ifルート★黒崎慧吾編 第五章
次の土曜日までの一週間。
白石愛香は、人生でいちばんスマートフォンを見ていた。
**おはようございます。今日は雨です。**
**昼、ちゃんと食べましたか。**
**会議長引いてます。眠いです。**
黒崎慧吾から届くメッセージは、相変わらず簡潔だった。
けれど、その短い文の中には、以前はなかった温度がある。
そして毎晩、最後には必ず同じ一文が届いた。
**土曜、楽しみにしてます。**
そのたびに、愛香は枕に顔を埋めていた。
待ち合わせは、駅前のショッピングモールだった。
慧吾は今日も、時間ぴったりに現れた。
グレーのニットに、黒のコート。
いつも通りシンプルで、余計なものがない。
それなのに、どうしてこんなに格好よく見えるのか、愛香には少し意味がわからなかった。
「こんにちは」
「こ、こんにちは」
「また顔赤いです」
「寒いだけ!」
「今日は暖かいです」
即論破だった。
「今日は映画を見ませんか」
「いいね!」
「その前に、少し歩きたいです」
「うん」
そう言って、二人は並んで歩き出す。
人通りの多い通路。
すぐ横に、慧吾の肩がある。
(手、つなぐって言ってたよね……)
意識した瞬間、変に緊張してしまう。
すると、慧吾が小さく息を吐いた。
「白石さん」
「な、なに」
「手」
それだけ言って、右手を差し出してくる。
大きくて、きれいな指。
愛香は少し迷ってから、そっと自分の手を重ねた。
次の瞬間、包み込むように握られる。
「……っ」
「嫌でした?」
「嫌じゃない……」
「ならよかったです」
無表情のまま前を見る慧吾。
けれど、耳だけが少し赤い。
愛香はそれを見て、胸の奥がきゅっとした。
映画館までの道。
手をつないで歩くだけなのに、世界が全部違って見えた。
人混みでも離れない。
エスカレーターでは自然に一歩前に立ってくれる。
段差では、ほんの少しだけ手に力がこもる。
(やさしい……)
「どうしました」
「なんでもない」
「さっきからずっと見てます」
「見てない!」
「見てます」
口元が、ほんの少しだけ笑っている。
最近わかってきた。
慧吾は案外、意地悪だ。
映画は恋愛ものだった。
クライマックスでヒロインが涙を流す場面に、愛香も少しだけうるっとしてしまう。
館内が明るくなったとき、隣からティッシュが差し出された。
「使いますか」
「……なんで持ってるの」
「白石さん、泣きそうだったので」
「途中で気づいてたの!?」
「開始四十分で」
「早いよ!」
慧吾は静かに笑った。
その笑顔は、会社で見るものよりずっとやわらかかった。
映画のあと、カフェへ入った。
愛香はカフェラテ。
慧吾はブラック。
「やっぱり変わらないね」
「信念です」
「大げさ」
カップを持ち上げた慧吾が、ふと真面目な顔になる。
「白石さん」
「うん?」
「今日、確認したいことがあります」
どきりとした。
「な、なに?」
「俺たち、今どういう関係ですか」
「えっ」
あまりにもまっすぐだった。
「えっと……その……」
「毎週会って、毎日連絡して、手をつないでいます」
「う、うん」
「でも、言葉にしていないので」
逃げ道を塞ぐように、静かな視線が向けられる。
愛香の胸が、少しずつ速くなる。
慧吾は、一度だけ視線を落とした。
「昔、好きだった人がいました」
突然の言葉に、愛香は息を止める。
「明るくて、誰にでも笑う人でした。けれど、その人が困っていることに気づいていたのに、俺は何も言えませんでした」
慧吾の声は落ち着いていた。
けれど、その奥にある痛みだけは隠しきれていなかった。
「好きだとも、助けたいとも、言えなかった。正しい距離を保つことが、そのときの自分には一番安全だと思っていました」
愛香は何も言わずに聞いていた。
「結果として、その人はいなくなりました。転校して、それきりです」
慧吾の指が、ブラックコーヒーのカップに触れる。
「だから、待つのはやめました」
静かな言葉だった。
「今度は、ちゃんと言います」
顔を上げる。
まっすぐな目。
「俺は、白石さんのことが好きです」
息が止まりそうになる。
「かなり」
「……慧吾くん」
「なので、ちゃんと付き合ってください」
カフェのざわめきが遠くなる。
こんなに落ち着いた声なのに。
こんなに静かな告白なのに。
胸の奥が、どうしようもなく揺れる。
愛香は頬を熱くしながら、小さく笑った。
「それ、こっちのセリフかと思ってた」
「……はい?」
「私も好きだよ」
慧吾の目が、初めてわかりやすく見開かれる。
「だから……お願いします」
数秒、完全に止まっていた。
やがて彼は顔を伏せ、額に手を当てる。
「……無理」
「え!?」
「嬉しすぎて、今ちょっと無理です」
愛香は思わず吹き出した。
店を出たあと、夕方の歩道橋の上で風が吹いた。
慧吾が立ち止まり、愛香を見る。
「彼女、って呼んでいいんですよね」
「なにその確認」
「大事です」
「……うん」
「じゃあ」
一歩近づく。
「愛香さん」
名前で呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
「っ……急にずるい」
「これからそうします」
「慣れない……」
「俺もです」
そう言って、つないだ手を少し強く握る。
「でも、慣れていきます」
夕陽の中で見る慧吾の笑顔は、驚くほどやさしかった。
その夜。
帰宅した愛香のスマートフォンに、メッセージが届いた。
**今日はありがとうございました。**
そのすぐあとに、もう一通。
**彼氏になれて、かなり嬉しいです。**
愛香は顔を真っ赤にして、枕へ倒れ込んだ。
(かなりって何……!)
けれど、その不器用な言い方が、たまらなく愛しかった。
手をつないだら、もう戻れない。
言えなかった過去を越えて、ちゃんと言葉にして始まる恋もある。
愛香はその日、初めて知った。




