ifルート★黒崎慧吾編 第二章
月曜の朝。
白石愛香は、出社してからずっと落ち着かなかった。
理由は一つ。
昨日の慧吾とのランチ。
そして、その途中で現れた刈谷先輩。
さらに最後に言われた言葉。
**「俺、負ける気ないので」**
思い出すだけで顔が熱い。
「白石さん」
背後から声がして、愛香はびくっと肩を揺らした。
振り返ると、そこにはいつもの無表情な黒崎慧吾。
「おはようございます」
「お、おはよう……!」
何事もなかったように席へ向かう姿が逆にずるい。
昨日あんなこと言ったのに。
どうして平然としていられるの。
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午前中。
愛香は入力作業をしながら、何度も慧吾の方を見てしまっていた。
真剣な横顔。
指先のきれいなタイピング。
ブラックコーヒーを飲む仕草。
(なんか今日、余計に格好よく見える……)
「白石さん」
「ひゃっ」
また声が出た。
慧吾が隣に立っていた。
「この数値、桁違ってます」
画面を指差される。
「あ……!」
「落ち着いてください」
低い声で淡々と言われる。
「す、すみません」
「昨日から変です」
耳まで熱くなった。
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昼休み。
給湯室でカフェラテを入れていると、森下千鶴がにやにやしながら現れた。
「ねえ、昨日どうだった?」
「えっ、何がですか」
「黒崎慧吾とのランチよ」
「なんで知ってるんですか!?」
「世の中には情報網ってものがあるの」
たぶん佐々木望経由だ。
千鶴は肩を組んできた。
「で?告白された?」
「されてません!」
「時間の問題ね」
「ち、違いますって」
そこへ、タイミング悪く慧吾本人が入ってきた。
ブラックコーヒー片手に、無言で二人を見る。
千鶴は満面の笑みで手を振った。
「おはよ、慧吾。昨日どうだった?」
「普通です」
「嘘つけ」
「仕事戻ります」
そのまま出ていく背中を見て、千鶴が小声で言う。
「……あれ、機嫌悪いわね」
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午後。
営業部から刈谷先輩が来社した。
スーツ姿で現れた瞬間、女性社員がざわつく。
「うわ、誰あの人」
「モデルみたい」
愛香は思わず立ち上がった。
「先輩!」
刈谷はアメリカンコーヒー片手に笑う。
「よう、白石」
その呼び方だけで胸がくすぐったい。
「また来たんですか」
「仕事。……半分は」
「半分?」
「おまえ見るため」
さらっと言われ、愛香は固まる。
近くで聞いていた千鶴が小さく口笛を吹いた。
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ふと視線を感じる。
見ると、慧吾がデスク越しにこちらを見ていた。
表情はいつも通り。
なのに、妙に冷たい。
そのまま何も言わず席を立ち、資料室へ入っていく。
「……慧吾くん?」
気になって、愛香はあとを追った。
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資料室。
ドアを閉めると、静かな空間に紙の匂いが満ちていた。
棚の前に立つ慧吾の背中。
「慧吾くん?」
振り向いた彼の顔は、やっぱり無表情だった。
「何か用ですか」
「え、なんか怒ってる?」
「怒ってません」
「絶対怒ってる」
「怒ってません」
近づくと、一歩下がられる。
それが逆に寂しくて、愛香は思わず袖をつかんだ。
「……何か言って」
その瞬間。
慧吾の視線が落ちる。
袖をつかむ愛香の手へ。
そして次の瞬間、手首をそっと取られた。
「白石さん」
低い声だった。
「俺、いい人やめてもいいですか」
心臓が跳ねる。
「え……?」
気づけば背中が棚に触れていた。
逃げ道を塞ぐように、慧吾が目の前にいる。
でも触れているのは手首だけ。
それが逆に危ない。
「先輩には、そういう顔するんですね」
「どういう顔……?」
「嬉しそうな顔です」
言葉の端が少しだけ熱を帯びる。
「俺にもしてほしい」
愛香の呼吸が止まりそうになる。
「慧吾くん……」
「ずっと待ってました」
初めて見る表情だった。
静かな人が、必死に感情を押さえている顔。
「でも、もう待つのやめます」
そう言って、愛香の頬に指先が触れる。
やさしいのに、逃げられない。
「今日、仕事終わったら一緒に帰ってください」
「……うん」
「途中で先輩来ても渡しません」
思わず吹き出す。
「何それ」
「本気です」
真顔だった。
そのギャップに胸が鳴る。
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ドアの外から、がたん、と音がした。
二人同時に振り向く。
勢いよく扉が開く。
「ごめーん、資料取りに……って」
森下千鶴だった。
状況を見て固まる。
棚際の愛香。
至近距離の慧吾。
数秒の沈黙。
千鶴がゆっくりドアを閉めた。
「続けて」
「違います!!」
愛香の叫び声が資料室に響いた。
その横で、慧吾だけが少し笑っていた。
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その日、愛香は知った。
静かな男は、嫉妬すると危ない。
そして――とてもずるい。




