ifルート★黒崎慧吾編 第九章
月曜日。
白石愛香が出社すると、フロアの空気がいつもより少し浮ついていた。
「営業部にすごい人来てるらしいよ」
「モデルみたいだった」
「背高くて、茶髪で……」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
嫌な予感が、ゆっくりと輪郭を持つ。
「白石、いる?」
受付の方から低い声が響いた。
愛香の肩が小さく揺れる。
ゆっくり振り向いた先にいたのは――
刈谷恒一。
長身のスーツ姿。
ピンストライプのジャケットを軽く着崩し、水色のシャツが覗く。
薄茶の髪は柔らかく流れ、どこか無造作なのに隙がない。
片手にはいつものアメリカンコーヒー。
そして――今日は、いつも以上に“近い”。
「先輩……!」
思わず声が弾む。
その反応に、周囲が一斉にざわめいた。
「誰あの人」
「白石さん知り合い!?」
「ドラマじゃん」
刈谷はまっすぐ愛香の前まで来る。
迷いがない。
距離の詰め方が、昔と同じで――今はもっと大人だ。
「昼、空いてる?」
「え、今日?」
「今聞いてんの」
軽い調子。
でも、逃げ場はない。
愛香が困っていると、背後から静かな声が落ちる。
「白石さんは午後一で会議です」
振り向く。
黒崎慧吾。
黒のジャケットに白いTシャツ。
無駄のないシルエット。
整えられた黒髪と、感情を抑えたままの瞳。
資料を持ったまま、自然に二人の間へ入る。
その動きが、静かに“遮っていた”。
刈谷が口元を上げる。
「おまえ、いると思った」
「仕事中なので」
「俺も仕事中」
「そうは見えません」
「失礼だな」
言葉は軽い。
けれど、視線はぶつかっている。
愛香だけが、その間で息を詰めていた。
昼休み。
給湯室では千鶴と望が小声で盛り上がっていた。
「来たわね……大型ライバル」
「顔面偏差値高すぎて腹立つな」
「でも私は慧吾派」
「俺も。あいつ今日、静かにキレてる」
「危険ね」
そこへ、当の黒崎がブラックコーヒーを取りに来る。
無駄のない動き。
静かな背中。
二人の視線が集まる。
「……何ですか」
千鶴が真顔で言う。
「取られんなよ」
数秒の沈黙。
黒崎はコーヒーを一口飲んでから、淡々と答えた。
「取られません」
声は静かだった。
それなのに、妙に温度が低い。
夕方。
仕事を終えて外に出ると、愛香は思わず足を止めた。
入口の横。
壁にもたれている男。
ネクタイを少し緩めた刈谷。
長い脚を組み、片手にスマホ。
それだけで、周囲の視線を集めている。
「先輩!?まだいたの?」
「待ってた」
「なんで」
「飯」
あまりにも自然すぎる。
そこへ、もう一人の気配。
「お疲れさまです」
振り向くと、黒崎がいた。
黒のコートを羽織り、夜の空気に溶けるように立っている。
整った静けさ。
(……なんでこうなるの)
「白石、行くぞ」
「行きません」
間髪入れずに黒崎が言う。
「本人に聞いてねぇよ」
「聞く必要ありますか。困ってます」
「代弁すんな」
「事実です」
視線がぶつかる。
今度は、はっきりと。
通行人が足を緩める。
「ちょ、ちょっと二人とも……!」
刈谷が先に愛香を見る。
「白石、おまえどうしたい?」
まっすぐな目。
逃げられない。
次に黒崎を見る。
こちらも何も言わず、ただ待っている。
(選べってこと……?)
心臓がうるさい。
「……三人でご飯行く?」
沈黙。
刈谷が吹き出す。
黒崎は額に手を当てた。
「白石さんらしいですね」
「平和的でしょ!」
「全然」
結局、近くの居酒屋へ。
席順は最悪だった。
右に刈谷。
左に黒崎。
逃げ場がない。
「何飲む?」
刈谷が自然に聞く。
「カフェラテ……はないか」
「あるわけねぇだろ」
笑われる。
その隙に、黒崎が店員に告げる。
「彼女に甘めのカクテルお願いします」
「なんで知ってるの」
「知ってます」
淡々とした声。
でも、その言葉にだけ温度がある。
刈谷がにやりとする。
「ずいぶん把握してんじゃん」
黒崎は少しも揺れずに言った。
「彼氏なので」
空気が止まる。
愛香の呼吸も止まる。
刈谷の笑みが消えた。
「……へえ」
低い声。
「そうなんだ」
空気が変わる。
刈谷はグラスを傾けながら、愛香を見る。
「本気?」
「え?」
「こいつのこと」
答えられない。
その瞬間。
テーブルの下で、指先に触れるものがあった。
黒崎の手。
そっと、でも確かに絡めてくる。
顔は前を向いたまま。
表情も変わらない。
(な、なにこれ……)
心臓が一気に速くなる。
「答えなくていいです」
静かな声。
「おまえ余裕あるな」
「ないです」
即答。
「かなり」
思わず笑いそうになる。
食事のあと。
外に出ると、夜風が冷たかった。
刈谷が愛香を呼ぶ。
「白石」
「うん」
少しの沈黙。
「遅かったな、俺」
胸がきゅっと締まる。
刈谷は笑った。
ほんの少しだけ、寂しそうに。
「でもまだ諦める気はない」
その言葉が、まっすぐ刺さる。
「おまえが幸せなら引く」
一拍置いて。
「そうじゃないなら奪う」
そして黒崎を見る。
「守れよ」
それだけ言って、背を向けた。
長い脚で、迷わず去っていく。
静かな道。
「……強すぎます」
隣で黒崎が小さく息を吐く。
「え?」
「先輩」
珍しい弱音。
思わず笑ってしまう。
「慧吾くんでもそう思うんだ」
「かなり」
その言い方に、少し安心する。
でも次の言葉で、また心臓が跳ねる。
「だから、もっと好きにさせてください」
「……もう十分好きだけど」
「俺が足りません」
そう言って、手を握る。
今度は、はっきりと。
離さないように。
胸の奥が、また揺れる。
元ヤン先輩は、本気で奪いに来た。
その強さに押されるほど、
静かな彼の想いは、深くなる。
そして愛香の心も、
確実に、ほどけていく。




