最終章 願いの続き
「今日は帰したくねぇな」
その一言の余韻を残したまま、刈谷の車は夜の街を走っていた。
助手席で愛香は窓の外を見ながら、ずっと顔が熱かった。
「……黙りすぎ」
ハンドルを握ったまま、刈谷が横目で見る。
「誰のせいだと思ってるの」
「俺」
即答だった。
「自覚あるならやめてください」
「無理」
さらっと言われ、愛香はまた赤くなる。
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連れて行かれたのは、落ち着いた雰囲気の和食店だった。
個室に通されると、二人きりの空間に急に緊張する。
「そんな警戒すんな」
「してないよ」
「してる。肩上がってる」
「見ないで」
「無理」
またそれだ。
注文を済ませると、刈谷は肘をついて愛香を見た。
「今日、ずっと可愛い」
「やめて」
「なんで」
「ドキドキしすぎて、心臓もたないっ」
刈谷は喉の奥で笑った。
「じゃあもっと言う」
「最悪」
「照れてんのも可愛い」
「もう帰るっ」
立ち上がろうとした手首をつかまれる。
そのまま軽く引かれ、愛香はバランスを崩して刈谷の方へ倒れ込んだ。
「ちょっ……!」
「捕まえた」
至近距離。
悪戯っぽく笑う顔がずるい。
「離して」
「やだ」
「子どもなの?」
「おまえの前だとそうなる」
胸がどきんと跳ねた。
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食事を終え、店を出る頃には雨が降り始めていた。
「また雨」
「俺ら雨率高くね?」
「最初に迎えに来た日も雨だったよね」
刈谷は一瞬だけ目を細めた。
「……あの日、迎え行って正解だった」
「なんで?」
「行かなかったら、黒崎に取られてたかもしれねぇ」
「そんなことないよ」
「ある」
真剣な声だった。
「俺、おまえのこと再会した日から気になってた」
愛香は足を止める。
「え?」
「最初は懐かしいだけだと思った。でも違った」
傘の下、雨音だけが二人を包む。
「笑った顔見た瞬間、やばいと思った」
刈谷がこんなふうに素直になるなんて。
それだけで胸がいっぱいになる。
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家の近くまで送ってもらい、車が止まる。
静かな車内。
ワイパーの音だけが一定に響く。
「……帰したくねぇ」
昼よりずっと低い声だった。
愛香はシートベルトに手をかけたまま、彼を見る。
「じゃあ、帰さなきゃいいじゃん」
自分でも驚くほど素直な言葉だった。
刈谷の目が見開かれる。
「愛香」
「何」
「煽ってる?」
「し、知らない」
次の瞬間、腕を引かれた。
助手席から引き寄せられ、抱きしめられる。
「……ほんと無理」
首筋に顔を埋めるようにして、刈谷が掠れた声で言う。
「可愛すぎて理性削られるっての」
「恒一さん……」
名前を呼ぶと、腕の力が強くなる。
「その呼び方、反則」
顔を上げさせられ、唇が重なった。
しばらくして、刈谷は愛香の左手を取った。
親指で手首をなぞる。
「あのミサンガ、まだあるんだよな」
「うん」
愛香は少しだけ迷った。
けれど、ゆっくりと頷く。
「……見せるね」
バッグの中から、小さなポーチを取り出す。
大事にしまっていたそれを開くと、少し色あせた赤と黒のミサンガが現れた。
細い糸で編まれた、どこか不器用な結び目。
中学二年の秋。
団地のベンチで、照れくさそうに渡されたあの日のまま。
「……ほんとに持ってたんだな」
刈谷の声が、少しだけ低くなる。
愛香はそっと手首に当ててみる。
「ずっと捨てられなかった」
それは物じゃなくて、気持ちだったから。
刈谷は何も言わず、そのミサンガを指先で触れた。
まるで壊れものを扱うみたいに、やさしく。
「これ渡したときのこと、覚えてるか」
「うん」
「願い事、言わずに結んだよな」
「恥ずかしかったから」
「俺も」
少し笑い合う。
けれどそのあと、刈谷がぽつりとこぼした。
「また会いてぇ、って思ってた」
昔と同じ答え。
愛香の目がじんわり熱くなる。
「私も」
「何を」
「先輩と、また会えますようにって」
数秒、沈黙が落ちる。
次の瞬間、強く抱きしめられた。
「……もうだめだわ」
「何が?」
「好きすぎる」
胸の奥がいっぱいになる。
あの日、言えなかった気持ち。
すれ違った時間。
それでも手放せなかった想い。
全部が、ここに繋がっている。
「愛香」
「うん?」
「これから先、何回でも迎え行く」
「雨の日も?」
「晴れの日も」
「仕事で疲れてても?」
「むしろ行く」
「私がわがままでも?」
「今さらだろ」
笑ってしまう。
刈谷は愛香の額にキスを落とした。
「だから、おまえはずっと俺の隣にいろ」
少し不器用で、命令みたいな愛情表現。
でもその奥にある優しさを、もう知っている。
「……はい、恒一さん」
そう答えると、刈谷はくしゃっと笑った。
中学二年の秋。
団地のベンチで結ばれた一本のミサンガ。
ほどけなかったのは、糸じゃなくて――
二人の願いだった。
遠回りしながら、それでも確かに辿り着いた。
彼の隣で、笑う未来に。
~完~




