第3話 帳簿の端にいる人
王都の叔母の家には、猫がいた。
知らせには一言も書いていなかったのに、玄関の長椅子に灰色の塊が丸くなっている。私が手袋を外す間にも、叔母はその毛を上着から摘んでいた。
「飼い始めたのですか」
「向こうが住み始めたのよ。追い出しても戻ってくるから」
口ではそう言いながら、客間の窓にまで猫用の小さな踏み台が置いてある。
リタが笑いを堪えていた。私は玄関先で、少しだけ肩の力を抜いた。
叔母の家は王城から馬車で半刻の、古い住宅街にあった。市場へ歩いて行けるし、裏庭には早咲きの薔薇がある。私の部屋は庭に面していて、寝台の横には内側から掛けられる鍵がついていた。
「訪問客は、私が応接室へ通します。断るならリタに言って。会わなくていい相手に、玄関まで下りる必要はないから」
叔母は私の荷物を開けず、椅子へ座るように言った。
「婚約は、どう?」
「まだ、何も」
「そう。ではお菓子を食べましょう」
それだけだった。
話したくなるまで聞かない、という約束もなかった。叔母は菓子の箱を開け、蓋にくっついた砂糖を指で払い、ひとつを私の皿へ置いた。
その夜、私は叔母に、父の手紙には書かれていなかったことを話した。
リタにも傍にいてもらい、処刑された記憶があることと、その剣を持っていたのがギルベルトだったことを。
広場へ出る前に脱げた右の靴を履かせてもらったことも、目を閉じるように言われて拒んだことも話した。口にしているうちに息が浅くなり、途中で何度も待ってもらった。
叔母は未来のことが本当かどうか、すぐには分からないと言った。
「でも、あの人を怖いと思っているのは、今のあなたでしょう。それまで疑いはしません」
私は、頷くのに時間がかかった。
話が終わっても、叔母は扉を閉めずにおくかと尋ねただけだった。
私はその晩、窓を少し開けて眠った。
*
ギルベルトが訪ねてきたのは、翌々日の午後だった。
伯爵家の受領簿の写しは父の印章で封をしてある。王都側の照会には、領主が異議を申し立てた正式な書面を添えた。婚約者になったからといって、私が役所の棚を自由に開けられるわけではなかった。
「本日見られるのは、この四件です」
役所の閲覧室で、年配の記録係が机を指した。
机の向こうに原簿が置かれ、私たちはこちら側に座った。リタも後ろに控えている。ギルベルトは持ち込んだ外套を椅子の背に掛けてから、私の横に一脚分空けて腰を下ろした。
私は四件のうち、毛布の記録を開いた。
王都で発送されたのは、やはり二百枚だった。
途中の関所で四十枚が別便へ移されている。立会人二名。仕向け先は、領内北部の村。救恤を急ぐため、とあった。
その村の名を見たとき、私は頁を押さえた。
「こちらの受取人は、誰ですか」
「村長代理の、パウル・ヘッセですね」
「ヘッセさんは、一昨年の冬に亡くなっています」
記録係が目を上げた。
「同名の方では?」
「村は二十七世帯です。私は父の代わりに冬の配分を確認しました。代理に同じ名前の方はいません」
私は持参した受領者一覧を出した。昨冬のものにも、一昨年のものにも、ヘッセという名の横には死亡の注記がある。そのあとには未亡人の名前が記されていた。
ギルベルトが紙へ何か書きつけた。
「この頁について、保全の手続きをお願いします」
記録係は口を引き結び、担当を呼びに立った。
私は残された帳簿を見ていた。
前の人生で燃えたのは、こうした名前だったのだと思った。
暗号文や、国境線の図だけではない。毛布を受け取ったかどうか。夫を亡くした妻が、ちゃんと冬を越せるか。私の書庫にあったのは、そういう紙だった。
「ロザリンド様」
呼ばれて、顔を上げた。
「今の事実は、あなたのお名前で報告します。調査記録にも、そのように残します」
「父の名前ではなく?」
「照会は伯爵からですが、受取人の誤りに気づいたのは、あなたです」
当たり前のように言われて、私は少し戸惑った。
父の仕事を手伝ってきた。誰が何を見つけたかを、わざわざ分けて考えたことがなかった。
「私の記憶違いかもしれません」
「だから、村へ確認します。あなたもそうなさったでしょう」
確かに、そのとおりだった。
戻ってきた記録係は、原簿を箱へ移し、箱を閉じる前に私たちへ見せた。封紙に三人が名を記す。写しを取る間、別室で待つように言われた。
長椅子で待っていると、ギルベルトが入口へ目をやった。
「外に売店があります。何か、召し上がりますか」
「私は」
答えかけて、朝から茶だけだったことを思い出した。
「リタ、あなたも食べていないわね」
「お嬢様が、午前中に終わるとおっしゃったので」
わずかに責める口調だった。私は小さく謝り、リタと売店へ向かった。ギルベルトは廊下で待った。
戻ると、彼は膝に地図を広げていた。
「ご自分の分は?」
「後で」
「売店が閉まりますよ」
彼は地図を畳みかけ、私の手にある包みを見た。
私はひとつを差し出した。茶色の生地に干した果物が入っている、小さなパンだった。
「リタが三つ買ったのです」
リタは何も言わなかった。
ギルベルトは一瞬、受け取り方に迷ったようだった。私は自分で長椅子の端に包みを置いた。
「ここに」
「ありがとうございます」
彼は私が手を離してから、包みを取った。
別々の椅子に座り、私たちは同じパンを食べた。
*
確認には十日かかった。
その間、私は叔母と市場へ行き、家へ届いた父の手紙を読み、二日に一度、ギルベルトからの報告を受け取った。
毎日彼のことを考えている自分に気づくと、違う、事件のことだ、と言い直した。
父の追伸には、彼の家から婚約の記念品について問い合わせがあった、とあった。
『要らなければ、そう言っておく。指輪の寸法を聞く使いも、まだ寄越すなと頼んだ』
私は返事に、今は必要ないと書いた。
その翌日、彼から届いたのは、小さな木箱だった。
蓋を開ける前に、リタが差出人の手紙を読み上げた。
「記録用の鉛筆と、砂箱だそうです。役所ではインクを使えない場所があるので、と」
箱には指輪も、首飾りもなかった。
私は鉛筆を一本取った。削ったばかりの木の匂いがした。
次に役所へ行く日、私はそれを持っていった。
村から返事が来た。ヘッセ氏は確かに亡くなっていた。昨冬、毛布は一枚も届いていない。
父から転送された手紙には、現在の村長の文書とは別に、小さな紙が入っていた。
ヘッセ夫人からだった。
不足を尋ねられたため、昨冬のことを思い出して書いたという。足りない毛布の代わりに古い外套を縫い合わせ、孫に掛けたとあった。春になっても使えたので、まだ捨てていないらしい。
礼を言うような結びだった。今になって心配してくれて、ありがとうございます、と。
私はそこを、すぐに読めなかった。
足りないと気づくまでに、一冬が過ぎていた。
返事を書こうとして、ペンが止まる。必ず届けます、と書きそうになった。その時点では、私一人で約束できることではなかった。
次の面会で、私はギルベルトへ手紙を見せてよいか父に確かめ、許可をもらったうえで渡した。
彼は読み終え、紙の端を揃えて返した。
「伯爵家の備えから、先に補うことはできますか」
「父には、そのつもりがあります。ただ、こちらが弁償したから不足はなかったと扱われないよう、届け方を確認しているところです」
「支援の受領書と、昨冬分の不足の申述を別に残せると思います。担当者に確認しましょう」
私は頷いた。
「この方には、何て書けば」
そこだけ、声が小さくなった。
「約束できる日を確認してから、お返事したいのですが。ずっと待たせるのも」
彼は少し考えた。
「今は確認していると、書かれてはいかがですか。私なら、何も聞こえてこないより、そのほうが」
言いかけたところで、彼が止まった。
私も、彼の言葉の先を考えた。
牢で待つ私は、毎日よい知らせだけを欲しがったわけではない。今日も何も分からなかった、という話さえ、待っていた。
私はペンを取った。
その日の返事には、まだ確認が終わっていないと書いた。毛布を準備していることと、いつ運べるか分かり次第、改めて知らせることも。
余白に、縫い合わせた外套は捨てずにお使いくださいと書き足した。
関所の立会人の一人は、王都の軍需調達局へ異動していた。もう一人は、その時期の勤務表に載っていなかった。
「名前を借りたのですか」
私が聞くと、ギルベルトは頷かなかった。
「本人が不正に関わった可能性もあります。今は、どちらとも」
「分からないことを、分からないと書くのですね」
彼がこちらを見る。
私は鉛筆を持ち直した。
「前の時は、誰もそう言ってくれませんでした。私には、何も」
彼の表情が変わった。
「私もです」
「はい」
廊下から人の足音がした。私はそちらを見て、また紙へ目を戻した。
「今は、その書き方にしてください」
「分かりました」
その日の帰り道、馬車の窓から、彼が外套を直すのが見えた。
私たちを見送ってから、自分の馬へ向かうところだった。
歩きながら、彼は売店の包みを開いていた。今日は自分の分も買ったらしい。
私は窓から少し身を離した。
リタが向かいの席で、何も言わずに笑っていた。




