第十四章 恥ずかしさ
再会の翌日、ヴェルタは落ち着かなかった。
理由は分かっている。
昨夜、自分が何をしたか。何を感じたか。それが、身体に残っていた。記憶というよりは、痕跡。論理で消せない類のもの。
ヴェルタは朝、観察日誌を開いた。
昨夜の記録を書こうとして、止まった。
書くべき事象は、ある。「エイルが帰還。存在確認を行った」
だが、その後に続くものが書けない。感触。胸の速度。喉が詰まった感覚。それらをすべて書き出したとして。
「……読むのが、嫌だ」
呟いた。
自分で書いたものを自分で読むのが嫌だと感じたのは、三百年で初めてだった。
記録は、事実を残す。だが今回の記録は、残すことで、それが自分のものであると確定してしまう。それが、怖かった。
ヴェルタは、観察日誌を閉じた。白紙のまま。今日は書かない。
そう決めて、朝食の席へ向かった。
分かっているが、認める気はなかった。
朝食の席で、エイルはいつも通りだった。
挨拶をし、用意された食事を取り、静かに食べる。
変わったのは、ヴェルタの方だ。
視線が合うたび、わずかに逸らしてしまう。
意識しているわけではない。
身体が、先に反応している。
「......何かありました?」
エイルが首を傾げた。
「ない」
即答だった。
「本当に?」
「......問題はない」
その返答が、昨日から三度目だった。
エイルはそれ以上踏み込まなかった。
だが、何も言わないことが、逆に目立つ。
食事を終え、エイルが立ち上がる。
「今日は、城の中を少し歩いてもいいですか」
「許可する」
言葉は平静だった。
だが、エイルが視界から消えた瞬間、胸の奥がざわつく。
――行動が、早い。
自分で自分を評価し、
ヴェルタは立ち上がった。
城内を巡回する。
目的はない。
ただ、距離を測るように歩く。
回廊の角で、足音が重なった。
「ヴェルタ」
呼ばれて、肩がわずかに跳ねる。
「......何だ」
「昨日のことなんですけど」
エイルは、慎重な声音だった。
「俺、嫌じゃなかったです」
ヴェルタは、即座に理解できなかった。
「......何の話だ」
「抱き寄せられたこと」
胸の奥が、熱を持つ。
「確認だと言っていたが」
「はい」
エイルは頷く。
「でも、あれ......」
一拍。
「感情ですよ」
その言葉は、静かだった。
断定でも、非難でもない。
ただの指摘。
なのに、ヴェルタは一歩、後ろへ下がった。
「......それ以上、私を見るな」
声が、少しだけ低くなる。
それは命令ではなかった。
逃げだった。
エイルは、すぐに答えなかった。
少し困ったように笑い、視線を逸らす。
「......見てません」
「......」
「ただ、そばにいるだけです」
その言葉で、
ヴェルタは自分が"見られている"のではなく、
\*\*"分かってしまう位置に立っている"\*\*ことに気づいた。
胸の奥が、きゅっと縮む。
「......それが、一番困る」
思わず、零れた。
「困る、ですか」
「......定義を確認する必要はない」
否定できなかった。
エイルは、何も言わなかった。
だが、その沈黙が、ひどく優しかった。
ヴェルタは、視線を落とした。
自分の内側にあるもの。
名前を知っている感情と、
まだ知らない感情。
それらが、
他人の目に触れてしまったという事実。
それは、恐ろしかった。
だが同時に、
少しだけ、軽かった。
「......記録はしない」
小さく、言う。
「はい」
エイルは、理由を聞かなかった。
それが、ありがたかった。
回廊に、再び静けさが戻る。
だが、それは
一人で抱え込む静けさではない。
ヴェルタは、歩き出した。
少しだけ、距離を保って。
それでも、
背後にエイルの足音があることを、
確かに感じながら。
恥ずかしさとは、
感情を持ったことではない。
感情を持っている自分を、
誰かに知られてしまったときに生まれるものだ。
ヴェルタは、その事実を、
同時に、もう一つのことも理解した。
感情を持っていること自体は、恥ずかしくない。感情は現象であり、現象を持つことは存在の証明だ。魔王であっても、三百年生きていても、感情はある。それは今更の事実だ。
だが、感情を持っている自分を、誰かに見られることは、違う。見られるということは、相手にとっての情報になる。情報は使われうる。使われると、管理できなくなる。
「……管理できない感情は、弱点だ」
そう自分に言い聞かせていた。だからこそ、三百年間、名前をつけなかった。名前のないものは、他者に伝わらない。伝わらないものは、利用されない。
だが、エイルには、名前がなくても伝わってしまった。
それが、
思ったより、
悪くなかった。
その事実が、また別の混乱を生んだ。
「……悪くない、とは」
ヴェルタは、また一人で問いかける。
悪くない、は、「良い」の前段階かもしれない。「良い」と感じることは、それを「求める」ことに繋がる可能性がある。それは、また別の名前のない感情に近づく。
今夜は、ここまでにしておこう。
そう決めて、ヴェルタは廊下から自室に戻った。
戻る道すがら、エイルの足音がすでに部屋へ消えたことに、気づいていた。
初めて理解していた。




