第十九章 代替可能性
エイルは、その会話を偶然聞いてしまった。
城の中庭へ向かう回廊の角。
声が、少しだけ響いていた。
「僕が、頑張りますから」
少年の声だった。
続いて、聞き慣れた低い声。
「......代わりなど、存在しない」
その一言で、足が止まった。
それ以上、近づくことはできなかった。
覗き見るのも、聞き続けるのも、違う気がした。
エイルは、静かに踵を返した。
部屋に戻っても、
胸の奥が、落ち着かなかった。
代わりはいない。
そう言われて、嬉しくなかったわけではない。
だが同時に、
強い違和感もあった。
「......それで、いいのか」
誰に向けた言葉でもなく、呟く。
窓の外を見る。
城の外は、今日も穏やかだ。
世界は、何事もなく続いている。
昼過ぎ、エイルは城の図書室にいた。
最近は、よくここに来る。
人間世界の記録。
勇者の歴史。
討伐譚と、後日談。
棚の一角に、
「勇者候補」に関する資料がまとめられていた。
カイの名前も、そこにある。
年齢。
出身。
適性。
「......優秀だな」
正直な感想だった。
エイル自身と比べても、
劣っているとは言えない。
むしろ――
役割に向いている。
エイルは、本を閉じた。
勇者という役割。
世界が求めるもの。
そこに、
個人の都合は、最初から含まれていない。
城内を歩くと、
あちこちで、変化を感じた。
魔族たちの動き。
視線。
言葉の端々。
「交渉」
「返還」
「条件」
それらはすべて、
エイルを中心に回っている。
自分が、
歪みの核になっている。
夕方、エイルは中庭に出た。
噴水のそばで、カイが一人、剣を振っている。
型は正確で、無駄がない。
気配に気づいて、カイが振り返った。
「あ、エイルさん」
「邪魔だったか」
「いえ!」
カイは剣を下ろし、少し照れたように笑う。
「見られると、緊張しますけど」
「十分、上手い」
「本当ですか」
素直に喜ぶ様子に、
エイルは胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「......なあ、カイ」
「はい」
「勇者になるの、怖くないか」
カイは、少し考えた。
「怖いです」
即答だった。
「でも」
続ける。
「必要なら、やります」
「どうして」
「誰かが、やらないといけないから」
その答えは、
あまりにも正しかった。
「エイルさんは」
カイが、逆に尋ねる。
「やりたくなかったんですか」
エイルは、すぐに答えられなかった。
「......分からない」
正直な言葉だった。
「気づいたら、そうなってました」
カイは、頷いた。
「それでも、やってきたんですよね」
「......結果的には」
「すごいです」
尊敬に、嘘はなかった。
だからこそ、
エイルははっきり言った。
「俺がいなくても、世界は回る」
カイは、驚いたように目を見開いた。
「そんなこと――」
「回るよ」
エイルは、静かに言う。
「勇者は、役割だ」
「役割は、引き継げる」
カイは、しばらく黙っていた。
「......でも」
やがて、言う。
「魔王様は」
エイルは、視線を逸らした。
「......あの人は」
言葉を選ぶ。
「役割じゃない」
その違いを、
自分が一番よく分かっていることが、
苦しかった。
夜、エイルは自室に戻った。
机の上に、簡単な書き置きを置く。
『少し、考える時間が欲しい』
それだけ書いて、紙を折る。
行き先は、決めていない。
期限も、決めていない。
だが、
「ここに居続ける」ことが、
正解ではない気がしていた。
代替可能性。
その言葉は、
冷たく、正確だった。
世界にとって、
自分は代わりがきく。
それなら――
エイルは、灯りを消した。
ヴェルタが、その事実に気づく前に。




