表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
我が飼いヒトよ、おまえはどこへも行かせない  作者: 明石竜


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/31

第十三章 再会

 扉が開く音は、思っていたよりも小さかった。

 それでも、ヴェルタには分かった。

 空気が、変わった。

 自室の机で、白紙の観察日誌を前にしていた。

 書くべき言葉は、まだ見つからない。

 ――不在。

 ――仮。

 どれも、正しくて、足りない。

 ヴェルタは、ノートを閉じた。

 白いページのまま、終わった。三日間、何も書けなかった。観察日誌として機能しない三日間。記録者として、それは失敗だった。

 だが、ヴェルタは自分を責めなかった。

 代わりに、机の前に座って、ただ待った。

 待つ、という行動を、ヴェルタはほとんど取ったことがなかった。何かを待つのではなく、何かが来たときに対応する。それが今までのやり方だった。

 だが今、意識して待っていた。エイルが戻ってくることを。

 戻ってくるかどうかは分からない。合意は何もない。去るとも戻るとも言わずに去った。「少し、考える時間が欲しい」という書き置きだけが残っている。

 それでも、戻ってくると思っていた。根拠はない。感覚だ。

 感覚に基づく判断。それは観察者として失格だ。だが今は、観察者である必要はないかもしれない。

「……待っている」

 声に出した。

 その言葉が、どれほど正確な記述か、ヴェルタは初めて実感した。

 待っている、というのは、相手が来ることを望んでいる、ということだ。来なかったとき、その感情はどうなるのか。それを想像して、ヴェルタは胸の奥が重くなるのを感じた。

 だから、想像しないことにした。

 ただ待つ。それだけでいい。

 回廊の向こうから、足音が聞こえた。

 一つ分。

 覚えのある、間隔。

 ヴェルタは顔を上げた。

 扉の前に立つ気配がする。

 ノック。

 ほんの一拍遅れて、声がした。

「......戻りました」

 エイルの声だった。

 胸の奥が、強く鳴った。

 理由を探す前に、身体が動いた。

 ヴェルタは立ち上がり、扉を開ける。

 そこに、エイルがいた。

 旅装のまま、少し疲れた顔。

 だが、確かに、ここにいる。

「......何日だ」

 最初に出た言葉は、それだった。

「四日です」

「予定より、長い」

「少し、手間取りました」

 それだけのやり取り。

 それだけなのに、

 胸の奥の重さが、すっと薄れる。

 安心。

 そう名付けられる感覚が、確かにあった。

 同時に、別のものも湧き上がる。

「......なぜ、連絡しなかった」

 声が、わずかに低くなる。

「できなかったんです」

「理由は」

「説明すると、長くなる」

 ヴェルタは、答えを待たなかった。

 代わりに、手を伸ばした。

 エイルの腕を、掴む。

 力は、強くなかった。

 だが、離さない。

 自分が何をしているのか、理解する前に、

 さらに一歩、距離を詰める。

 胸と胸が、触れた。

 エイルが息を呑む。

「......ヴェルタ?」

 その声で、我に返った。

 ヴェルタは、ぱっと手を離す。

「......今のは」

 言葉が続かない。

 触れていた感触が、まだ残っている。

 温かかった。

 それだけのことが、なぜこれほど印象に残るのか、ヴェルタは自分でも分からなかった。温度は感じたことがある。日光でも、炎でも、食事でも。だが、人の体温を「温かい」と感じたのは、初めてかもしれない。

 いや、初めてではないかもしれない。それが分からないことが、また新しい問いを生む。

 ヴェルタは、自分の手のひらをじっと見た。

 温かかった。その一事実が、なぜこれほど心に残るのか。

 三百年生きて、様々な温度を知っている。太陽の熱。炎の熱。食事の温かさ。石壁の冷たさ。だが、今感じたものは、それらのどれとも違う。

 生きている体温だった。

 生きている存在の体温を、こんなに近くで感じたのは――いつ以来だろうか。いや、こういう形で感じたのは、初めてかもしれない。過去の勇者たちと接触したことはある。拘束するとき、あるいは治療のとき。だが、それは目的のある接触だった。

 今夜は違った。

 理由の前に、身体が動いた。その事実が、ヴェルタを少し戸惑わせた。三百年間、理由のない行動はしてこなかった。すべての動作に、論理的な根拠があった。それが自分のやり方だった。

 だが今夜、そのやり方が崩れた。

 崩れたのに、恐ろしくなかった。

 そのことが、いちばん不思議だった。

 三百年間の記録の中に、体温について書いたページはあるか。あれば、今回と同じか違うか。

 後で確認しようと思いながら、確認しないだろうとも思った。

 確認して、「同じだ」と分かれば安心できる。だが、「違う」と分かれば、それは何かが変わったということになる。

 変わった、という事実を、今夜は確認したくない。

 温度。

 呼吸。

「......確認だ」

 苦しい言い訳だった。

「何の」

「存在の」

 それ以上、言えなかった。

 エイルは、何も言わずに頷いた。

「確認、取れました?」

「......取れた」

 短く答える。

 沈黙が落ちる。

 だが、以前の静けさとは違った。

 空白ではなく、満ちた沈黙。

「部屋へ案内する」

 ヴェルタは、背を向けて歩き出した。

「もう、部屋はそのままですよね」

「......そのままだ」

 理由を説明する必要は、なかった。

 回廊を並んで歩く。

 二人分の足音が、重なる。

 その事実だけで、

 時間が、元の速さに戻る。

「ヴェルタ」

「何だ」

「心配、してました?」

 足が、止まった。

「......定義を確認したい」

「不安とか、落ち着かないとか」

 ヴェルタは、しばらく考えた。

 四日間。

 食事を取らなかった朝。

 白紙のページ。

 長すぎる夜。

「......該当する」

 それだけ答えた。

 エイルは、少しだけ笑った。

「それなら、よかった」

「何が」

「戻ってきて」

 ヴェルタは、返事をしなかった。

 返事をすれば、

 また、触れてしまいそうだったからだ。

 部屋の前で、立ち止まる。

「......今日は、休め」

「はい」

 扉を開ける、その直前。

 ヴェルタは、言った。

「......次は、事前に知らせろ」

 命令の形だった。

 だが、その声は、ほんの少しだけ揺れていた。

「分かりました」

 エイルは、素直に頷いた。

 扉が閉じる。

 ヴェルタは、その前に立ち尽くした。

 扉が閉じて、静けさが戻ってくる。城のいつもの静けさだ。だが今夜は、その静けさが違って感じられた。

 エイルがいる。

 それだけで、城が元の大きさに戻る。

 ヴェルタは、自分の手のひらを見た。さっきまで、エイルの腕を掴んでいた手。意識する前に、身体が動いていた。接触。それは観察行動として分類できない行為だ。

「……記録すべきか」

 問いかけて、答えが出ない。

 記録すれば、事象として残る。事象として残れば、次の観察対象にもなりうる。だが今は、記録したくなかった。記録したくない、という感情自体が、すでに記録の対象になりうるが、それも記録したくない。

「……複雑だ」

 三百年間、自分の内側についてそう感じたことはなかった。複雑だとは思わなかった。感情がなかったのではなく、複雑と感じるほどの量がなかったのだ。

 だが今は、

 複雑で、どう整理すればいいか分からなかった。

 ヴェルタは廊下を歩き出した。行って、戻って、止まる。いつもの動作。だが今夜は、止まる場所がいつもと違う。エイルの部屋の前ではなく、少し手前。

「……存在の確認は、取れた」

 自分に言い聞かせる。

 そうだ。確認は取れた。彼はここにいる。城に戻ってきた。それで十分だ。

 それで十分、のはずなのに。

 なぜまだ、胸の奥が落ち着かないのか。

 食後、厨房から追加の報告が来た。

「エイル様のご朝食、昨日と同量でよろしかったでしょうか」

「そうだ」

「昨日は少し多かったようで、今日は調整いたしますが」

「……残したか」

「いいえ、完食されておりましたが、お顔の様子から」

「そのままにしろ」

 侍女が退がった後、ヴェルタはエイルを見た。正確には、見ようとして、視線が合いそうになった瞬間に外した。

「……量は、適切だったか」

「え? あ、はい。ちょうどよかったです」

「そうか」

 また、視線が外れる。

 エイルは不思議に思った。昨日まではあれだけ観察してくるのに、今日は目が合うたびに逸らされる。

「ヴェルタ、本当に大丈夫ですか」

「大丈夫だ」

「なんか、俺のこと見てますよね。でも見てないですよね」

「……見ていない」

「じゃあ何を」

「周辺状況の把握だ」

「周辺状況に俺が含まれてるじゃないですか」

「……誤差の範囲だ」

 その答えが、「誤差」の使い方として完全に間違っていることに、ヴェルタ自身は気づいていなかった。エイルは何も言わなかった。

 ヴェルタは、その答えを今夜は出さないことにした。

 胸の奥に、いくつもの感情が重なっている。

 安心。

 怒り。

 混乱。

 そして、

 それらを知られてしまったことへの、微かな恐れ。

「......制御が、必要だ」

 自分に言い聞かせる。

 だが、制御すべきものが、

 何なのかは、まだ分からない。

 ヴェルタは、回廊を引き返した。

 今夜は、

 一人で過ごす夜ではなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ