番外編 森下千鶴、黒崎慧吾にキレる夜
「……で?」
森下千鶴はジョッキを置いた。
仕事終わりの居酒屋。
金曜夜。会社員たちのざわめきの中、向かいに座る黒崎慧吾はいつもの無表情でブラックウーロン茶を飲んでいる。
その隣では佐々木望が枝豆をつまみながら面白そうに笑っていた。
「で、って何ですか」
慧吾は淡々と返す。
千鶴のこめかみに青筋が浮いた。
「白石愛香ちゃんを駅まで送って、コンビニでカフェラテ買ってあげて、“気をつけて帰ってください”って言って解散した話の続きよ!!」
「以上です」
「以上じゃないのよ!!」
店員が一瞬こちらを見る。
望が吹き出した。
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千鶴は愛香の直属の先輩である。
面倒見がよく、仕事もできる。恋愛にも勘がいい。
そして一か月前から、ある事実に気づいていた。
黒崎慧吾は、白石愛香のことが好きだ。
わかりやすすぎるくらい好きだ。
愛香が残業すれば自然に残る。
愛香のパソコン不調は秒速で直す。
愛香がくしゃみをすれば暖房温度を上げる。
愛香がカフェラテ好きなのも把握済み。
なのに。
「なんで告白しないの!?」
千鶴が机を叩く勢いで身を乗り出す。
慧吾は枝豆を一つ取り、静かに答えた。
「タイミングを見ています」
「そのタイミング、定年後?」
望が横から口を挟む。
「慎重なんだよな、こいつ」
「慎重のレベル越えてるのよ。化石よ化石」
「ひどいですね」
「事実よ」
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望がレモンサワーを飲みながら笑う。
「でも黒崎、おまえ白石ちゃんのこと好きなのバレバレだぞ」
「そうですか」
「そうですか、じゃない!」
千鶴は再び声を張る。
「この前だって、愛香ちゃんが営業部の新人にコピー機教えてたら、ものすごい無表情で見てたじゃない」
「見てません」
「見てた」
「見てたな」
望まで頷く。
慧吾は少しだけ眉を寄せた。
「……仕事の導線確認です」
「嫉妬をそんな言い方する人初めて見た」
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千鶴はジョッキを持ち上げ、一気に飲んだ。
「いい?愛香ちゃんは可愛いの。やさしいの。天然なの。放っておいたら変な男に持ってかれるの」
その瞬間、慧吾の手が止まる。
「変な男」
「そう。たとえば営業先のイケメンとか、学生時代の元ヤン先輩とか、背高い色気ある男とか」
慧吾の目がすっと細くなった。
望が吹き出す。
「わかりやすっ」
「……別に」
「別にじゃないでしょ」
千鶴は勝負をかけるように言った。
「もし明日、そういう男が現れて愛香ちゃんを迎えに来たらどうするの?」
沈黙。
慧吾はグラスを置いた。
「……嫌です」
「よし来た!!」
千鶴が拍手した。
「その感情よ!それ恋愛よ!」
「知ってます」
「じゃあ動け!!」
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望がにやにやしながら口を開く。
「黒崎、おまえさ。白石ちゃんに優しくするのは得意だけど、迫るのは無理だろ」
「無理ではありません」
「証明して」
「今ここで?」
「今じゃねぇよ!」
千鶴が突っ込む。
「たとえば来週、二人で飯誘うとか」
「業務後に?」
「業務後に」
「自然な流れで?」
「もう不自然でもいいわ!」
望が笑いすぎて肩を震わせている。
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慧吾は少し黙り込んだ。
普段冷静な男が珍しく考え込んでいる。
「……もし、断られたら」
その小さな声に、千鶴は一瞬だけ表情をやわらげた。
「あんた、怖いのね」
「……はい」
望も笑うのをやめた。
「白石ちゃんとの今の距離、壊したくないんだろ」
慧吾は答えない。
でも、それが答えだった。
千鶴はため息をつく。
「ほんと不器用」
そしてテーブル越しに指をさす。
「でもね、言わなきゃ始まらないの。優しさって、伝えなきゃただの便利な人になるのよ」
慧吾の目が揺れた。
その言葉は刺さったらしい。
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店を出る頃には夜風が少し冷たかった。
駅前で三人が立ち止まる。
「で、どうすんの」
千鶴が聞く。
慧吾はスマホを取り出した。
画面には、白石愛香のトーク画面。
少しだけ息を吐き、打ち込む。
**明日、もし予定なければランチ行きませんか。**
送信。
千鶴と望が同時にのぞき込む。
「送った!」
「おお、革命だ」
数秒後、返信が来る。
**行きたいです!カフェラテ飲めるお店だと嬉しいです**
慧吾の耳が少し赤くなった。
千鶴は空を仰ぐ。
「やっとここまで来た……」
望が肩を叩く。
「よかったな、保護者」
「まだよ」
千鶴は鋭く言った。
「ここからよ、慧吾」
慧吾が顔を上げる。
「次はちゃんと、好きって言いなさい」
静かな夜の駅前で。
黒崎慧吾は珍しく、少しだけ笑った。
「……努力します」
千鶴は即答した。
「努力じゃない。実行」
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その頃、何も知らない愛香はベッドの上でスマホを抱きしめていた。
「慧吾くんとランチ……!」
頬を赤くしながら。
恋はまだ、誰にも見えないところで動き始めていた。




