第二十章 観察の破綻
異変は、数字から始まった。
観察日誌のページをめくりながら、
ヴェルタは、指を止めた。
記録の密度が、崩れている。
時刻。
行動。
反応。
並ぶはずの項目に、抜けがある。
理由のない空白が、増えていた。
「......誤差」
呟いて、次のページを開く。
そこにも、同じ空白があった。
勇者候補カイの記録。
性格、能力、行動傾向。
書くべきことは、揃っている。
だが、筆が進まない。
理由は、分かっていた。
――比較が、成立しない。
観察とは、
対象を並べ、差分を測る行為だ。
だが今、
並べること自体が、できなくなっている。
「......非合理だ」
言葉にしても、
状況は整理されなかった。
昼前、報告が入る。
「魔王様」
侍女が、慎重な声で言った。
「使節レオンハルト様より、
本日中に再度の回答を、との要請が」
「......保留だ」
即答だった。
「理由は」
「検討が終わっていない」
「期限を設けるとのことですが」
ヴェルタは、顔を上げた。
「......期限は、誰が決める」
「国家です」
その答えに、
胸の奥が、強く鳴った。
国家。
役割。
代替。
どれも、理解できる言葉だ。
理解できるからこそ、
拒絶できない。
回廊を歩く。
行って、戻って、止まる。
以前と同じ動作。
だが、速度が合わない。
視線が、無意識に、
エイルの部屋の方角を探す。
――いない。
その事実を、
何度も確認してしまう。
「......観察対象、不在」
そう記録しようとして、
ペンを止めた。
不在。
仮の不在。
それとも――
思考が、先に進まない。
午後、城門付近が騒がしくなった。
使節団の動き。
護衛の配置。
すべて、
エイルの有無を前提に組み直されている。
「......世界が、先に決めている」
呟いた瞬間、
胸の奥で、何かが切れた。
玉座の間に戻る。
椅子に座り、
背もたれに身を預ける。
魔王としての視点。
統治者としての判断。
それらを、
一つずつ並べていく。
――エイルは勇者。
――勇者は役割。
――役割は引き継げる。
正しい。
すべて、正しい。
なのに、
結論だけが、出ない。
「......理由を」
小さく呟く。
「理由を、示せ」
誰に向けた言葉でもない。
観察日誌を、
力任せに閉じる。
革表紙が、
鈍い音を立てた。
「......観察は、終わっている」
その事実に、
ようやく気づいた。
変数を測る段階は、
とっくに過ぎている。
それでも、
終わったと認めれば、
次に進まなければならない。
――選択。
その語が、
胸の奥で、重く沈む。
ヴェルタは、立ち上がった。
目的地は、
考える前に決まっていた。
エイルの部屋。
扉の前で、足が止まる。
ノックしようとして、
手が止まる。
開ければ、
理由を聞いてしまう。
理由を聞けば、
答えを出してしまう。
「......まだだ」
低く呟き、
手を下ろす。
回廊を引き返す。
その背中は、
いつもより、わずかに速かった。
観察は、破綻した。
だが、それは失敗ではない。
観察が不要になった
ただ、それだけのことだった。
ヴェルタは、その事実を、まだ、記録できずにいた。




