第二十八章 城は今日も
朝は、いつも通りに訪れた。
空は青く、城の影は、長く伸びている。
期限の朝だというのに、
特別な合図は鳴らなかった。
ヴェルタは、玉座の間に立っていた。
座らないのも、
もはや習慣になっている。
使節団は、すでに到着している。
だが、会談はまだ始まらない。
――始める前に、
終わらせる必要があるものがあった。
回廊を歩く。
行って、戻って、止まる。
以前と同じ動作。
だが、今は迷っていない。
扉の前で、足を止める。
ノックはしない。
「......入るぞ」
返事を待たず、
扉を開けた。
エイルは、すでに起きていた。
装備は整っているが、
剣は、腰にない。
「おはようございます」
「......ああ」
短い挨拶。
それだけで、
十分だった。
「出る」
ヴェルタが言う。
「はい」
それも、即答。
二人は並んで歩いた。
玉座の間へ。
魔族たちが、道を開ける。
だが、視線には、
警戒も、期待もなかった。
ただ、見送る目。
会談は、長くならなかった。
レオンハルトは、
最終文書を読み上げる。
――勇者エイルは、
――魔王城の庇護下に留まる。
――ただし、国家との連絡は継続され、
――象徴的役割を限定的に保持する。
曖昧で、
不完全で、
どこにも収まりきらない結論。
だが、
誰も異を唱えなかった。
「以上をもって」
レオンハルトは、文書を閉じる。
「暫定合意とします」
暫定。
それが、
すべてだった。
会談が終わり、
人間側の一団が去る。
城に、
日常が戻ってくる。
エイルは、
中庭に立っていた。
空を見上げる。
「......世界、終わりませんでしたね」
「当然だ」
ヴェルタは言う。
「世界は、
個人の感情では壊れない」
「ですよね」
エイルは、少し笑う。
「でも」
続ける。
「変わりました」
ヴェルタは、否定しなかった。
「......ああ」
それは、
認めざるを得ない事実だった。
「俺、しばらく城を出ます」
エイルが言う。
「......合意に反しない」
「はい」
「戻ります」
「......期限は」
「決めません」
ヴェルタは、
その言葉を、
静かに受け取った。
「......分かった」
引き留めない。
命じない。
それも、
合意だった。
エイルは、歩き出す。
城門へ向かって。
数歩進んで、
立ち止まる。
「......ヴェルタ」
「何だ」
「その」
言いよどむ。
「......名前」
ヴェルタは、答えなかった。
代わりに、
一つだけ言う。
「......呼ばなくていい」
エイルは、
少し驚いた顔をしてから、
頷いた。
「はい」
それで、
十分だった。
城門が開く。
エイルは、外へ出る。
ヴェルタは、
その背中を、
追わなかった。
見送らなかった。
追わなかった。
呼び止めなかった。
それが合意だ。そう決めた。互いに相手の選択を縛らない。外へ向かう意思は、奪わない。
分かっている。分かっていて、立っている。
ヴェルタは、城門の向こうを見ていなかった。見れなかった、ではなく、見なかった。視線を向けると、何かが変わってしまう気がした。
ただ、立っている。
中庭の噴水の音が、聞こえる。
花壇の花が、今日も咲いている。
城は、ここにある。
そしてエイルは、「戻ります」と言って出た。期限は決めなかった。それは合意に従っている。戻るかどうかを縛るのではなく、戻るという意思を受け取った。
それで、十分だ。
そのはずだった。
なのにヴェルタは、胸の奥に、静かな重さを感じていた。不在の重さ。だが今回は、以前のそれとは違う。以前は「穴」だった。今は「空間」だ。いつか満たされる予定の、空間。
名前のない感情が、胸の中でまだ動いている。
失われたわけではない。去ったわけではない。
ただ、まだここに「居ていい」と思えること。それだけで、今の自分には十分だった。
三百年間、それを求めていたとは知らなかった。
だが今、それを持っている。
ただ、
そこに立っている。
城は、今日もそこにある。
世界も、
続いている。
名前のない感情は、まだ、呼ばれていない。
だが――
居る。
居ていい場所がある、というだけで。
ヴェルタは、それで十分だと、初めて思った。




