第十三章 再会
扉が開く音は、思っていたよりも小さかった。
それでも、ヴェルタには分かった。
空気が、変わった。
自室の机で、白紙の観察日誌を前にしていた。
書くべき言葉は、まだ見つからない。
――不在。
――仮。
どれも、正しくて、足りない。
ヴェルタは、ノートを閉じた。
白いページのまま、終わった。三日間、何も書けなかった。観察日誌として機能しない三日間。記録者として、それは失敗だった。
だが、ヴェルタは自分を責めなかった。
代わりに、机の前に座って、ただ待った。
待つ、という行動を、ヴェルタはほとんど取ったことがなかった。何かを待つのではなく、何かが来たときに対応する。それが今までのやり方だった。
だが今、意識して待っていた。エイルが戻ってくることを。
戻ってくるかどうかは分からない。合意は何もない。去るとも戻るとも言わずに去った。「少し、考える時間が欲しい」という書き置きだけが残っている。
それでも、戻ってくると思っていた。根拠はない。感覚だ。
感覚に基づく判断。それは観察者として失格だ。だが今は、観察者である必要はないかもしれない。
「……待っている」
声に出した。
その言葉が、どれほど正確な記述か、ヴェルタは初めて実感した。
待っている、というのは、相手が来ることを望んでいる、ということだ。来なかったとき、その感情はどうなるのか。それを想像して、ヴェルタは胸の奥が重くなるのを感じた。
だから、想像しないことにした。
ただ待つ。それだけでいい。
回廊の向こうから、足音が聞こえた。
一つ分。
覚えのある、間隔。
ヴェルタは顔を上げた。
扉の前に立つ気配がする。
ノック。
ほんの一拍遅れて、声がした。
「......戻りました」
エイルの声だった。
胸の奥が、強く鳴った。
理由を探す前に、身体が動いた。
ヴェルタは立ち上がり、扉を開ける。
そこに、エイルがいた。
旅装のまま、少し疲れた顔。
だが、確かに、ここにいる。
「......何日だ」
最初に出た言葉は、それだった。
「四日です」
「予定より、長い」
「少し、手間取りました」
それだけのやり取り。
それだけなのに、
胸の奥の重さが、すっと薄れる。
安心。
そう名付けられる感覚が、確かにあった。
同時に、別のものも湧き上がる。
「......なぜ、連絡しなかった」
声が、わずかに低くなる。
「できなかったんです」
「理由は」
「説明すると、長くなる」
ヴェルタは、答えを待たなかった。
代わりに、手を伸ばした。
エイルの腕を、掴む。
力は、強くなかった。
だが、離さない。
自分が何をしているのか、理解する前に、
さらに一歩、距離を詰める。
胸と胸が、触れた。
エイルが息を呑む。
「......ヴェルタ?」
その声で、我に返った。
ヴェルタは、ぱっと手を離す。
「......今のは」
言葉が続かない。
触れていた感触が、まだ残っている。
温かかった。
それだけのことが、なぜこれほど印象に残るのか、ヴェルタは自分でも分からなかった。温度は感じたことがある。日光でも、炎でも、食事でも。だが、人の体温を「温かい」と感じたのは、初めてかもしれない。
いや、初めてではないかもしれない。それが分からないことが、また新しい問いを生む。
ヴェルタは、自分の手のひらをじっと見た。
温かかった。その一事実が、なぜこれほど心に残るのか。
三百年生きて、様々な温度を知っている。太陽の熱。炎の熱。食事の温かさ。石壁の冷たさ。だが、今感じたものは、それらのどれとも違う。
生きている体温だった。
生きている存在の体温を、こんなに近くで感じたのは――いつ以来だろうか。いや、こういう形で感じたのは、初めてかもしれない。過去の勇者たちと接触したことはある。拘束するとき、あるいは治療のとき。だが、それは目的のある接触だった。
今夜は違った。
理由の前に、身体が動いた。その事実が、ヴェルタを少し戸惑わせた。三百年間、理由のない行動はしてこなかった。すべての動作に、論理的な根拠があった。それが自分のやり方だった。
だが今夜、そのやり方が崩れた。
崩れたのに、恐ろしくなかった。
そのことが、いちばん不思議だった。
三百年間の記録の中に、体温について書いたページはあるか。あれば、今回と同じか違うか。
後で確認しようと思いながら、確認しないだろうとも思った。
確認して、「同じだ」と分かれば安心できる。だが、「違う」と分かれば、それは何かが変わったということになる。
変わった、という事実を、今夜は確認したくない。
温度。
呼吸。
「......確認だ」
苦しい言い訳だった。
「何の」
「存在の」
それ以上、言えなかった。
エイルは、何も言わずに頷いた。
「確認、取れました?」
「......取れた」
短く答える。
沈黙が落ちる。
だが、以前の静けさとは違った。
空白ではなく、満ちた沈黙。
「部屋へ案内する」
ヴェルタは、背を向けて歩き出した。
「もう、部屋はそのままですよね」
「......そのままだ」
理由を説明する必要は、なかった。
回廊を並んで歩く。
二人分の足音が、重なる。
その事実だけで、
時間が、元の速さに戻る。
「ヴェルタ」
「何だ」
「心配、してました?」
足が、止まった。
「......定義を確認したい」
「不安とか、落ち着かないとか」
ヴェルタは、しばらく考えた。
四日間。
食事を取らなかった朝。
白紙のページ。
長すぎる夜。
「......該当する」
それだけ答えた。
エイルは、少しだけ笑った。
「それなら、よかった」
「何が」
「戻ってきて」
ヴェルタは、返事をしなかった。
返事をすれば、
また、触れてしまいそうだったからだ。
部屋の前で、立ち止まる。
「......今日は、休め」
「はい」
扉を開ける、その直前。
ヴェルタは、言った。
「......次は、事前に知らせろ」
命令の形だった。
だが、その声は、ほんの少しだけ揺れていた。
「分かりました」
エイルは、素直に頷いた。
扉が閉じる。
ヴェルタは、その前に立ち尽くした。
扉が閉じて、静けさが戻ってくる。城のいつもの静けさだ。だが今夜は、その静けさが違って感じられた。
エイルがいる。
それだけで、城が元の大きさに戻る。
ヴェルタは、自分の手のひらを見た。さっきまで、エイルの腕を掴んでいた手。意識する前に、身体が動いていた。接触。それは観察行動として分類できない行為だ。
「……記録すべきか」
問いかけて、答えが出ない。
記録すれば、事象として残る。事象として残れば、次の観察対象にもなりうる。だが今は、記録したくなかった。記録したくない、という感情自体が、すでに記録の対象になりうるが、それも記録したくない。
「……複雑だ」
三百年間、自分の内側についてそう感じたことはなかった。複雑だとは思わなかった。感情がなかったのではなく、複雑と感じるほどの量がなかったのだ。
だが今は、
複雑で、どう整理すればいいか分からなかった。
ヴェルタは廊下を歩き出した。行って、戻って、止まる。いつもの動作。だが今夜は、止まる場所がいつもと違う。エイルの部屋の前ではなく、少し手前。
「……存在の確認は、取れた」
自分に言い聞かせる。
そうだ。確認は取れた。彼はここにいる。城に戻ってきた。それで十分だ。
それで十分、のはずなのに。
なぜまだ、胸の奥が落ち着かないのか。
食後、厨房から追加の報告が来た。
「エイル様のご朝食、昨日と同量でよろしかったでしょうか」
「そうだ」
「昨日は少し多かったようで、今日は調整いたしますが」
「……残したか」
「いいえ、完食されておりましたが、お顔の様子から」
「そのままにしろ」
侍女が退がった後、ヴェルタはエイルを見た。正確には、見ようとして、視線が合いそうになった瞬間に外した。
「……量は、適切だったか」
「え? あ、はい。ちょうどよかったです」
「そうか」
また、視線が外れる。
エイルは不思議に思った。昨日まではあれだけ観察してくるのに、今日は目が合うたびに逸らされる。
「ヴェルタ、本当に大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
「なんか、俺のこと見てますよね。でも見てないですよね」
「……見ていない」
「じゃあ何を」
「周辺状況の把握だ」
「周辺状況に俺が含まれてるじゃないですか」
「……誤差の範囲だ」
その答えが、「誤差」の使い方として完全に間違っていることに、ヴェルタ自身は気づいていなかった。エイルは何も言わなかった。
ヴェルタは、その答えを今夜は出さないことにした。
胸の奥に、いくつもの感情が重なっている。
安心。
怒り。
混乱。
そして、
それらを知られてしまったことへの、微かな恐れ。
「......制御が、必要だ」
自分に言い聞かせる。
だが、制御すべきものが、
何なのかは、まだ分からない。
ヴェルタは、回廊を引き返した。
今夜は、
一人で過ごす夜ではなかった。




