第2話 婚約書に書き足したこと
翌朝、父はギルベルトを伴わずに私の部屋へ来た。
手にした盆には、薄く切ったパンと林檎の煮物が載っていた。厨房から取り上げてきたのだろう。茶が受け皿にこぼれている。
「話を聞く前に、少し食べなさい」
私は寝台の端に座り、林檎を一切れ食べた。
甘かった。
昨日から、何もかも確かめるように口へ運んでいた。熱い、冷たい、甘い。それを感じるたび、生きていることを思い出す。
「彼は、どこまで話しましたか」
「昨夜、知っていることを全部書かせた」
父は綴じた紙を差し出した。
日付、人名、役職。記憶が曖昧な箇所には、その旨が添えてある。私の事件が起きるより前、今年の夏に北の河港で起こる倉庫火災のことまで記されていた。
「父さんには、先のことは分からない。ただ、既に照合できる話が一つあった」
父は二枚目を指した。
昨年、領内へ届けられた救恤用の毛布。王都の発送簿では二百枚、こちらの受領簿では百六十枚。父は雪害で荷が失われたという報告を受け、その年の処理を終えていた。
「不足分を、別の街で見たと言うんだ。三年後の捜査の途中でな。当時の自分には調べる権限がなかったとも書いている」
「それを今、調べるのですか」
「まずはこちらの受領者に聞く。未来の記憶では、訴状は出せん」
私は頷いた。
「前の時も、お父様は途中で、帳簿を取り寄せようとなさいました。逮捕される少し前です。父の家の控えだけでは数が合わないから、と」
その後、家に来るのは調査に協力する役人ではなく、父を疑う者たちになった。
父は私を見た。
「今度は、こちらから先に、監察院へ記録を残そう。局の説明を聞くだけにせずにな」
北の倉庫についても、父は火気管理と帳簿の保管状態を点検するよう、管理する役所へ申し入れると言った。未来の火災を理由にはせず、物資の不足が見つかったため、と。
私は、それも報告の紙へ書き加えた。
私は頁をめくった。
最後に、婚約の申し入れがあった。
顔を上げると、父は既に苦い顔をしていた。
「これを勧めに来たわけではない」
「分かっています」
ザイデル家は代々監察の補佐役を務め、ギルベルト自身も輸送護衛の実務を知っている。婚約者として王都の社交と記録庫へ同行すれば、父の家だけでは届かない話を聞けるかもしれない。
その一方で、婚約は彼に私と会う理由を与える。
私は紙を置いた。
「断ったら、彼は調べるのをやめますか」
「そう聞いた。やめないと言ったよ」
「では、婚約する必要は」
「絶対には、ない」
父がすぐに答えたことに、少しだけ安心した。
父はその日のうちに、王都に住む妹へ手紙を送った。ヘレーネ叔母様は夫を亡くしてから独り暮らしをしていて、私が数か月滞在しても困らないと言っていた人だ。
返事を待つ間、ギルベルトは父の執務室にだけ通った。私は自分で見聞きできることから始めた。
倉庫へ行き、毛布を数えた。受領簿の記名と、当日働いていた者の名前を突き合わせた。雪で荷を失ったはずの御者は、予定どおり着いたと答えた。
「荷車に積んであった数は、覚えていません。ただ、外で積み替えをしたのは確かです」
「どこで?」
「手前の関所です。役所の指図だと言われて」
私は御者を責めず、口述を父の書記に記してもらった。
その夕方、廊下の角でギルベルトと出くわした。
私は止まった。彼も止まった。
リタが私と彼の間へ半歩出た。
「廊下の先へ、行かれますか」
彼が尋ねた。
私は頷いた。彼は自分の通ってきた廊下へ戻り、扉の脇に立った。
私たちは黙ってその前を通った。
部屋へ戻ってから、私は自分に腹が立った。通り過ぎるだけで汗をかいている。あんな人と、婚約など。
けれど机の上には、書きかけの質問があった。
父には護衛の配置が分からない。御者は誰の印章だったか覚えていない。騎士の彼なら、命令の届き方を知っているかもしれない。
私は呼び鈴を鳴らした。
「リタ。父の執務室にいる方に、紙を届けてくれる?」
返事はその日のうちに来た。
関所で正式に荷を移すなら、通常は二名が立ち会うこと。受け渡し記録が残ること。王都側の控えを誰に照会できるか。
読みやすい、大きな文字だった。説明が長くなるところは別紙にしてある。余白に、私の質問の番号が振られていた。
彼から会いたいという言葉はなかった。
*
一週間後、叔母様の返事が届いた。
部屋は二つ空いている。リタも連れてくること。春の菓子を買って待っているから、痩せずに来ること。
追伸には、婚約の申し出について父から聞いたとあった。
『気が変わったら、いつでも私のところへ戻りなさい。理由は道中に考えればよろしい』
私はその一行を、二度読んだ。
そして父に、自分で条件を話すと言った。
応接室には、先日と同じ席が用意されていた。ギルベルトは今日も剣を外していたが、それを私が来る前に済ませていた。
私は机に紙を置いた。
「婚約しても、あなたの屋敷には住みません」
「はい」
「面会には、こちらが選んだ者を同席させます。連絡なしに訪問しないこと。身体に触れないこと」
「承知しました」
「調査で分かったことを、父と私にも知らせてください。私だけに隠して、父と話を進めないでほしいのです」
昨日までに、私は父へも同じことを頼んでいた。
ギルベルトは父を見ずに、私へ頷いた。
「分かりました」
「それから、婚約は、私から解消できます。理由をあなたが納得しなくても」
「はい」
私は紙を見下ろした。
いくつも用意した言葉が、あっさり受け入れられていく。もっと抵抗されると思っていた。気遣ってくれたことに礼を言わなくては、と考えかけて、やめた。
「断る条件は、ないのですか」
「婚約を受けてくださらなくても、記録の照会は続けます。それだけは、改めてお伝えしたいです」
「では、どうして婚約を」
彼はすぐに答えなかった。
私は紙の端を握った。
「私のため、という説明だけでは嫌です」
「……あなたに、会う理由が欲しかった」
父が椅子の上で動いた。
ギルベルトは、それでも私を見ていた。
「調査だけなら、お父上との連絡でもできます。婚約していただければ、お傍にいる理由ができる。それを願いました」
私は息を吸った。
初めて、申し出をした人の顔が見えた気がした。立派な理由だけを並べる人より、信じられるかもしれない。そう思ったことが、少し怖かった。
「それなら、その理由も書いてください」
「書面に、ですか」
「書かなくてもいいです。ただ、私は覚えておきます」
彼が一度だけ、目を伏せた。
「はい」
父が、確認するように咳払いをした。
「王都には、妹の家から通わせる。生活費も旅費も私が出す。卿の家からは受け取らない」
「承知しました」
「こちらが解消を申し出た時、娘の不品行などと噂を流さないことも、卿の家へ伝えていただきたい」
ギルベルトが一瞬、眉を動かした。
「家長である父にも、署名をさせます。私個人の約束だけでは、足りませんから」
その言葉に、私はようやく、自分たち以外の人がいることを考えた。
「ご家族は、どうお考えなのですか」
「父には、あなたへ会う前に話しました。未来のことではなく、私から婚約を望んでいることを。相手が私を警戒していることも」
「変な縁談だと、思われるでしょうね」
「理由を聞かれました」
「何と?」
ギルベルトは父のほうを見た。父が続きを促す。
「以前、あなたの信頼を損なったと。それでも、話を聞いていただけるなら、こちらの都合を優先したくないと言いました」
私は指を組み直した。
彼の家族に、本当のことは伝わらないだろう。知らない人が、いずれ私を我儘だと言うかもしれない。
「私があなたを嫌っている理由を、勝手に作らないでください。喧嘩をしたとか、気分を損ねたとか」
「はい。説明できないことは、そう申し上げます」
「私から話してよいことも、その都度、決めます」
彼は頷いた。
父が呼び鈴を鳴らし、書記を呼んだ。必要な条件を読み上げてもらい、私たちは一つずつ確かめた。
父の書記が紙を揃える間に、私はもう一度、自分がここへ座った理由を考えた。
助けてもらうために、婚約をする必要はない。父も、それは確認してくれた。
それでも、私は彼の手紙を待ち、顔を見れば、同じ記憶を持つ人がいると確かめてしまう。父にさえ説明しきれないあの三年間を、この人だけは覚えている。
会わずに父を通して話を聞けば、その日の言葉も表情も、私には分からない。また誰かが大丈夫だと言うのを待つだけになるのが、怖かった。
「私にも、理由があります」
私は書記から目を上げた。
「調査が進む間、あなたが何を選ぶのか、自分で見ていたいのです。家同士で面会の条件を残せば、どこまで近づけるかも、私から言えます」
父は黙って聞いていた。
「結婚できると思って受けるのではありません。途中で、できないと決めるかもしれません。それでも、この条件でよいのですか」
ギルベルトは書面を見てから、私へ頷いた。
「はい」
私は父が用意した契約のひな形へ、条件を書き足した。婚姻の約束としての体裁は整えてもらうが、私が申し出れば違約金なしに解消できることを、両家の立会人に確認してもらった。
署名する前に、手が止まった。
「あなたは、あの日」
続きが出てこない。
ギルベルトは待った。
「……いいえ。今は、聞けません」
「お聞きになりたい時に」
「その時、答えてくれますか」
「私の知っていることは」
私は頷き、署名した。
ペン先が紙を擦った。処刑台に続くものしかなかった私の署名が、今は違う紙の上にある。
最後の文字を書き終えても、彼は手を差し出さなかった。
私はそれを、ありがたいと思った。




