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我が飼いヒトよ、おまえはどこへも行かせない  作者: 明石竜


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第十二章 仮の別れ

 エイルが戻らなかった翌朝、魔王城は少しだけ広くなった。

 そう感じた理由を、ヴェルタは記録できなかった。

 廊下を歩く。

 足音が、いつもより長く響く。

 行って、戻って、止まる。

 それだけの動作なのに、時間が伸びている気がした。

 エイルの部屋の前で、足が止まる。

 扉は閉じられている。

 当然だ。もう、彼はここにいない。

 それでも、ヴェルタは数秒、その場に立っていた。

「......不在を確認」

 小さく呟き、踵を返す。

 確認しただけだ。

 それ以上の意味はない。

 朝食の時間になっても、

 食堂の席は一つ、空いたままだった。

 侍女が気を遣うように、少し遅れて声をかけてくる。

「本日は、軽めのお食事をご用意しておりますが......」

「不要だ」

 即答だった。

「......承知しました」

 侍女が下がる。

 ヴェルタは、卓上に置かれた皿を見た。

 パンと、スープと、肉。

 エイルがいつも選ぶ組み合わせだった。

「......下げろ」

 二度目の命令は、少し遅れた。

 午前中、ヴェルタは玉座の間にいた。

 だが、仕事はほとんど進まなかった。

 報告を聞き、指示を出し、書類に目を通す。

 すべて、いつも通りだ。

 なのに、指先が止まる。

 文字が、頭に入ってこない。

「......効率が、悪い」

 そう記録しようとして、やめた。

 何が悪いのか、説明できない。

 昼になっても、空腹は感じなかった。

 正確には、感じているのかもしれないが、判断できなかった。

 代わりに、胸の奥に、妙な重さがある。

 穴が、あいている。

 そう表現するのが、最も近いと分かっている。

 だが、今回は少し違った。

 喪失感。

 それとは、似ているが、同じではない。

 夕方、回廊を歩いていると、

 例の場所に差し掛かった。

 夜になると、よく立ち止まっていた回廊の角。

 無意識に、足が止まる。

「......通路だ」

 誰に向けた言葉でもない。

 だが、そこに立っても、

 もう話し相手はいない。

 時間が、伸びる。

 一人でいると、夜は長い。

 その事実を、改めて理解する。

 ヴェルタは、その場を離れた。

 夜。

 自室で、観察日誌を開く。

 いつもなら、すぐにページが埋まる。だが今夜は違う。

 ペンを持ったまま、白いページを見ている。何を書くべきか、分かっているはずなのに、書けない。

 エイルが去った。それは事実だ。理由も、行き先の方向も、大体の見当はついている。では、その「大体の見当がついている」という状態を、どう記録すればいいのか。

 感情として記録するか。論理として記録するか。

 どちらでもない気がした。あるいは、どちらでもある気がした。

 ヴェルタは、ページの上端に一文字だけ書いた。

「エ」

 それだけ書いて、止まった。

 続けようとして、続けられない。名前を書くと、それが確定してしまう。確定するということは、記録として残るということで、記録として残ったものは変化しない。変化しないものは、失いうるものになる。

「……失う」

 その語を、初めて、自分に対して使った。

 三百年間、何かを失ったことはある。勇者たちは死んだ。城の建物が老いた。時代が変わった。だが、それは事象として認識していた。今は違う。

 今は、

 自分が失いたくないという衝動が、先に来る。

 ページは、白いままだ。

 何を書けばいいのか、分からない。

『エイル、不在』

 そう書いて、ペンを止めた。

 それは事実だ。

 だが、それだけでは足りない。

 足りない理由が、分からない。

 紙の上に、ぽつりとインクが落ちる。

 ペン先を握る指に、力が入っていることに気づいた。

「......記録不能」

 それだけ書いて、ノートを閉じた。

 翌日も、その次の日も、ヴェルタはエイルの部屋の前で足を止めた。

 入らない。ノックもしない。ただ立ち止まって、扉の向こうが空白であることを確認して、また歩き出す。

 三日目、侍女が不思議そうな顔で見ていた。ヴェルタは視線に気づいたが、何も言わなかった。説明できる理由がなかったからだ。

「……通路だ」

 誰にも聞かれていないのに、そう言った。

 侍女は小さく頷いて、その場を去った。ヴェルタはもう一度、扉を見た。

 空白。

 その空白の重さが、日を追うごとに変わっていく気がした。軽くなるのではなく、形が変わる。最初は不在という事象だった。次第に、存在が予想される場所、になる。存在が予想されるのに存在しない場所、は、ただの空白よりずっと重い。

「……不合理だ」

 分かっていても、足は止まった。

 ベッドに横になる。

 目を閉じても、眠りは来ない。

 外の音が、遠い。

 城の中は、静かすぎる。

 以前は、それが普通だった。

 普通だったはずなのに。

 ヴェルタは、胸の奥に手を当てた。

 そこには、名前を知っている感情と、

 まだ知らない感情が、重なっている。

 安心は、ない。

 期待も、ない。

 代わりに、

 失いたくないという衝動だけが、残っていた。

 それが何を意味するのか、

 まだ、考えないことにした。

 考えれば、

 次に進んでしまう気がしたからだ。

 これは、別れではない。

 仮の、不在。

 仮の、静けさ。

 そう定義して、

 ヴェルタは目を閉じた。

 眠りに落ちるまで、

 夜は、ひどく長かった。

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