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第一章 再会

四月の朝は、まだ少しだけ冷たい。


通勤ラッシュの電車を降り、愛香は駅から会社までの道を早足で歩いていた。

春物のベージュのトレンチコートの裾が、風に揺れる。


昨夜寝るのが遅かったせいで、頭は少しぼんやりしていた。


「やば、五分前……」


スマホの時計を見て、小さくつぶやく。


信号待ちのガラスに、自分の姿が映る。


落ち着いた茶色のミディアムヘア。

毛先はやわらかく揺れて、ところどころ寝ぐせが残っている。

前髪の隙間からのぞく額に、無意識に指先を当てて整える。


緊張すると、つい触れてしまう癖。


白い肌は少し青く見える。

それでも頬に乗せた淡いチークが、かろうじて血色をつないでいた。


(大丈夫……)


誰に聞かせるでもない、小さな確認。


---


会社のビルに入り、エレベーターに乗り込む。


八階で扉が開く。


「おはようございます!」


営業部と管理部が混在するフロアには、すでに人の気配が満ちていた。

電話のベル、キーボードの音、コピー機の駆動音。


そのざわめきの中に入ると、少しだけ呼吸が整う。


ここは、自分の居場所だと感じられるから。


「おはよう、愛香さん」


振り向くと、黒崎がコーヒー片手に立っていた。


黒髪はきちんと整えられ、前髪は目元にかかる絶妙な長さ。

シンプルなシャツに黒のジャケット。余計なものは一切ない。


無駄を削ぎ落としたような佇まい。


視線は穏やかで、どこか一歩引いている。

相手を見ているのに、踏み込まない距離感。


「黒崎くん、今日も早いね」


「愛香さんがギリギリなだけです」


「うっ」


さらっと刺す。

けれど声に棘はない。


黒崎は軽く笑いながら、彼女の机に書類を置いた。


「十時から営業二課の取引先打ち合わせ。資料、英語版も用意してあります」


「えっ、神……!」


思わず手を合わせる。

その仕草は少し大げさで、けれど素直だった。


「昨日言いましたよ」


「言ってた?」


「聞いてないですね」


呆れたように言いながらも、声はやわらかい。


「黒崎くんが同期でよかったー!」


屈託なく笑う。


その笑顔は無防備で、

見ている側が少し目を逸らしたくなるくらい、まっすぐだった。


黒崎は一瞬だけ視線を外す。


「……どういたしまして」


短く返す。


その声の奥にあるものには、まだ誰も気づかない。


---


十時少し前。


会議室の準備を終え、資料を並べる。


袖が少し長く、手元にかかる。

それを軽く直しながら、深呼吸する。


「愛香さん、今日の担当先、かなりやり手らしいよ」


営業部の先輩が顔を出す。


「若いのに成績トップだって」


「へえ、すごいですね」


「しかもイケメンって噂」


「それ大事ですか?」


「大事」


言い切られて、思わず笑う。


そのとき。


コンコン、とドアがノックされる。


「失礼します」


低く、落ち着いた声。


顔を上げる。


時間が止まる。


背の高い男が、スーツ姿で立っていた。


すらりとした体格。

無造作に整えられた薄茶の髪。

真面目な装いの中に、どこか力の抜けた余裕がある。


隙があるのに、崩れない。


その存在だけで空気が変わる。


その横顔を、愛香は知っていた。


「……刈谷、先輩?」


男の目が、ゆっくりとこちらを向く。


一瞬だけ鋭く、次の瞬間、やわらぐ。


「……愛香?」


名前を呼ばれた瞬間、胸が強く鳴る。


中学二年の秋。

団地のベンチ。

夕焼け。

ミサンガ。


記憶が、一気に押し寄せる。


思わず耳元の髪に触れる。

あの頃と同じ、無意識の仕草。


「え、なんで……」


「それ、こっちのセリフだろ」


刈谷は軽く笑う。


口元だけで笑うその癖。

少しだけ意地の悪そうな、でもどこか優しい笑い方。


昔と変わらない。


「久しぶりだな」


「わ、私、ここで働いてて……」


「はっ、見りゃわかる」


「ですよね」


頭が追いつかない。


会議室の空気が、急に狭くなる。


---


「失礼します。追加資料――」


黒崎が入ってくる。


視線が刈谷に止まる。


一瞬で測るような目。


そして次に、動揺している愛香を見る。


「……お知り合いですか?」


穏やかな声。


けれど、わずかに温度が低い。


「えっと、昔……地元の先輩で」


「へえ」


黒崎はにこやかに笑う。


表情は完璧だった。


ただ、その笑みはどこか遠い。


刈谷はそれを一瞥する。


視線が交差する。


刈谷は一歩も引かない。

黒崎は一歩も踏み込まない。


静かな均衡。


「愛香、あとで少し話せる?」


距離を自然に詰める声音。


名前を呼ばれる。


それだけで、感覚が過去に引き戻される。


「……はい」


小さく答える。


刈谷は満足そうに笑った。


そのやり取りを、黒崎は黙って見ていた。


何も言わない。


ただ、視線だけが少し深くなる。


---


打ち合わせは無事に終わった。


けれど内容は、ほとんど残っていない。


会議室を出ると、窓際に刈谷が立っていた。


振り向く。


「仕事中に悪い」


「い、いえ」


近くで見ると、さらにわかる。


余裕のある立ち方。

力の抜けた肩。

視線の流し方。


すべてが自然で、作っていない。


「元気だったか」


その言葉が、思ったより優しくて。


胸の奥が揺れる。


「……はい」


「そっか」


刈谷は短く笑う。


「おまえ、変わんねぇな」


「どこがですか」


「顔に全部出るとこ」


思わず頬をふくらませる。


その反応に、刈谷は楽しそうに笑う。


変わっていない距離。


「昼、空いてる?」


「え?」


「メシ行こうぜ。積もる話あるだろ」


迷いのない誘い方。


断られる前提がない。


そのとき。


「愛香さん、午後の会議資料、確認お願いできますか」


振り向く。


黒崎が立っていた。


姿勢は変わらない。

声も穏やか。


けれど、視線だけが違う。


静かに、離さない。


刈谷と黒崎。


熱と静けさ。


踏み込む男と、見極める男。


まったく違う二人の視線が、交差する。


愛香は息をのむ。


春の朝のはずなのに。


胸の奥だけが、静かに熱を帯びていた。

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