第十八章 勇者候補の距離
カイが城に滞在することになったのは、あくまで「便宜上」だった。
正式な交渉が続く間、勇者候補を城外に置くのは非効率だ――
レオンハルトの判断である。
ヴェルタは、その判断を否定しなかった。
否定できなかった、という方が正しい。
理由を述べる言葉が、見つからなかったからだ。
午前の回廊で、カイはヴェルタを見つけると、すぐに姿勢を正した。
「おはようございます、魔王様」
「......形式張る必要はない」
「でも」
カイは少し困ったように笑う。
「尊敬してますから」
その言葉に、
ヴェルタは一瞬、返答を失った。
「......理由は」
「強いからです」
即答だった。
「それだけか」
「それだけじゃ、駄目ですか」
悪気はない。
疑いもない。
ただ、真っ直ぐな評価だった。
「......随行は」
話題を切り替える。
「今日は一人です」
「使節は?」
「資料の整理だそうです」
それなら、
なおさら一人でいるべきだった。
そう判断したはずなのに、
ヴェルタは歩き出していた。
カイが、その隣を自然に歩く。
「城、広いですね」
「......そうだ」
「でも、静かです」
ヴェルタは足を止めた。
「......何と比べている」
「人の町です」
カイは言う。
「人が多くて、音も多くて」
「......嫌か」
「嫌じゃないです」
「ただ、落ち着かない」
ヴェルタは、胸の奥がわずかに鳴るのを感じた。
「ここは」
カイが続ける。
「落ち着きます」
その言葉は、
エイルがかつて言ったものと、
ほとんど同じだった。
「......そうか」
それ以上、言葉が続かない。
二人は、中庭に出た。
噴水の音が、緩やかに響いている。石畳は朝の光に照らされて、白く輝いていた。
カイは、城の造りをじっくりと見回した。初めて来た者が必ずする動作だ。ヴェルタは、それを見ながら思った。エイルも最初、同じように見回した。
だが、見方が少し違う。
エイルは警戒しながら見た。脱出経路を探すように。カイは純粋に見ている。美しさを確かめるように。
「こんな噴水、人の城には少ないですよ」
カイが言った。
「……そうか」
「魔王様が作ったんですか」
「前の魔王が作った」
「前の?」
「私の前にも、魔王はいた」
カイは少し驚いたように眉を上げた。
「じゃあ、この城はずっと魔王の城だったんですね」
「そうだ」
「でも、魔王様が一番長く住んでる」
「……三百年だ」
「すごい」
カイの「すごい」は、単純な感嘆だった。恐怖や皮肉が混じっていない。それが珍しくて、ヴェルタは少しだけ困惑した。
「三百年いると、城のことが分かりますか」
「……どういう意味だ」
「好きとか、嫌いとか」
ヴェルタは、その問いを受け止めた。
好きとか、嫌いとか。
城に、そういう感情を持ったことがあるか。
「……分からない」
正直な答えだった。
「三百年分からないって、なんか不思議ですね」
カイは屈託なく笑った。
「ヴェルタ様って、感情の言葉を使うのが苦手なんですか」
それは、エイルと最初に話したときのことを思い出させた。感情がないのではなく、名前を知らないだけだ。それは随分、昔のことのような気がした。いや、一か月も経っていないが。
「……苦手だ」
また、正直に答えた。
「俺は逆に、感情の言葉が多すぎて困ることがあります」
「どういうことだ」
「感動するとか、嬉しいとか、悔しいとか。いろんな名前があるのに、どれが正しいか迷う」
ヴェルタは、その言葉を意外だと思った。名前が多すぎることも、問題になりうる。
感情とは、つまり、名前の数でも、なさでも、どちらでも不自由するものなのかもしれない。
噴水の音が、一定の間隔で響く。
「エイルさん」
カイが、不意に口にした。
ヴェルタの指先が、わずかに動く。
「......何だ」
「すごい人ですね」
「......どういう意味だ」
「魔王様のそばにいられる」
カイは、素直に言った。
「それって、選ばれたってことですよね」
ヴェルタは、即座に否定できなかった。
「......選択の話ではない」
「でも」
カイは首を傾げる。
「僕だったら、嬉しいです」
胸の奥に、
微かな違和感が走る。
「......なぜだ」
「だって」
カイは、少し照れたように言った。
「必要とされてる、って感じがしますから」
その言葉は、
無邪気すぎて、
残酷だった。
「......必要ではない」
ヴェルタは、思わず言っていた。
「彼は、観察対象だ」
「観察」
カイは、その言葉を反芻する。
「それって、見てるだけですか」
「......違う」
「守る、ですか」
答えられなかった。
沈黙が落ちる。
噴水の音だけが、続く。
「もし」
カイが、ためらいがちに言った。
「エイルさんが、戻らなかったら」
ヴェルタは、顔を上げた。
「......仮定の話は無意味だ」
「そうですね」
カイは、すぐに引いた。
だが、そのあとに続く言葉が、
ヴェルタをさらに困らせる。
「それでも」
カイは言う。
「僕は、頑張ります」
真剣な目だった。
「エイルさんの代わりには、なれないかもしれないけど」
「......代わりなど、存在しない」
ヴェルタの声は、
自分でも驚くほど、強かった。
カイは、目を瞬かせた。
そして、少しだけ笑う。
「ですよね」
「......何だ」
「なんとなく」
それ以上、踏み込まなかった。
それが、救いだった。
午後、ヴェルタは一人になった。
観察日誌を開く。
カイについて、記録を書くべきだった。
勇者候補。
性格。
能力。
だが、ペンは進まなかった。
代わりに、
書かれてしまった一行。
『代替可能性:低』
書いてから、
ヴェルタはそれを見つめた。
低い理由を、説明できない。
説明できないのに、
確信だけはあった。
「......距離が、近すぎる」
呟いて、ペンを置く。
善意は、
拒む理由がない。
拒めないからこそ、
距離を測れなくなる。
ヴェルタは、
自分が一歩、後退していることを自覚していた。
近づいてくる世界から。
そして、
すでに選んでしまった一点から。




