第二章 黒崎の視線
「愛香さん、午後の会議資料、確認お願いできますか」
黒崎の声は穏やかだった。
いつも通り、丁寧で、落ち着いていて、隙がない。
けれど愛香は、なぜか背筋がぴんと伸びた。
「あ、うん。今すぐ見るね」
「助かります」
そう言って黒崎は微笑む。
社内の女性たちが見れば「今日も王子様」と騒ぎそうな笑顔だったが、愛香には少しだけ圧を感じた。
刈谷が横で鼻を鳴らす。
「忙しそうだな」
「仕事中なんで」
黒崎がさらりと返す。
その一言に、空気がわずかに張りつめた。
愛香は慌てて両手を振る。
「え、えっと、刈谷先輩、また今度でも……!」
「先輩?」
黒崎が小さく反応する。
しまった、と思った時には遅かった。
刈谷は面白そうに片眉を上げる。
「そう。先輩」
「学生時代の?」
「中学の頃な」
「ずいぶん親しいんですね」
にこやかな声。
でも絶対にこやかじゃない。
愛香は心の中で頭を抱えた。
刈谷はそんな黒崎を見て、口元だけで笑う。
「そっちは?」
「同期です」
「へえ」
短い会話なのに、なぜか火花が見える気がした。
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その後、愛香は自席に戻って資料確認をしながらも、まったく集中できなかった。
刈谷先輩。
本当に、あの刈谷先輩だった。
中学生の頃、兄の友達の中でも特別目立つ存在だった。
怖そうで、派手で、でも時々驚くほど優しい人。
引っ越しの日、ミサンガをくれたあの人。
(なんで今、ここに……)
思い出すたび胸がざわつく。
「愛香さん」
「ひゃっ」
突然声をかけられ、椅子ごと跳ねた。
黒崎が呆れた顔で立っている。
「驚きすぎです」
「ご、ごめん」
「さっきから三回呼びました」
「そんなに?」
「そんなにです」
彼は愛香のデスクに肘をつき、少し身をかがめた。
近い。整った顔が近い。
「そんなに気になります?」
「え?」
「さっきの人」
心臓が跳ねる。
黒崎は視線をまっすぐ合わせてくる。
逃げ道をなくすような見方だった。
「別に、気になるっていうか……昔の知り合いだから、びっくりして」
「ふうん」
納得していない顔だった。
「かっこよかったですもんね」
「え?」
「営業先の担当さん」
その言い方に、愛香はやっと気づく。
「……黒崎くん、もしかして機嫌悪い?」
「悪くないです」
即答。
「いや悪いよ」
「悪くないです」
「怖いって」
黒崎は小さく息をつき、視線を逸らした。
「……愛香さん、そういうとこありますよね」
「どういうとこ?」
「無防備なところ」
意味がわからず首を傾げると、彼はそれ以上何も言わなかった。
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昼休み。
愛香が社員食堂へ向かおうとすると、受付の女性が声をかけてきた。
「愛香さん、来客の方が下で待ってますよ」
「え?」
ロビーへ降りると、刈谷がソファに座ってスマホをいじっていた。
脚が長い。
スーツが似合いすぎていて、周囲の視線を集めている。
愛香に気づくと、ひらひら手を振った。
「遅ぇ」
「待ってたんですか?」
「だからそう言ってんだろ」
「仕事は?」
「終わった」
立ち上がると、その背の高さに改めて驚く。
「行くぞ」
「どこへ」
「飯」
「社員食堂ありますけど」
「そんな味気ねぇとこ嫌だ」
子どもみたいなことを真顔で言う。
愛香は吹き出した。
「変わってないですね」
「おまえもな」
自然と並んで歩き出す。
その背中を、二階の窓から黒崎が見ていたことを、愛香は知らなかった。
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会社近くの定食屋に入ると、刈谷は迷わず日替わり定食を頼んだ。
「先輩、こういう店来るんですね」
「営業やってると詳しくなる」
「もっとおしゃれなカフェとか行くのかと」
「俺がおしゃれなカフェ?」
「似合わないです」
「おまえ失礼だな」
笑いながら言い合えるのが、不思議なくらい自然だった。
十年以上会っていなかったのに。
まるで昨日の続きみたいに。
「おまえ、東京来て何年?」
「高校からだから、もう長いですよ」
「彼氏は」
「えっ」
唐突すぎてむせた。
「なんでそこ聞くんですか!」
「雑談だろ」
「雑すぎます」
刈谷は箸を持ったまま、じっと愛香を見る。
「で?」
「……いません」
「へえ」
「先輩は?」
何気なく聞き返すと、刈谷は少しだけ表情を消した。
「昨日、別れた」
愛香の箸が止まる。
「……え」
「長く付き合ってたけどな」
さらっと言う声。
けれどどこか疲れていた。
「そ、そうだったんですね……」
どんな人だったんだろう。
きっと綺麗で、大人で、先輩に似合う人。
そう思った瞬間、胸の奥がちくりと痛んだ。
刈谷はそんな愛香を見て、ふっと笑う。
「なんだその顔」
「してません」
「してる」
「してません!」
言い返すと、先輩は楽しそうに笑った。
その笑顔に、また心臓がうるさくなる。
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昼休みの終わり、会社の前まで送ってもらう。
「また来週、打ち合わせある」
「そうなんですね」
「昼、空けとけ」
「命令ですか?」
「お願い」
少しだけ低くなった声に、愛香は言葉を失った。
昔は知らなかった。
この人がこんなふうに、大人の男の顔をするなんて。
「……予定、確認しときます」
それが精一杯だった。
刈谷は満足そうに笑い、手を上げて去っていく。
会社へ戻ると、エレベーター前に黒崎が立っていた。
壁にもたれて腕を組み、無表情で。
「……黒崎くん?」
「ランチ、楽しかったですか」
静かな声だった。
でもその目に、見たことのない熱が宿っていた。




