番外編 静かな喧嘩
同棲を始めて、一か月が過ぎた頃。
それは、ほんの些細なことから始まった。
その日、白石愛香は少しだけ帰りが遅くなった。
会社を出たのは、二十一時を回った頃だった。
スマートフォンを見ると、黒崎からのメッセージが一件届いている。
**もうすぐ帰りますか。**
短い一文。
いつも通り、余計な言葉のない連絡だった。
**少し遅くなるね**
そう返したきり、やり取りは止まっていた。
帰宅すると、部屋の明かりはついていた。
玄関を開けると、静かな気配がある。
キッチンの方から、かすかにコーヒーの香りがした。
「ただいま」
靴を脱ぎながら声をかける。
「おかえりなさい」
リビングから、落ち着いた声が返ってくる。
いつもと同じはずなのに、どこか違う。
そんな感覚が、胸の奥に引っかかった。
ソファには黒崎が座っていた。
黒のシャツにラフなパンツ。
膝の上にはノートパソコンを置き、画面に目を落としたまま視線を上げない。
「遅くなってごめんね」
コートをハンガーにかけながら言う。
「問題ありません」
短い返答。
その言い方に、わずかな距離を感じた。
「今日、ちょっと仕事長引いちゃって」
言い訳のように言葉を足す。
「聞いてます」
「え?」
「グループチャットに、まだ残っていると書いてありました」
そこで初めて、黒崎が顔を上げた。
静かな目。
「それ、見てたんだ」
「はい」
それだけだった。
会話が続かない。
愛香は小さく息を吐き、キッチンへ向かう。
何か話した方がいいのに、言葉が見つからない。
冷蔵庫を開けながら、背中越しに尋ねる。
「ご飯、食べた?」
「食べてません」
「なんで?」
「一緒に食べると思っていたので」
その一言に、胸が少しだけ痛む。
「……先に食べててよかったのに」
「そうですね」
淡々とした返事。
(なんで、こんな空気になるの)
料理を温め、テーブルに並べる。
向かい合って座る。
「いただきます」
小さく言って、箸を取る。
黒崎は静かに食べ始める。
無駄のない動き。いつもと同じ。
それなのに、どこか遠い。
「慧吾くん」
呼びかける。
「はい」
顔は上げない。
「怒ってる?」
少しの沈黙。
それから、ようやく顔が上がる。
「怒っていません」
「嘘」
思わず口にしてしまう。
黒崎の視線が、まっすぐこちらに向く。
「では、何だと思いますか」
静かな問い。
「……わかんないから聞いてるの」
声が少しだけ弱くなる。
黒崎は一度視線を落とし、それから言った。
「予定を、共有してほしかっただけです」
その言葉は、思っていたよりずっと穏やかだった。
「ごめんね。急だったから」
「そういうことではなくて」
言葉が重なる。
「帰りが遅くなるなら、もう少し早く教えてほしかったです」
「ちゃんと連絡したよ?」
「遅くなるとだけです」
その一言に、わずかな苛立ちが混じる。
「それで十分じゃない?」
言った瞬間、しまったと思った。
黒崎の表情が、ほんの少しだけ変わる。
「十分ではありません」
はっきりとした否定。
「どのくらい遅くなるのか」
「誰といるのか」
「どこにいるのか」
淡々と並べられる言葉。
「……そこまで必要?」
思わず口に出る。
その瞬間、空気が静かに張り詰めた。
黒崎はしばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりと口を開く。
「必要です」
その一言が、重く落ちる。
「心配するので」
まっすぐな理由。
けれど、それだけではない気がした。
「……束縛みたい」
ぽつりとこぼれる。
黒崎の手が止まる。
「そう思いますか」
「少しだけ」
静かなやり取り。
けれど、確かにぶつかっていた。
「じゃあ、やめます」
予想外の返答だった。
「え?」
「負担になるなら、やめます」
淡々とした声。
その言い方に、胸が締めつけられる。
「そういうことじゃなくて……」
言葉がうまく出てこない。
黒崎はそれ以上何も言わず、食事を再開した。
その静けさが、かえって苦しい。
(違うのに)
そう思うのに、伝えられない。
食事を終えても、会話は戻らなかった。
---
夜。
ベッドに入っても、少し距離がある。
背中越しに感じる気配。
眠れない。
しばらくして、愛香は小さく声を出した。
「……慧吾くん」
「起きてます」
すぐに返ってくる。
そのことに、少しだけほっとする。
「さっきの」
言葉を探す。
「嫌だったわけじゃない」
正直に言う。
「心配してくれるの、嬉しいし」
少し間を置いて続ける。
「ただ、全部言わなきゃいけないって思うと、少し苦しくて」
静かに、本音を置く。
黒崎はしばらく何も言わなかった。
それから、ゆっくりとこちらを向く。
「……すみません」
「違うよ」
すぐに否定する。
「謝ってほしいわけじゃなくて」
「じゃあ、どうすればいいですか」
その問いは、真剣だった。
愛香は少し考えてから言う。
「大事なことはちゃんと話す」
「でも、全部じゃなくてもいいって思ってほしい」
そして、小さく続ける。
「……信じてほしい」
黒崎の目が、やわらぐ。
「信じてます」
静かに言う。
「だから不安になるんです」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
少しだけ距離が縮まる。
「……重い?」
黒崎が聞く。
「少しだけ」
正直に答える。
「でも」
手を伸ばす。
そっと、黒崎の手に触れる。
「嫌いじゃない」
その瞬間、空気がやわらいだ。
黒崎の手が、わずかに強くなる。
「調整します」
「なにそれ」
思わず笑う。
「仕事みたい」
「得意なので」
そう言いながら、少しだけ距離を詰めてくる。
そのまま、静かに抱き寄せられる。
今度は、やさしい力で。
「……愛香さん」
「うん」
「もう少しだけ、共有してください」
控えめな言い方。
「うん、わかった」
頷くと、黒崎は小さく息を吐いた。
その夜は、いつもより少しだけ近い距離で眠った。
完璧じゃない。
それでも。
ちゃんと、すり合わせていく関係だった。




