番外編 恋だと気づいた日(先輩視点)
愛香と再会した日。
最初は、本当にただ懐かしかっただけだ。
取引先の受付に立っていた女性が、こちらを見て目を丸くした。
白い肌。
やわらかく揺れる、落ち着いた茶色のミディアムヘア。
少し大人びた輪郭なのに、目元だけが昔のまま無防備で。
一瞬でわかった。
「……愛香?」
名前を呼ぶと、彼女は数秒止まってから、ぱっと表情を明るくした。
「刈谷先輩!?」
その声で、記憶が一気に戻る。
団地の階段。
夕焼け。
細い腕に結んだミサンガ。
泣きそうな顔で、それでも必死に笑っていたあの子。
目の前にいるのは、同じ面影を残したまま、ちゃんと自分で立っている女だった。
「久しぶりだな」
そう言ったときは、本当にそれだけだった。
懐かしい。
元気そうでよかった。
それだけ。
……そう思っていた。
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打ち合わせを終えて会社を出たあとも、なぜか愛香の顔が頭から離れなかった。
驚いた顔。
笑った顔。
「先輩!」と呼ぶ声。
信号待ちで、無意識にスマホを見ていた。
連絡先、聞けばよかった。
そこでようやく自分に気づく。
何やってんだ、俺。
ただの後輩だろ。
……のはずなのに。
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数日後、再びその会社へ行く予定が入った。
いつもなら面倒な訪問先。
なのにその日は、妙に身支度に時間がかかった。
ネクタイを替える。
髪を整える。
鏡を見る。
……何してんだ。
軽く笑って、ため息をつく。
自分でもわかっていた。
理由なんて、一つしかない。
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受付に行くと、愛香がいた。
「あ、先輩!」
その瞬間、胸の奥が跳ねる。
笑うなよ、そんな顔で。
少し首をかしげながら、前髪を耳にかける仕草。
昔と同じ、無意識の癖。
「今日も来たんですね」
「仕事だからな」
「えー、私に会いに来たんじゃないんだ」
軽く唇を尖らせる。
その程度の表情で、心臓がうるさくなる。
「調子乗んな」
ぶっきらぼうに返す。
たぶん、顔が少し熱かった。
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その日、気づいたことがある。
愛香は誰にでも優しかった。
受付の年上女性にも、営業の新人にも、宅配業者にも。
自然に声をかけて、空気をやわらかくする。
押しつけがましくないのに、ちゃんと周りを見ている。
そのくせ、
書類を落としたり、
小さな段差でつまずきそうになったり。
完璧じゃない。
そのアンバランスさが、妙に目につく。
打ち合わせ中も、ガラス越しに受付が見えるたび、視線が向いていた。
完全におかしい自覚はあった。
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決定的だったのは、その日の夕方。
会社を出ると、エントランス前で愛香が同僚の男と話していた。
黒髪で、整った顔。
シンプルな服装。無駄のない立ち方。
感情を表に出さないタイプだと、すぐわかる。
でも、視線だけは違った。
静かに、しっかりと愛香を見ている。
ああいう男は厄介だ。
表面じゃなくて、中身で距離を詰めてくる。
愛香はその男に向かって笑っていた。
やわらかくて、無防備で。
……面白くなかった。
腹の奥がざらつく。
理由なんて、考えるまでもない。
その男が自然に愛香の持っていた資料を持つ。
愛香が当たり前みたいに隣に並ぶ。
距離が、近い。
そこでやっと理解する。
ああ、俺。
この子、好きなんだ。
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認めた瞬間、全部つじつまが合った。
会いたくて訪問が増えたこと。
連絡先を知りたかったこと。
笑われると嬉しいこと。
他の男といるのが気に食わないこと。
全部、恋だった。
しかも、かなり面倒なやつ。
「……最悪」
車の中でつぶやく。
昔の後輩。
しかも、すでにああいう男が隣にいる。
完全に出遅れてる。
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その夜、ベッドに寝転びながらスマホを見る。
仕事の連絡先一覧。
でも探しているのは、愛香の名前。
どうやって聞く。
不自然だろ。
兄貴経由で聞こうとして、やめる。
ダサすぎる。
自分で取りに行くしかない。
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数日後。
天気予報は大雨だった。
ふと、愛香の会社の最寄り駅が少し遠いことを思い出す。
傘、持ってるか知らない。
残業してるかもしれない。
送ればいい。
……いや、ただ会いたいだけだろ。
そう思いながらも、車を走らせていた。
会社の前で待っている自分に、笑うしかなかった。
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自動ドアが開く。
愛香が出てくる。
目が合う。
「先輩!?」
ぱっと表情が明るくなる。
それだけで、全部どうでもよくなる。
来て正解だった。
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そのあと、黒崎という男も現れた。
静かな男。
表情は穏やか。
でも目だけが冷静にこちらを見ている。
距離を測っている。
牽制も、焦りも見せない。
ああいうタイプは、一番やりにくい。
たぶんあいつも気づいている。
俺が愛香をどう見ているか。
空気が、少しだけ張る。
でも引く気はなかった。
好きになった女を、簡単に譲れるほど大人じゃない。
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後になって、愛香に聞かれた。
「先輩って、いつ私のこと好きになったの?」
少し考える。
「おまえが他の男に笑ってた時」
「え、それ嫉妬じゃん」
「そうだよ」
「やだ、独占欲強い」
笑う愛香を引き寄せる。
逃がさない距離。
「うるせぇ」
額に軽くキスを落とす。
「でもたぶん、再会した時点でもう負けてた」
愛香が目を丸くする。
「そんな早く?」
「おまえ、昔よりずっと可愛くなってたからな」
真っ赤になって叩いてくる。
その手を捕まえる。
抱き寄せる。
あの日気づいてよかったと、今は思う。
遅れて始まった恋でも、
ちゃんと、間に合ったから。




