第二十七章 未命名
期限の前夜だった。
城は、驚くほど静かだった。
嵐の前触れのような緊張もない。
ただ、
いつもより少し、
音が少ない。
ヴェルタは、回廊の窓辺に立っていた。
外を見ているわけではない。
内を見ているわけでもない。
考えているようで、
考えていない。
――名前。
その語が、
ふと、浮かぶ。
人間は、
感情に名前を与える。
喜び。
不安。
焦燥。
安心。
名前を与えれば、
扱えるようになる。
扱えれば、
共有できる。
共有できれば、
判断材料になる。
「......合理的だ」
呟いて、
その言葉に違和感を覚える。
今、胸の奥にあるものは、
合理で処理できない。
だから、
名前がない。
足音が、近づく。
ヴェルタは、振り返らなかった。
「起きてましたか」
エイルの声だった。
「......眠る理由がない」
「俺もです」
並んで、窓辺に立つ。
距離は、近くもなく、遠くもない。
沈黙が落ちる。
だが、
不快ではない。
「明日ですね」
エイルが言った。
「......そうだ」
期限。
世界が求める答え。
「後悔は」
エイルが、言いかけて止めた。
「......いや」
聞かなくていい。
ヴェルタも、
答えられない。
名前がないものは、
肯定も否定もできない。
「......エイル」
「はい」
「明日、
私は魔王として、話す」
「分かってます」
「だが」
一拍。
「それと、
今ここに立っている理由は、
別だ」
エイルは、
少しだけ目を見開いた。
そして、
静かに頷く。
「......はい」
それ以上、言葉はいらなかった。
風が、回廊を抜ける。
灯りが、
揺れる。
ヴェルタは、
自分の手を見る。
血は、もう付いていない。
だが、
あの夜の感触は、
消えていない。
守った。
理由なく。
名前もなく。
「......未命名だ」
小さく、呟く。
「何が、ですか」
「感情だ」
即答だった。
エイルは、
少し考えてから言う。
「名前、つけないんですか」
「......つければ、
世界が使う」
それは、
拒否だった。
名前をつければ、扱えるようになる。エイルが言っていた言葉だ。
扱えるようになれば、使えるようになる。
使えるようになれば、失えるようになる。
今、この胸の中にあるものは、まだ誰のものでもない。世界の言葉で呼ばれる前の、原始的な状態。名前のない感情は、定義されないから、消費されない。減らない。変質しない。
「……これが、今夜」
窓の外、空がわずかに白み始めている。
「いちばん大切だ」
その言葉を、声に出してみた。
誰にも聞かせない。記録もしない。ただ、この場所で、夜明け前に、一度だけ。
大切、という語を、自分のものとして使ったのは、初めてだった。
三百年間、「大切にする」という言葉を使う機会はあった。情報を大切にする。均衡を大切にする。観察の精度を大切にする。それらはすべて、抽象的なものへの言葉だった。
だが今、
「誰かが大切だ」という言葉を、使った。
それが怖くなかったのは、まだ名前をつけていないからかもしれない。
あるいは、名前なんていらないと、初めて思えたからかもしれない。
「今は」
続ける。
「今は、
使わせない」
エイルは、
ゆっくりと息を吐いた。
「それ、ずるいですね」
「......そうか」
「はい」
だが、
責める響きはなかった。
むしろ、
安心に近い。
ヴェルタは、
その反応を、
観察しなかった。
もう、
観察する必要がない。
「......明日」
エイルが言う。
「何があっても、
ここに戻ってきます」
「......命令ではない」
「分かってます」
それでも、
言う。
「合意です」
ヴェルタは、
小さく頷いた。
それで、十分だった。
夜は、
静かに更けていく。
名前のない感情は、
定義されないまま、
そこにある。
扱われず、
消費されず、
ただ、存在する。
ヴェルタは、
それを、
初めて失いたくないと思った。
その思いにも、
まだ、名前はない。
――だからこそ。
それは、
誰のものにもならなかった。
*間章 朝を待ちながら
夜明けが近かった。
空の端が、わずかに白みを帯び始めている。
ヴェルタは回廊を歩いていた。行って、戻って止まる。
今夜は、いつもより歩く距離が短い。足が、自然に、一点に収束していた。
エイルの部屋の前。扉は閉じている。中から音はしない。
眠れているのだろうか。眠れていないのだろうか。どちらでも、今夜は扉を叩く理由がない。
昨夜、あれだけ話した。
「明日、何があっても、ここに戻ってきます」
エイルはそう言った。命令ではない、と分かっている。合意だ、と言った。
合意。それは、互いに相手の選択を縛らない。自由に選んだ上で、同じ場所にいる。それが、合意だ。
ヴェルタは、その言葉の意味を反芻した。
三百年間、自分は選択してきた。だが、誰かと合意したことは、なかった。命令してきた。従わせてきた。それは合理的で、効率的で、正しかった。
だが、合意は違う。合意は、相手が選んでくれなければ成立しない。自分だけでは、作れない。
ヴェルタは、扉に手をそっと当てた。
触れただけで、ノックもしない。ただ、そこにある感触を確かめる。
木の扉は、少し冷たかった。だが、扉の向こうには、温かいものがある。
それだけで、今夜は、十分だった。
ヴェルタは手を離し、歩き出した。
夜明けまで、もう少し。期限の朝が、来る。だが今は、まだ夜だった。
夜のうちに、知っておきたいことがあった。それは、言葉にならない。感情の名前を、探してもいない。
ただ、ここにあることを、知っている。それだけで、朝を迎えられる。
ヴェルタは、窓の方へ歩いた。
空が、少しずつ白くなっていく。新しい一日が、静かに始まろうとしていた。




