第二十一章 エイルの負い目
城の外は、思っていたよりも静かだった。
人の町は騒がしい。
それが常識だったはずなのに、
この場所では、音が必要最低限しか存在しない。
エイルは、城壁の上に立っていた。
見下ろせば、魔王城の敷地が広がる。
整えられた庭。
規則正しい巡回。
無駄のない動線。
――よくできている。
それが、最初に浮かんだ感想だった。
ここは、誰か一人が欠けたところで、
簡単には崩れない。
昼過ぎ、レオンハルトが城内を歩いているのを見かけた。
護衛はつけていない。
必要がない、と判断したのだろう。
「使節様」
声をかけると、
レオンハルトはすぐに振り返った。
「エイル氏」
穏やかな笑み。
距離を測る目。
「何か、ご用件が」
「少し、話を」
エイルは、城壁沿いの通路を示した。
二人で並んで歩く。
沈黙は、長くならなかった。
「城は、どう見えますか」
エイルが先に聞いた。
「秩序があります」
レオンハルトは即答した。
「感情による揺らぎが、最小限に抑えられている」
「......俺が来る前は、ですか」
レオンハルトは、少しだけ言葉を選んだ。
「来る前も、来た後も」
「ただし――」
「ただし」
「来た後の方が、
魔王殿の判断が、わずかに遅れる」
エイルは、目を伏せた。
「やっぱり、ですか」
否定はしなかった。
「あなたの存在が、
魔王殿の合理性を損ねている、
と見る向きはあります」
「......世界にとっては」
「ええ」
正直な答えだった。
それが、ありがたかった。
「でも」
レオンハルトは、続ける。
「あなたが悪い、とは言えません」
「どうしてですか」
「人は、誰かの判断を歪める存在です」
「それ自体が、罪になるなら、
誰も一人では生きられない」
エイルは、小さく息を吐いた。
「それでも」
言葉を探す。
「俺がいなければ、
もっと楽だった」
「魔王殿は、楽をする立場ではありません」
「......そうですね」
エイルは、歩みを止めた。
「カイのことは」
レオンハルトが、問いかける。
「見ました」
「どう思われましたか」
「正しい勇者だと思います」
迷いはなかった。
「役割を、引き受ける覚悟がある」
「それは」
「俺には、足りなかったものです」
エイルは、はっきりと言った。
勇者だった頃の自分。
戦い続けていた自分。
選ばれた理由を、
考えたことはなかった。
夜、エイルは自室に戻った。
机の上には、
白紙の紙が一枚、置かれている。
ヴェルタに、何かを伝えるべきだ。
そう思うのに、
言葉が、決まらない。
理由を述べれば、
彼女はそれを検討する。
検討すれば、
合理的に否定するか、
あるいは――
無理に、守ろうとする。
どちらも、
望んでいなかった。
「......重いな」
独り言が、落ちる。
負い目。
それは、
「自分がいなくてもいい」という理解から生まれる。
そして、
「それでも、いてしまっている」という事実から、
逃げられない感覚。
エイルは、ペンを取った。
短い文を書く。
『俺がいることで、
あなたの判断が遅れるなら、
それは、良くない』
そこまで書いて、止めた。
断定は、したくなかった。
紙を折り、
引き出しにしまう。
まだ、渡さない。
だが、
いずれ渡すことになる。
そういう予感だけは、
はっきりしていた。
部屋の外で、足音が止まった。
一瞬、期待してしまう自分に、
エイルは苦笑した。
今夜、ヴェルタは来ない。
来る理由が、ない。
それが、
正しい距離だと分かっているからこそ、
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
エイルは、灯りを落とした。
自分が選ぶべきなのは、
ここに留まる理由ではない。
――離れる覚悟だ。
それを持てたとき、
初めて対等になれる。
そう信じて、
目を閉じた。
*間章 深夜の回廊で
ヴェルタは廊下を歩いていた。
行って、戻って、止まる。それが今夜で何度目か、数えていなかった。
距離は取っているはずなのに、彼女が立ち止まると、逃げ場だけが消えた。
エイルは部屋にいる。扉の向こうに、気配がある。だが、入らない。
入れば、理由を聞いてしまう。理由を聞けば、答えを出してしまう。答えを出してしまえば、選ばなければならない。
選ぶことは、正しい。だが、今夜は、選ぶことが、怖かった。
ヴェルタは壁にもたれて、目を閉じた。
エイルが言っていた言葉を、思い出す。
「俺がいなくなったら、困りますか」
困る。三百年間、困ったことがなかった。
困るとは、何かが欠けたときに生じる不具合だ。欠けるためには、まず何かがそこにある必要がある。
ヴェルタは、エイルが来るまで、自分の中に「欠けるもの」があると知らなかった。知らなかったのに、今は知っている。それを、誰かに教えられた。
ヴェルタは、目を開けた。廊下の先に、窓がある。月が出ている。
三百年間、何百回見たか分からない月だ。だが今夜の月は、少し違って見えた。
なぜ違って見えるのか、分かっていた。一人で見ているか、誰かと見ているか。その差だけで、同じものが違って見える。
ヴェルタは、何も言わなかった。ただ、月を見た。
エイルが起きていれば、同じ月を見ているかもしれない。
同じものを見ていることを、確かめる手段がないことが、少しだけ、惜しかった。




