第十章 本音
答えは、もう見えている。
そう思うのに、愛香はなかなか言葉にできなかった。
誰かを選ぶということは、
誰かを傷つけるということでもある。
黒崎の真っ直ぐな想い。
優しさ。誠実さ。
それを知っているからこそ、簡単にはできなかった。
けれど——。
スマホ画面に表示された名前を見ただけで、胸が跳ねる人は一人しかいない。
**刈谷先輩:今週土曜、空いてるか**
愛香は少し笑って返信した。
**愛香:空いてます**
数秒後。
**刈谷先輩:迎え行く**
命令形みたいなのに、嬉しい自分が悔しい。
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土曜日。
刈谷の車で連れて行かれたのは、海の見える少し遠い街だった。
春の終わりの風がやわらかい。
海辺の遊歩道を並んで歩く。
休日の刈谷は、白シャツにデニムというシンプルな格好なのに、やたら目立っていた。
「先輩って、どこでも目立ちますね」
「うるせぇ」
「褒めてます」
「聞こえねぇ」
笑いながら肩を軽く小突かれる。
こういう時間が、たまらなく好きだと思った。
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テラス席のカフェでランチをして、夕方まで海辺を歩いた。
帰る頃には、空がオレンジ色に染まり始めていた。
車に乗り込み、走り出してしばらくしてから、刈谷がぽつりと言った。
「今日、なんかあったか」
「え?」
「妙に静か」
図星だった。
愛香は窓の外を見たまま、小さく息をつく。
「……考えてたの」
「何を」
「先輩のこと」
ハンドルを握る手がぴくりと止まる。
「それ、運転中に危ねぇこと言うな」
「本当だもん」
刈谷は苦笑したが、その横顔は少し嬉しそうだった。
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夜。
家の近くまで送ってもらったが、愛香はすぐ降りなかった。
車内に静かな音楽が流れている。
「どうした」
「……まだ帰りたくない」
自分で言って、顔が熱くなる。
刈谷がゆっくりこちらを向いた。
「愛香」
低い声。
「そういうこと言うと、帰せなくなる」
「……いいよ」
その瞬間、車内の空気が変わった。
刈谷が息をのむ音が聞こえた気がした。
「先輩ばっかりずるい」
「は?」
「いつも先輩から来るじゃん」
愛香はシートベルトを外し、体を少し乗り出した。
そして、刈谷のシャツの胸元をそっとつかむ。
「今日は私からしたい」
刈谷の目が見開かれる。
「……おまえ」
「だめ?」
答えを待つ前に、愛香は背伸びして唇を重ねた。
触れるだけの、短いキス。
けれど離れた瞬間、刈谷の理性が切れたようだった。
「……ほんと勘弁しろ」
掠れた声と同時に、腰を引き寄せられる。
今度は深く、熱のこもったキス。
何度も重ねられ、息が乱れる。
愛香が肩に手を置くと、刈谷はその手を握りしめた。
「おまえ、自分が何してるかわかってる?」
「……少し」
「少しじゃねぇ」
額を押し当てるようにして、苦しそうに笑う。
「ずっと余裕なくさせてんの、おまえだからな」
その言葉に胸がいっぱいになる。
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しばらくして、刈谷は深呼吸して体を離した。
「……だめだ。これ以上は」
「なんで」
「好きだから」
真っ直ぐだった。
「大事にしたい」
愛香は胸が熱くなる。
「先輩……」
「だから、ちゃんと聞かせろ」
刈谷は愛香の頬に触れた。
「おまえ、俺のことどう思ってる」
逃げられない問いだった。
でも、もう逃げたくなかった。
「好き」
声が震える。
「昔から憧れてた。再会して、もっと好きになった」
刈谷の喉が上下する。
「黒崎くんには悪いって思う。すごく優しいし、素敵な人だし……でも」
愛香は刈谷の手を握った。
「私が一緒にいたいのは、先輩」
静寂のあと。
次の瞬間、強く抱きしめられた。
「……やっと言った」
声が少し震えていた。
「俺、どんだけ待ったと思ってんだ」
「そんなに?」
「死ぬほど」
笑ってしまう。
すると刈谷は愛香の耳元で低く言った。
「もう先輩じゃいられねぇ」
「え?」
「男として見ろ」
心臓が跳ねる。
「……じゃあ、恒一さん?」
試しに名前で呼ぶと、刈谷が固まった。
「もう一回」
「やだ」
「愛香」
本気の声だった。
愛香は笑いながら、小さく囁く。
「……恒一さん」
次のキスは、さっきよりずっと甘かった。
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同じ頃。
自宅でパソコンを開いた黒崎は、何度も画面を閉じていた。
もう答えはわかっている。
それでも、願ってしまう自分がいた。




