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ifルート★黒崎慧吾編 第三章

資料室事件のあと。


白石愛香は午後の業務中、まったく集中できなかった。


数字を入力してもミス。

メール文面を読み返しても頭に入らない。


理由はもちろん、黒崎慧吾だ。


**「俺、いい人やめてもいいですか」**


**「途中で先輩来ても渡しません」**


思い出すたび、心臓が忙しい。


(なんなのもう……)


いつも静かで淡々としている人が、あんなふうに迫ってくるなんて反則だ。


---


「白石さん」


また声がして肩が跳ねる。


振り向くと、慧吾が書類を持って立っていた。


「この見積り、確認お願いします」


「は、はい!」


受け取る時に指先が触れそうになって、愛香は慌てて手を引っ込める。


慧吾は少しだけ目を細めた。


「避けました?」


「ち、違うよ!」


「そうですか」


淡々としている。

なのに口元だけ少し楽しそうだ。


(絶対わざと……!)


---


終業時間。


愛香が帰り支度をしていると、森下千鶴が背後からひそひそ声で囁いた。


「で、今日一緒に帰るの?」


「な、なんで知ってるんですか」


「顔に書いてある」


「書いてません!」


「資料室であんな空気出しといて?」


愛香は机に突っ伏したくなった。


千鶴はにやにやしながら背中を叩く。


「行ってきな。あの男、今日は本気よ」


「本気って……」


「ブラックしか飲まない男が、さっき自販機でカフェラテ見てた」


「えっ」


「重症」


---


会社を出ると、入口横に慧吾が立っていた。


片手にブラックコーヒー。

もう片方には——カフェラテ。


「はい」


差し出される。


「え、私の?」


「他に誰が」


「……ありがとう」


受け取ると、まだ温かい。


慧吾は何でもない顔で歩き出した。


「行きましょう」


「待って」


「なんですか」


「それ、私が好きなの覚えてたんだ」


足が止まる。


振り向いた慧吾の耳が、少し赤い。


「……有名です」


「私、そんなに飲んでる?」


「毎日です」


見てたんだ。


その事実だけで、胸が甘くなる。


---


駅までの道。


二人並んで歩くのは、会社帰りなのに少し特別だった。


愛香はカフェラテを両手で持ちながら尋ねる。


「慧吾くんって、なんでそんなに何でも覚えてるの?」


「仕事柄です」


「嘘」


「……白石さんのことだけです」


立ち止まりそうになる。


「そ、そういうの急に言うのやめて」


「本当なので」


「心臓に悪い」


慧吾は少し笑った。


その笑顔は珍しくて、愛香ばかり損している気がする。


---


駅前の信号待ち。


人混みの中、すぐ隣にいる慧吾の肩が近い。


ふと、向こう側の歩道に背の高い男性が見えた。


薄茶の髪。

アメリカンコーヒー片手。


「……先輩?」


刈谷恒一だった。


こちらに気づいた刈谷が、にやっと笑って手を上げる。


「よう」


愛香が反射的に手を振り返そうとした、その瞬間。


ぐい、と腕を引かれた。


「えっ」


信号が青に変わり、人の流れに乗るように慧吾が愛香の手首を引いて歩き出す。


「慧吾くん!?」


「今、見なくていいです」


「でも先輩が」


「知ってます」


声は静かだった。


けれど、握る手は少し強い。


---


人気の少ない路地に入ったところで、ようやく足が止まる。


愛香はどきどきしながら慧吾を見る。


「どうしたの?」


「……すみません」


手を離し、少し視線を落とす。


「子どもみたいなことしました」


「嫉妬したの?」


数秒の沈黙。


そして慧吾は、観念したように言った。


「かなり」


その正直さに、愛香は笑ってしまう。


「笑わないでください」


「だって、慧吾くんでもそうなるんだ」


「なります」


一歩近づいてくる。


「白石さんが、他の男に名前呼ばれて嬉しそうにすると」


鼓動が跳ねる。


「俺、余裕なくなります」


近い。

低い声。

逃げられない。


「……どうしたらいい?」


愛香が小さく聞くと、慧吾は少しだけ目を伏せた。


「簡単です」


そして、愛香の持っていたカフェラテをそっと受け取り、脇のベンチに置く。


次の瞬間、肩を引き寄せられた。


ふわっと包まれるような抱擁。


でも腕の力はしっかり強い。


「こうしててください」


耳元で囁かれる。


「今だけ」


愛香の顔が一気に熱くなる。


「け、慧吾くん……外……」


「知ってます」


「人来るかも」


「来たら離します」


「来なかったら?」


少しだけ間があいて。


「……離したくないです」


もうだめだった。


こんなの、好きになるしかない。


---


しばらくして離れた時、慧吾はいつもの無表情に戻っていた。


ただし耳だけ赤い。


愛香はそれを見て笑う。


「慧吾くん」


「なんですか」


「ブラックしか飲まない人なのに、甘いね」


初めて、慧吾がはっきり照れた。


「……それ、森下先輩にも言われました」


愛香は声を立てて笑った。


---


駅のホームで別れる前。


慧吾が静かに言う。


「次は、休日に会ってください」


「うん」


「できれば、先輩が来なさそうな場所で」


また笑ってしまう。


「考えとく」


電車が来る。


乗り込む直前、愛香は振り返った。


「慧吾くん」


「はい」


「今日、すごく嬉しかった」


慧吾は少し目を見開き、やがて柔らかく笑った。


「……それは、よかったです」


扉が閉まる。


電車が動き出しても、彼はずっとホームに立っていた。


---


カフェラテ一杯分。


そのくらいの甘さで、

二人の距離は確かに近づいていた。

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