けれどその目は、何かを測るように静かだった。
愛香はそそくさと席に座る。
(普通に、普通にしよう)
そう決めたのに、机の上に紙袋が置かれていた。
「これ、黒崎くん?」
「はい」
「なに?」
「この前、資料手伝ってもらったお礼です」
中を見ると、有名店の焼き菓子だった。
「え、こんな高そうなの困るよ」
「困らないでください」
「でも」
「甘いもの好きですよね」
またそれだ。
見られすぎている。
愛香が戸惑っていると、営業部の女性社員がひそひそ言った。
「黒崎くんって愛香さんにだけ優しいよね」
「ねー」
聞こえてます。
愛香は穴があったら入りたかった。
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昼休み。
社員食堂で定食を受け取り、席を探していると、黒崎がトレーを持って現れた。
「ここ、いいですか」
「う、うん」
向かいに座る。
しばらく無言で食べていたが、黒崎がふいに言った。
「昨日、あの人と会ってました?」
フォークを落としそうになる。
「な、なんで毎回わかるの」
「顔に出ます」
万能すぎる。
「……会ったよ」
正直に言うと、黒崎は小さく頷いた。
「そうですか」
その声に感情はない。
けれど、箸を持つ手だけが少し強い。
「黒崎くん」
「はい」
「怒ってる?」
「怒ってません」
「絶対怒ってる」
「怒ってません。ただ」
そこで視線が上がる。
「嫉妬してます」
今度は冗談じゃない顔だった。
胸がどきりとする。
「……そんな真っ直ぐ言われると困る」
「困ってください」
珍しく意地悪な言い方だった。
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その日の夕方。
営業二課との合同ミーティングで、刈谷が来社した。
会議室のドアが開いた瞬間、空気が少し変わる。
スーツ姿の刈谷は、今日も人目を引く。
薄茶の髪を整え、ネクタイをゆるめた首元に色気がある。
愛香と目が合うと、一瞬だけ口元を上げた。
それだけで心臓がうるさい。
黒崎はその様子を横目で見ていた。
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会議が終わり、人がばらけた後。
愛香が資料を片付けていると、刈谷が近づいてきた。
「今日、終わり何時」
「え?」
「飯」
「急ですね」
「いつもだろ」
その時、後ろから声がした。
「愛香さん、このあとデータ確認お願いできますか」
黒崎だった。
刈谷がゆっくり振り返る。
「仕事熱心だな、同期くん」
「どうも」
笑っていない笑顔。
愛香はまた頭を抱えたくなった。
「愛香さん、十五分で終わります」
「いや、こっちは十分で連れてける」
「荷物みたいに言わないでください!」
二人同時に黙る。
会議室に変な沈黙が落ちた。
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結局、仕事を優先して黒崎の確認作業を手伝うことになった。
会議室を出る前、刈谷が低く言う。
「終わったら連絡しろ」
「はい……」
その声に逆らえず頷くと、黒崎がわずかに眉を動かした。
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残業スペース。
二人でパソコン画面を見ながら数字を確認する。
距離が近い。
黒崎の肩が時々触れそうになる。
「ここ、入力違います」
「えっ、ほんとだ」
「集中してください」
「してるよ!」
「してません」
「なんで」
「さっきからあの人のこと気にしてる顔です」
図星だった。
愛香は言い返せない。
黒崎はキーボードから手を離し、静かに言った。
「……そんなに好きなんですね」
「え」
「俺といる時でも、気になるくらい」
切ない声だった。
愛香の胸が苦しくなる。
「黒崎くん……」
その時、スマホが震えた。
**刈谷先輩:まだ?**
黒崎にも画面が見えたらしい。
数秒の沈黙。
「……行ってください」
低い声だった。
「でも」
「これ以上ここにいたら、たぶん優しくできない」
愛香は息をのむ。
黒崎は立ち上がり、窓の外を向いた。
「お願いだから、今は行って」
その背中があまりにも寂しくて、愛香は胸が痛んだ。
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ビルの外に出ると、刈谷が車にもたれて待っていた。
愛香を見るなり、真っ直ぐ歩いてくる。
「遅ぇ」
「仕事してたの」
「知ってる」
そしてふいに、愛香の肩を抱き寄せた。
「……あいつと二人だったろ」
「仕事だよ」
「それでも嫌だ」
耳元で低く言われ、鼓動が跳ねる。
「先輩、嫉妬しすぎ」
「してる」
即答だった。
そのまま腰を引き寄せられ、至近距離で見つめられる。
「おまえ、俺以外にそんな顔すんな」
「どんな顔……」
言い終わる前に、唇を塞がれた。
人目のある夜道なのに、短く深いキス。
離れたあと、刈谷は少し荒い息で言う。
「……ほんと、余裕なくなる」
愛香の足元がふらつく。
「先輩ずるい……」
「お互い様だろ」
そう言って、今度は優しく額にキスを落とした。
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その夜。
愛香はベッドの中で天井を見つめていた。
優しくて真っ直ぐな黒崎。
不器用で独占欲の強い刈谷。
二人の気持ちが本物だとわかるほど、苦しくなる。
けれど答えは、もう少しずつ見え始めていた。




